煙草と五万円
煙草に火をつけ、深々と煙を吸い込む。
薄暗いバーの店内。年季の入ったカウンターの上には、
ぞんざいに置かれた旧札ばかりの五万円。
くらり、とめまいがして、カウンターに手をついた。
なにか、大事なことを忘れているような気がする。
大丈夫、少しずつ思い出しますから、と遠くで誰かの声がする。
そういえば、あの夜、わたしはかなり酔っていた。
仕事でのミスをうじうじと思い返しながら、
惰性のようにグラスを空け続け、煙草を吸い続けていた。
カウンターの隣の席に座っていた女性が、
際限のない煙を嫌がってか席を移っていった。
このご時世、いくら煙草が吸える店だとは言え
ヘビースモーカーの肩身は狭い。
こんなものはいつだってやめられるんだ。
きっかけさえあればね。
誰に聞こえるともなく、つい言い訳をしたわたしに、
ふと、誰かが話しかけた。
では、きっかけを差し上げましょうか。
例えば、お客さんが次にうちにくるまで
煙草を吸わないでいられたら、五万円差し上げる、
と言ったらどうです?
え、と顔を上げると、店のマスターと目が合った。
シニア、というよりも老人と言った方がしっくりくる、
そんな枯れた雰囲気の男だった。
唐突にごめんなさい。
いや、わたしも同じような経験がありましてね。
と笑いながら、マスターは続ける。
例えば、二週間。二週間後にうちに来ていただくとして
それまで吸わないでいられたら、五万円です。
どうです? いいきっかけになりませんか?
マスターはそう言うと、
引き出しから茶封筒を出してカウンターに置いた。
そんなことをして、マスターにどんないいことがあるんだい。
意外な申し出に、わたしは思わず問いかけた。
いやね、実はこの五万円、ちょっとしたいわくつきでしてね。
そう言ってマスターは自分の昔話を始める。
わたしも禁煙をめぐって先輩と約束したことがありましてね。
二週間、煙草を吸わないでいれたら五万円やろう、と、そうです、
いま、わたしがお客さんに言ってるのと同じ約束です。
煙草なんて、すぐやめられる、やめられないやつの気が知れない、
そんなことを言っていた手前、どうにも引っ込みがつかなくてね、
その話に乗ったわけです。
そして二週間後、先輩に会ったわたしは、
一切煙草を吸わなかったことを伝えて、
無事、五万円を手に入れました。
しかしほんとのところは違いました。わたしはその約束をした
次の日から煙草を吸っていたんですからね。
次の日も、また次の日も、どうせわかりゃしないんだからと
毎日、いつも通り煙草を吸いました。
そうです、とんでもない嘘つきです。
その先輩は、若いわたしを思って、禁煙できるようにと
分の悪い賭けをしてくれたのに、
わたしときたら、そんな思いやりを踏みにじって、
五万円をせしめたわけです。
煙草なんて、もう見たくもない、そう言ったわたしに
五万円を渡したときの先輩の顔。
あの顔が、頭にこびりついて離れないんですよねえ。
遠い目をしたマスターの横顔に、一瞬影がさす。
その影に、深い後悔と絶望のようなものを見た気がして
ふと目を伏せる。
そのときせしめた五万円が、これです。
しかし、どうにも後味悪くてね。結局こうして使わずじまいです。
まあ、ちょっとした罪滅ぼしってやつです。
これであなたが煙草を辞められたら、この五万円も浮かばれる
ってもんです。
そういってマスターが差し出した茶封筒を改めて良く見てみると、
確かにかなり古びている。
いまのマスターの年齢からすると、相当昔の話のようだが、
あながち嘘でもなさそうだ。
わかりました。じゃあ、乗りましょう。
ただし、わたしは本気で禁煙したいんだ。
もちろん嘘なんてつきませんよ。
正々堂々と、二週間きっちり禁煙して、五万円、頂きましょう。
酔いに任せてそう啖呵を切ると、わたしは手にした煙草の、
息の根を止めるように灰皿に押し付けた。
二週間後、わたしは同じバーの同じ席に座って
マスターからの五万円を受け取る。
もちろん、煙草はやめてはいない。
やめてはいないが、やめたことになっている。
どうせわかりゃしないんだから、と思っている。
禁煙、おめでとうございます。わたしも、たいへんうれしいです。
そういうマスターの笑顔がなんだか変に見えたのは、
きっとわたしの歪んだ気持ちのせいだろう。
因果応報ってやつさと、心の中でつぶやく。
マスターの目が、店の明かりを捉えて、ちらりと光る。
わたし、こう思うんです。
約束っていうのは、一種の呪いなんじゃないかなってね。
約束した人を、何かに縛り付ける力がある。
そういえば、煙草ってのは、昔、呪術に使われていたそうですね。
煙草と悪魔、なんて話もありましたっけ。
そういいながら、マスターが火のついた煙草を勧めてくる。
いやわたしはもう、煙草なんて見たくもないんだ、とつぶやく。
しかし言葉とは裏腹に、わたしはマスターが差し出す煙草を、手に取っている。
そして、ゆっくりと口に運ぶと、深々と吸い込む。
くらり、と世界が傾いて、そのまま横ざまに倒れたと思った瞬間、
わたしはバーにいた。カウンターの内側に。
片手に煙草、片手にぼろぼろの茶封筒をもって。
ゆっくりと煙が漂う中、わたしは五万円を古びた茶封筒に入れ直し、
カウンターの下にある引き出しにしまいこむ。
そして、ふと思う。そろそろ、店を開ける時間だ。
代り映えのしないここでの仕事に就いて、もうずいぶん経つ。
この店に立ち始めたのが、いつからだったのか、もう忘れてしまった。
何か大切なことを忘れている、
そんな気持ちも、吐き出した煙と一緒に薄れて消えた。
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出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属