上田浩和 2021年4月11日「鏡の向こうは誰の顔」

鏡の向こうは誰の顔

   ストーリー 上田浩和
      出演 清水理沙

誕生日が近づいている。
鏡の向こうで高橋慶彦と瓜二つの私の顔が曇った。
40歳の1年は、とても穏やかにすごすことができた。
元広島東洋カープの高橋慶彦といえば端正な顔をした二枚目。
ここ7、8年で随分増えたカープファンにはもちろん、
そうではない女性からの評判も良かった。
しかし、41歳の顔が誰になるのかは分からない。
ここで、私のことを知らない人のために少し説明しておこうと思う。

私には、私の顔がない。
私の顔は、自分の年齢と同じ背番号のプロ野球選手の顔になる。
つまりは、こういうことだ。
自宅の分厚いアルバムの最初のほうには、
1歳のときの王貞治の顔でハイハイしている写真がある。
ご存知の通り、王貞治の背番号は1だった。
3歳のときの写真は長嶋茂雄の顔を真っ赤にしてナポリタンを食べている。
6歳、小学校の入学式、校門の前で両親にはさまれ立っている私は、
当時の巨人の2番バッター、背番号6の篠塚だった。
15歳、中学を同じく巨人の名捕手山倉和博の顔で卒業し、
18歳、エースナンバー18を背負った桑田真澄の顔で高校を巣立った。
高校の卒業写真を開くと、
セーラー服を着たホクロの多い男が小さな枠に収まっている。
その下には、もちろん私の名前がある。
今の説明でお分りいただけただろうか。
この話をすると、たいていの人が、
子供の頃はいじめられなかったのか心配してくれるが、
そんなことは一度もなかった。
男子のほとんどはプロ野球ファンだったし、
女子のお父さんたちもたいがいそうだったから、
私はどちらかというとスター扱いされた。

さすがに恋愛は難しいだろうと思っていたが、チャンスは何度かあった。
最初は、24歳のとき。
強烈な巨人ファンだった彼が、
当時、高橋由伸の顔をしていた私に惚れ込んだ。しかし。
25歳になると同時に、広島東洋カープで背番号25だった
新井貴浩になった瞬間、彼は「顔がカープの選手の女とは付き合えない」と言った。
27歳、古田敦也の顔のときには、
俺と永遠のバッテリーを組まないかと真顔で迫ってきた男もいたが、
それも長続きはしなかった。
サイン交換がうまくいかなかったとでも言えばいいのだろうか。
私に、彼の女房役は無理だった。
それでも、36歳、元ヤクルトスワローズの池山隆寛の顔だったときに
知り合った男と結婚し、今では二人の子供のお母さんだ。
お産のたびに、生まれてきたばかりの子供の顔を見て、
私たち世代にとって背番号0といえばこの人、バントの名手、
巨人の川相昌弘でないことを確認して夫婦で喜んだ。
プロ野球選手の顔になる遺伝は、私の代で止めることができるようだ。
だが、不安はまだ残る。

上の子はこの春から小学生になるが、
私が子供の頃とは、野球を取り巻く環境がまるで違う。
他の競技に人気を持って行かれた今のプロ野球には、
あの頃ほどの影響力はない。
お母さんの顔がプロ野球選手だということを理由にして、
子供がいじめられることも十分に考えられる。
鏡の向こうで私の高橋慶彦の顔がゆがむ。
来年は、41歳。背番号41といえば、名選手が多い。
現役選手なら、ソフトバンクホークスの千賀滉大投手。
OBなら、巨人の斎藤雅樹投手と西武ライオンズの渡辺久信投手。
どの顔になるかは、誕生日が来ないことには分からない。
誕生日の朝、鏡の向こうの私は、誰になっているのだろうか。
子供のことを思うなら、せめて千賀投手がいい。
現役で、しかも超一流の選手の顔なら、
子供も学校でバカにされにくいのではないだろうか。



出演者情報:清水理沙 アクセント所属:http://aksent.co.jp/blog/

   

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いわたじゅんぺい 2021年4月3日「かんな 2021 春」

かんな 2021 春

     ストーリー いわたじゅんぺい
       出演 齋藤陽介

「ぶすのにおいがする」
とかんなは言った    。

かんなは5歳である。
春から保育園の年長組になる。

髪は伸び続けて、
もうおしりの下まで届く。
うんちの時は、
まくし上げないと
毛先にうんちがつく
長さである。

その長い髪を、
父は三つ編みもできないので、
朝はたいてい一本に結んで
保育園に届けるのであるが、
夕方になると、
フィッシュボーンだったり、
編み込みだったり、
三つ編みをぐるぐる巻いたお団子だったり、
立派な髪型になって戻ってくる。

いまどきそんな
長い髪の子もいないので
保育園の先生も
楽しんでくれているのだろう。
ありがたい。

朝は僕が保育園に届けるのだが、
朝のかんなは眠くて動きが緩慢なので、
抱っこでマンションのエレベーターに乗る。
それはささやかな
父と娘のふれあいの時間だったのだが、
先日エレベーターで同じくらいの歳の子に
「だっこしてる」
と揶揄されたことから、
抱っこを嫌がるようになってしまった。
いまでは朝から自分で歩く。
成長といえば成長なのだが、
こうやって父と娘の距離は
できていくのだろうなあ、
と思ったものだ。

かんなが最近好きなのは
「鬼滅の刃」である。
テレビでやっていたのを録画して
何度も見ている。
柱の名前も全員言える。
もちろん漢字は読めないのだが、
この前、
コロナ禍の「禍」の字を見て、
「このじ、禰豆子の『禰』じゃない?」   ネズコ
と興奮していた。
ひらがなもまだ怪しいのに、
漢字の雰囲気がわかるくらい
鬼滅の刃を何度も見ている。

同じように、
「天気の子」も
録画して何度も見ている。
主題歌も覚えていて、
「ぼくーにでーきるーことーは まーだあーるかい」
と歌っていたので、
僕が真似して
「パパーにでーきるーことーは まーだあーるかい」
と歌ってみたところ
「ない」
と冷たくあしらわれた。
「なんかあるでしょ?」
と食い下がったが、
「じゃあハッピーターンかってきて」
とかなり実務的なことを言いつけられた。

かんなは料理番組も好きで、
「大人になったら料理するの?」
と聞いたら
「うん。おかあさんになるからね」
と言ったあと、
「でもおなかきるのこわいな」
と言った。
「お腹切るの?」
「ぽちきすでぽちぽちとめるのこわいな」
「ホッチキスで?」
と僕が混乱していると、妻が
「帝王切開のこと言ってるのよ。
最近の縫合はホッチキスでやるから」
と教えてくれた。
うーん、描写がリアルだ。

テレビの話でいうと、
お金持ちのお宅訪問みたいな番組を見ていた時、
「これうちのとおなじだよ!」
と喜んでいたので、
同じ家具でもあるのかと思ったら、
ジップロックだった。
お金持ちもジップロックは使うようだ。

大相撲を見ていた時は、
「こんなばんぐみやだ!
おすもうさんが
たたかってるだけ!」
と怒っていた。

ひらがなはそれなりに
読めるようになってきて、
絵本を先生のように
みんなに読み聞かせるスタイルで
読んでくれるのだが、
その読み方が
「あ・さ・に・な・り・ま・し・た・く・ま・さ・ん・は※」
(※注:「わ」ではなく「は」で読んでください)
という感じで、
一音一音処理するのに時間がかかっていてかわいい。
まるで初期のAIのようである。
何を読んでも脅迫状のようで、
不穏な話に聞こえる。

この前は絵本を見て
「さ・わ・や・か」
と読んでいたので
「さわやかってどんな意味かわかる?」
と聞いたら、
ちょっと考えてから
「あおいのみもののんだあとにいうことば?」
と言っていた。
青い飲み物のイメージ戦略すごい。
ちなみに青い飲み物とは
サイダーのことらしいのだが、
娘はまだ炭酸は飲めない。

お店屋さんごっこをしていた時は、
「かってくれたひとには
ただでおかねをあげますよー」
と言っていて、
すごい売り文句だと感心した。
やってることはただの割引なのに、
ものすごい大盤振る舞い感。
政府も
「旅行に行った人には無料でお金をあげますよー」
って言えばよかったのに。

絵を描くのも好きで、
最近は絵の具も使う。
僕が
「何の絵?」
と聞くと、
「ぱぱにはおしえない」
と娘。
「何してるところ?」
と聞いても
「ぱぱにはおしえない」
の一点張り。
「教えてよ」
と食い下がると
「だからぱぱにはおしえないをしているところ」
と教えてくれた。
「パパには教えない」
というタイトルの絵だったようだ。
なんか深い。
ちなみにピンク色の人に
黒い影がついた
ムンクの心理描写のような絵であった。

工作も好きで
夜10時を過ぎると突然
目がさえ出して
毎日のように工作をはじめるのだが、
この前、
「キューテープどこ?」
と聞かれて
「?」と思っていたら、
セロテープのことだった。
小さいセロテープの
テープカッターを縦にすると
数字の「9」に見えるから
そう呼んでいるらしい。

世の中はコロナだなんだと
落ち着かないけれども、
子どもは元気に成長している。

そういえば、
この前、散歩をしていた時に突然
「ぶすのにおいがする」
と言い出して、
周囲に女性がいないかと慌てたが
「どぶのにおい」
の言い間違いだった。

運河が流れる街なので、
暖かくなると
ドブのにおいがするのだ。

「もうすぐ春だね」
と言うと
「はるってなに?」
と言っていた。

ぶすのにおいは
春のにおい。

今年の桜は、
早いかもしれない。



出演者情報:齋藤陽介 03-5456-3388 ヘリンボーン所属





かんな 2020夏:http://www.01-radio.com/tcs/archives/31699
かんな 2019冬:http://www.01-radio.com/tcs/archives/31528
かんな 2019夏:http://www.01-radio.com/tcs/archives/31025
かんな 2018秋 http://www.01-radio.com/tcs/archives/30559
かんな 2018春:http://www.01-radio.com/tcs/archives/30242
かんな 2017夏:http://www.01-radio.com/tcs/archives/29355
かんな:http://www.01-radio.com/tcs/archives/28077

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中山佐知子 2021年3月28日「歩幅」

歩幅

   ストーリー 中山佐知子
      出演 遠藤守哉

歩幅が狭くなった。

理由はわかるような気がする。
家にいる時間が長過ぎるのだ。
家の中を大きな歩幅で歩いていると、敷居を踏む、
ドアノブに上着をひっかける、
トイレへ行こうとしてトイレのドアを行き過ぎる。
挙げ句の果てに足音がうるさいとも言われる。
そんなことを繰り返すうちに
歩幅が自宅サイズになってしまったのだろう。

そういえば、ここしばらく一生懸命に歩くということがない。
仕事はほとんど自宅のパソコンでことが済むし、
歩くといえばせいぜい買い物か散歩だ。
道端に咲いているタンポポ や
もうすぐ咲きそうな母子草を眺めながら
だらだらと歩くのがいけないのだろうか。
人が二本の足で歩くようになって
もう700万年にもなるというのに、
たった一年で歩く機能が退化するとは情けない。
なんとかしなければ。
それにはまず「歩く」ことへの意識を高めることが大事だ。

まず、家の廊下を歩いてみた。
重心は完全に後ろ足で、体重の乗らない足が前に出ている。
足音を立てないために着地は足の裏全体で行い、
その足が完全に着地してから後ろ足が床を離れ、
体重が前に移動する。
静かだし、安定感は抜群だが、
歩幅は狭くなるし、あまり早くは歩けない。
歩幅を広げようとちょっとだけ腰を落としてみると
子供の頃にやった「抜き足さし足」にそっくりだった。
家の中はもしかしたら、
歩くのに適していないのかもしれない。

次に外に出て歩いた。
会社へ行くときのように、前を見て真剣に歩いた。
後ろ足が地面を蹴り、前に出した足は体重を乗せて着地する。
体重を受け止めるのはカカトという小さな面積だ。
その衝撃がなかなか手強い。
床ならさぞ大きな音を立てるだろう。
足の裏は着地と同時に次の動きに入るので安定が悪い。
重心が足の裏に戻ってこない。
意識したことがなかったが、二足歩行はわりと危険だ。
そう考えると、
人が歩いているのは偉大なことのような気がした。

雪国では滑らないように膝を曲げ、
山道は小さい歩幅で。
田んぼでは足の裏全体を使って、人は歩く。
たくさん歩きかたを持っている人は
どんな場所でも自由自在に対処できる。

歩くことは生きること。
ふとそんな気がした。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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安藤隆 2021年3月21日「引きこもり線の思い出」

引きこもり線の思い出
   
   ストーリー 安藤隆
     出演 大川泰樹

 ヒグマさんは、私たち同様、道の真んなか
をなかなか歩けません。自動車がこないよう
な細い路でも、真んなかを歩くには勇気がい
るタイプの中年です。
 そのヒグマさんが、道の真んなかをにやに
やして歩いています。そこは草ぼうぼうの引
き込み線跡で、線路が邪魔なので、端っこよ
り真んなかのほうが歩きやすいのです。
 ヒグマさんが考えるに、引き込み線のいい
ところは道幅が狭く、ハウスのあいだをくね
って通っているところでした。適度にカーブ
して、先が見え隠れする道ほどそそられる道
はありません。
 その線路の撤去が、ついに明日はじまると
いうのです。ヒグマさんは落ち着かない気持
ちになって、缶ビール片手に引き込み線跡を
うろつくのでした。
 線路が二手に分かれる分岐点があります。
ほかより開けた場所でセイタカアワダチソウ
が茂っています。ヒグマさんは缶ビールをあ
けました。以前の夏、その場所に椅子を出し
て、昼から酒盛りをしたことがあったからで
す。沿線のハウスはぼろ家でしたが、広い庭
を作業用に使う彫刻家など、奇妙で優しい人
たちが借りて住んでいました。
 若い彫刻家の安田くんが「四国で煙突をつ
くるさいはよろしくね」と言って、年上の彫
刻家の富田さんに、与論島の強い焼酎をすす
めました。「口のなかに火がつきますよ」「え、
ラム酒より強いの?」富田さんは直射日光を
受けた赤い顔を嬉しそうにテカらせました。
クレーン車の運転免許を持っている富田さん
は、「煙突のような大物彫刻」を作る助手と
して、四国までいくことになっているのでし
た。彫刻が完成したら連絡するから必ずみに
きてねといいおいて、けっきょく四国へ移り
住んだ安田くんから、以後連絡は途絶えてい
ます。
 しかし富田さんよりも先に焼酎を飲みほし
たのは、劇団主宰者の小野さんでした。「あ
んがい甘いでしょ?」と安田くんに聞かれて、
照れたようにうなずきました。よくいる中年
のようにいつも野球帽をかぶり、影のように
おとなしい小野さんと、彼のミュージカル団
が結びつきません。その小野さんは、あの酒
盛りの日からまもなくして家出した、と聞い
たきりです。劇団員の女子学生と恋愛した、
とも聞きます。女子学生とのつきあいにおい
ても、あの広島カープの野球帽は脱がないの
かなあと、ヒグマさんは家出よりそっちを気
にしました。
 その日いたもうひとり、写真家の金森さん
は多摩川の草花の写真を撮っています。「イ
ヌノフグリはひどいよー」と笑いました。
 考えたら安田くんも、富田さんも、小野さ
んも、金森さんのこともすきでした。考えた
らあんな良い日はもうこないだろうなと思い
ました。
 缶ビールを飲んでるあいだに、セイタカア
ワダチソウが、同じ背丈に伸びています。急
に小便をもよおし、茂みに隠れました。
 ヒグマさんは、私たち同様、うずくまるば
かりの日常ですが、そのせいか「遠く」とい
う言葉がすきです。廃線の線路が、荒れた森
のなかのトンネルに消えてゆく風景を、テレ
ビでみると、「遠くの遠く」を想像してぼん
やりしてしまいます。



出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

 

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川野康之 2021年3月14日「道」

       ストーリー 川野康之
          出演 地曳豪

最初に「旅」をしたのはいつだったろうか。
その朝、僕が寝坊をして起きてくると、
兄はもうキッチンで朝食を食べていた。
手に持った小さな白い紙を真剣な顔をして読んでいた。
兄が急に大人っぽくなったように見えた。
「今日から旅を始めるよ」
と、僕を見ると言った。
「わかってる」
自分が緊張してくるのがわかった。
兄は時計を見て、
「時間だ」
と言って立ち上がった。
兄が出発した後、僕はキッチンに一人で座った。
時は少しずつ、過ぎていく。
鞄が置き忘れてあった。
その横には兄が読んでいた白い紙も。

問題
兄は毎分50メートルの速さで歩いて学校に向かいました。
兄が忘れ物をしたのに気づき、弟が5分後に走って追いかけました。
何分後に追いつけるでしょうか。
弟が走る速さは時速6kmとします。

家を出て5分後に、僕は兄に追いついた。
「忘れ物だよ」
手渡した鞄を受け取ると、兄はほっとしたように笑った。
二人ともなんだか照れくさくてあたりをキョロキョロ見回したりした。

それから僕たちは、いくつもの「旅」をした。
学校と家との間を何度も往復した。
だんだん慣れてくると、行動半径が広がった。
ある時は学校の帰りに図書館に寄って本を借りたり、
ある時は公園の池のまわりを歩いたりした。
兄も僕も、いつも正確なペースで歩くことができた。
僕たちは決められた時間に正確に出会い、追いつき、そして追い越された。
こういうことを旅と呼んでもいいのだろうか、と僕は兄に尋ねたことがある。
「いいんだよ。昔からこれは旅人算と呼ばれているんだ」
「なんで旅人なの?」
「わからない。でもそういう風に呼ばれているんだ」

一度、僕は「旅」の途中で子犬を見つけて、道草をして遊んだことがあった。
風が吹いてきて、子犬の柔らかい毛をふわふわと運んで行く。
気がつくと時間を忘れていた。
土手沿いの道をあわてて走った。
兄は、僕と出会うはずだった公園の入り口で、一人で待っていた。
足もとに白い紙が落ちていた。

それから兄はときどき僕を誘わずに、一人で「旅」に出かけるようになった。
他の人と「旅」をしていたようだ。
兄が忘れて行った紙を僕はちらっと見たことがある。

みちるさんは10km離れた隣町に住んでいます。
みちるさんは兄に会うために時速3kmで歩き始めました。
兄はみちるさんの町に向かって自転車で出発しました。

その頃から僕も一人で旅をしたいと思うようになった。
括弧付きの「旅」ではなく、ほんとうの旅を。

ボートハウスの前で兄は待っていた。
手にした白い紙を見つめて何か考え事をしているようだった。
池の水に朝の光が反射して、兄の顔の上で揺れた。
彼は顔を上げ、まぶしそうな目で僕を見た。
僕たちは背中合わせに立った。
道にライラックの花が咲いていた。
兄は僕に紙を手渡した。
「さあ、歩こう」
池を一周する道を僕たちは正反対の向きに歩き始めた。

問題
ある池のまわりを、兄は時計方向に、弟は反時計方向に同時に歩き始めた。
1分間に兄は50メートル、弟は30メートル歩くとすると、
二人が出会うのは何分後か。
ただし池のまわりの長さは・・・

そこまで読んで、僕は紙をくしゃくしゃに丸めてポケットにつっこんだ。
池の周囲は1.2kmだ。
何度も歩いたから知っている。
僕たちは15分後に出会うだろう。
しかし、僕はわかっていた。
もう兄と僕が出会うことはないだろう。
その前に僕はこの道を外れ、遠くに向かって歩き出すのだ。
池の向こうを彼が歩いているのが小さく見えた。
その姿がどんどん遠ざかって行って、
ライラックの茂みに隠れて見えなくなった。



出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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直川隆久 2021年3月7日「旅人たち」

旅人たち

   ストーリー 直川隆久
     出演 遠藤守哉

参った。
給油スタンドを出て300㎞のところでエンジンが止まってしまった。
昼までには次の町に着きたかったが。
イグニションキーを何度回しても、
ぎよぎよぎよといううめき声があがるばかりだ。

クルマを降りる。
先を見やれば、道は、地平線へとひたすらまっすぐに伸びている。
今来た方向を見ても、道は、地平線へとまっすぐに伸びている。
両側には、赤茶色の土の平原。
ところどころ黄色い枯草が風に揺れている以外には、生き物の気配はない。
太陽は分厚い灰色の雲のむこう側に隠れたまま。
前を見ても、後ろを見ても、まったく同じ光景。
傍らに停まったクルマがもしなかったら、
自分がどっちから来たのかさえわからなくなりそうだ。

地平線に目をこらす。
動くものはない。
あきらめて、クルマの中に戻る。
シートに身を沈め、前方、空と地表の接線にひたすら視線をあわせる。
どんなクルマが来ても、いち早く飛び出て、救援を求めなければいけない。
見る。
見る。

30分もそうしていたろうか。
遥か彼方、路上に、何か黒い点が現れた。
傍を走り去ってからでは遅い。おれは、クルマを飛び出る。

だが…
その黒い点は、なかなか大きさを増さない。
クルマじゃないのか?
動物だろうか。
ひょっとして、熊とかだったりしたら、危ない。
20分ほどじっと見ていると、形がある程度判別できるようになった。

あれは…リヤカーだ。
屋台のリヤカーだ。

屋台が、地平線の彼方から、こちらに向かってきている。
ラーメン屋?
この平原に?
ゆっくりゆっくりと、近づいてくる。
ぎっちらこ、ぎっちらこ、という車軸のきしみが、
かすかに風に乗って聞こえてくる。
その音は、一定のリズムを刻み、速くも遅くもならない。
目を凝らすと、腰をほぼ二つ折りにしながら、
屋台を引っ張っている人間が見えた。
ぎっちらこ、ぎっちらこ。
ハンドルに寄り掛かるようにしながら進んでくる。
着ているのは割烹着らしい。
婆さんのようだ。

さらに待つこと、1時間。
ぎっちらこ、ぎっちらこ、と屋台が傍らまでやってきた。
だが、近づいても、屋台は止まる様子はない。
行き過ぎかけるリアカーに慌てて声をかける。
「あの。あのう」
ぎちら、と音をたてて屋台が止まった。
「へえ」婆さんは、腰を二つ折にしたまま応える。

「おばあさん、これはなんの屋台ですか」
「くみ上げ湯葉どす」
「湯葉」
「へえ、お嫌いどすか」
「…いや…。嫌い、じゃないけれどもね。嫌いじゃないけれども」
この荒野の真ん中で、エンストのクルマを抱えて
露頭に迷っているときに出会ってうれしいものではない。

見ると、屋台には、四角いステンレスの鍋が据え付けられてあり、
そこには白い液体がなみなみと湛えられ、白い湯気を上げている。
豆乳だろう。
「お召し上がりになられおすか」
と婆さんが訊く。
腹はたしかにすいているが、しかし、いま食べたいものは湯葉ではない。
口ごもっていると、婆さんがやおら腰を伸ばす。
白粉を塗りたくった顔が俺の胸元の高さまで持ちあがった。
婆さんは俺の返答を待つつもりもない様子で、長い竹箸を手にとると、
釜の中の豆乳の表面をなぜる。
と、その端に、白く薄い膜がまとまわりついた。
婆さんは、それを小皿に乗せ、あさつきネギを散らし、
ポン酢らしきものを振りかけて、こちらによこした。
食べる。
湯気のたった湯葉はたしかに、できたてで、うまい。
大豆の風味が生きている。ポン酢も、昆布だしがきいて上品だ。
…しかし、やはり、これは今俺に必要なものではない。

「お婆さん、いま、エンストで困ってるんです。
こちらを通りがかりそうなクルマは、ありませんでしたかね」
「へえ、うち、ようわからしまへん」
「わからないかね」
「860円頂戴します」
婆さんが、また、深々と体を二つに折って頭を下げる。
これ以上訊いても無駄なようだ。
860円。一皿の湯葉にしては、高い。
だが、地平線の彼方から屋台を引いてやってきた、
その労賃を鑑みれば安いような気もする。
「よく売れるものですか。路上でも」
と、金を渡しながら愛想がわりに尋ねると、婆さんは受け取りながら
「売れるわけおへんがな。湯葉どっせ」と吐き捨てるように言った。
婆さんは、リヤカーのハンドルに手をかけると、
またぎっちらこ、ぎっちらこ、と屋台を引き始めた。

ゆっくり、ゆっくりと、その後ろ姿は来たときと同じ時間をかけて小さくなり、
やがて、地平線の上の黒い点となり、ついには、見えなくなった。

その姿を見送った俺の頭に、ユーバー・イーツ、という言葉が浮かぶ。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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