無題
小学2年生の夏休み。
親戚のおばあちゃんの家で遊んでいるとインターホンが鳴った。
おばあちゃんが玄関まで行く。
しばらくして呼ばれたので行くと、
そこには母とスーツを着た知らない女性が立っていた。
「帰るよ」と言われたので帰り支度をして家を出る。
家のまえに車が停まっている。
運転席にはスーツを着た知らない男性が乗っているのが見える。
なぜか玄関で母と親戚のおばあちゃんは泣いていた。
親戚のおばあちゃんは母に何度も「ごめんね」と言っていた。
車のなかでスーツを着た女性から説明を受ける。
これから母と妹と僕はある施設に入ること。
スーツを着た女性たちはその施設の職員であること。
学校を転校すること。
友達にはもう会えないこと。
「嘘だよね?友達にまた会えるよね?」
と聞くと母は「ごめんね」と一言だけ言う。
僕は渡された紙パックの野菜ジュースを飲み、
流れる景色を見るともなく見る。
1学期の終業式の日の帰りの会で
隣の席のメイケちゃんに「またね」と思いっきり叩かれたこと、
スーパーファミコンのマリオRPGのデータを消されて
ヨシキくんの自転車のサドルに唾を垂らしたこと、
シモヤマくんの家で
コンセントを半分ささった状態で触る遊びをしていたいこと、
公文の夏休みの宿題を部屋の机の裏に隠していたこととかを
ぼんやりと思い出した。
1時間くらいで施設に着いた。
その施設はいろいろな事情を抱える女性やその子供しか入れない。
3階建ての病院のような施設。
1階は受付や食堂や体育館。
2階は一時的に入っている人たちの居住スペース。
夏なのに共用のお風呂は週3回しか入れない決まりだった。
3階は施設の人に絶対に行ってはいけないと言われていたが
同じように女性たちが暮らしていた。
たぶん僕らよりずっと前からいる人たちだった。
母と妹と僕はこの施設の2階にある8畳ほどの部屋で
過ごすことになった。
2階には僕らの他にも年齢も事情も様々な女性たちが
10人くらいいた。
その中にコバがいた。
コバは29歳。
コバは野球部みたいに髪が短い。
コバは九九が言えない。
共有スペースで2階に1つしかないテレビで
アンビリーバボーを見ているときだった。
当時は夏になると心霊特集をしていて僕は怖いのをごまかすために
「2の段どっちが早く言えるか勝負しよう」と言うと、
「いやだ」とコバは言う。
「2×7は?」と聞くと指をゆっくり2本ずつ折って数えはじめる。
「九九わからないの?」と聞くと
顔を真っ赤にして走って追いかけてきて本気でお尻を蹴られた。
違う日に食堂で朝ごはんを食べていると、
僕たちと離れた席に3階に住む人たちが座っていた。
するとひとりの女性が箸でご飯を口に持っていく途中で、
目も口も開けたままパントマイムしているみたいに止まって動かなくなっていた。
そこだけ時間が止まっているみたいだった。
母から「見るんじゃない」と言われた。
「薬の飲み過ぎね」と誰かが言う声が聞こえた。
僕はいつドッキリのフリップを持った人が
来るんだろうと思って過ごしていた。
親戚のおばあちゃんの家のインターホンが鳴ったあのときから、
壮大なドッキリにかけられている気がした。
転校もウソ、友達に会えなくなるのもウソ、
母の涙もおばあちゃんの涙もウソ、
コバが九九を言えないのもウソ、
パントマイムみたいに止まっている3階で生活する女の人もウソ、
全部全部ウソでした、ドッキリでしたって。
2学期。
新しい学校で新しい友人たちと迎えた。
誰にも言えない無題のままになった夏休みの思い出とともに。
そして時が過ぎ、2023年。
TCC新人賞受賞取り下げウソでしたなんてフリップを持った人はもちろん来ない。