安藤隆 2014年9月29日「面影飯店、葡萄色」

面影飯店、葡萄色

ストーリー 安藤隆
   出演 大川泰樹

 太る男はきょうも太る。せんだってまで3
畳ほどだったのに、いまは4畳半ほどにまで
太ってしまった。
 そのことについて、なぜそのように太るの
か太る男よ、となじられても困る。だってそ
れはおれのせいですか。
 太る男は憤慨し、憤慨すると目をそらす。
だっておれには、悲しみを怒りに変えて燃や
す内燃機関が、生まれつき備わっていないの
だといきりたつ。いきりたつとうつむく。う
つむいてお辞儀する。

 面影飯店の二重になったカーテンの内で、
ベッドの上やそこかしこで、太る男は朝から
すでに太りはじめている。
 たしかにカロリーメイトのようなものをぽ
ろぽろ食べたし、ウイダーインゼリーのよう
なものをちゅうちゅう吸った。部屋に降り積
もったそれらの滓や容器のうえに、スカート
みたいな尻を、ぺったんこつけて座るものだ
から、尻には滓や容器の跡が、赤い点々とな
ってついた。それから太る男は、厚く塗った
口紅を、壁一面の作りつけの鏡にぶにゅと押
しつけた。
 二重になったカーテンの外は暗い旬である。
中国人たちの苛立ちのクラクションが、交差
点の真脇にあるこの鏡の間までとどく。けれ
どひっきりなしの喧噪の奥から、猫がミルク
を舐めるような静寂が伝わってくるのは、雨
が降っているせいだと太る男は推測する。

 1991年春の桂林もまた冷たい雨の底に
沈んでいる。土饅頭のような山々を、有るか
無きかの煙雨(けぶりあめ)が、絶え間なく
覆って物事と物事の境界を曖昧にしている。
見えない雨のなか、人々は黒い合羽を着て黒
い自転車を漕いでいる。
 夕暮れになると太る男は面影飯店前の、
雨に汚(けが)れた石畳にずらり並ぶ赤と青の
パラソルの下で、鍋の犬肉を食べた。スープ
に沈む豚の脳みそを、噛まずに呑んだ。唇は
脂に濡れ紫色に照り光った。
 それらは四半世紀たっても消化しきらず、
太る男の太っ腹の中で、表面の溶けた胎児の
ようなものとなり、折々に憂鬱を発動する。

 君の指がくるくると黒いフェルトペンを回
している。太る男の目がそこから離れられな
いのを知って、ひらひらと少し隠す。性器を
少し隠すように。君はやはり稀代のエロ女。

 煙(けぶり)のごとき雨は、世界の隙間に
嬉々として入り込み、われらのジャージの下
の恥骨までひたひた水浸しにしている。
 あんたは日本人かね。脳みそスープの店主
である中国人の父親が尋ねる。
 そうそうそうそう!ニホンジン!
 店主の横に座っている利発そうな長男が、
悪い日本人を睨んでいる。
人民帽を深く被った静かな人々によって、
雨のなかをゆっくり漕がれる自転車の、荷台
のみすぼらしい筵(むしろ)の下から、皮を
剥がれた犬の葡萄色の足が覗けている。
 屈辱と寒さと恐怖で微細に震えている。よ
ほど怖かったのか死んでからも震えている。



出演者情報:
大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

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