篠原誠 2016年2月14日

1602shinohara

最後の質問

     ストーリー 篠原誠
        出演 吉川純広

別に嫌いになったわけじゃない。
かといって時間を一緒に過ごせるほどの気持ちも今やない。
そんな理由で、僕は彼女と別れることにした。

僕の突然の別れ話を
彼女は、ずっと前から知っていたことのように受け止めた。
泣くこともなかったし、拒否することもなかった。
けれど、別れ際に彼女は、こうつぶやいた。

「一つだけ、最後の質問があるの」

最後の質問?

「フキノトウって食べたことある?」

そう彼女の声は発した。
フキノトウ。フキノトウって、ツクシとかの、フキノトウ?
僕は、彼女に聞き返した。

「そうよ。私、ツクシは食べたことあるんだけど、
 フキノトウは、食べたことなくて」

僕も食べたことはなかった。少し苦みがあるという話を
聞いたことはあったのだけど、
僕はフキノトウもツクシも食べたことがない。と答えた。

「私、ツクシは食べたことあるんだけどなぁ」

彼女は僕の答えに、落胆するでもなく、喜ぶでもなく、
ただただ無表情だった。

フキノトウと僕たちに何か関係があるのだろうか。
なんでそんな質問をするの?と僕が言うと、
彼女は「ダメだよ、さっきのが最後の質問なんだから」
と杓子定規に答えた。

「今度、フキノトウ食べてみようかな」

彼女がそういった時、少しだけ微笑んだように見えた。
それは、5年間つきあってきた中で見たこともない顔だった。
フキノトウ…。フキノトウ…。デクノボウ…。
関係ないか。
それとも、春ということか?
春がなんだというんだ。
僕たちが付き合い始めたのは夏だったし、彼女の誕生日は秋だ。
春なんて関係ない。
フキノトウ…。フキノトウ…。オメデトウ…。
関係ないな。ほんの数秒そんな風に考えていたら、
彼女はすくっと立ち上がった。

「じゅあね、フクシくん」

そういって彼女は人がたくさんいる駅の方へ
歩いていった。フクシくんが、ツクシくんに聞こえた気がした。
彼女は、人ごみに消えるまで、一度も僕の方を
振り返らなかった。彼女の背中に羽が生えているように見えた。

出演者情報:吉川純広 ホリプロ http://www.horipro.co.jp/

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佐藤義浩 2016年2月7日

1602sato

ふきのとうについて考える。

    ストーリー 佐藤義浩
       出演 遠藤守哉

ふきのとうのことを書いてくれ、と言われたので書きます。
ふきのとう…。自分の人生とはあんまり関係ない。
食べないか、と言われたら、食べる。
春だね〜とか言いながら。ちょっと苦いとこが人生ポイねとか…
さすがにそんなことは言わないけど、まあ美味しく食べる。

子どもはこんなもん食わんだろうと思う。
苦いからな。自分も子どもの頃は好きではなかった。
なんで大人になると、うまいって思うんだろうねーとか言いながら食う。
酒があるからかな?とか思っているが、口には出さない。
そう言えば、酒と言えば梅酒のソーダ割りしか飲まないあいつは、
あんまり苦いものは食べないような気がするなあ。

…いかんいかん。飲みながらだと話が酒から離れられない。
気を取り直して。ふきのとうのいいところを考えてみる。
春が近づいてるイメージが85%。
とか言いながら実はまだまだ寒いんだけどな…を23%含む。
寒いとこにちょこっと見える春がみんなは好きみたいだ。
だよな。実はふきのとうのイメージは冬だ。
もっと正確に言うと、まだ春が来てない季節。
それがみんな好きなのかもしれない。
「春の予感」という歌があって「秋の気配」という歌がある。
春の訪れは待ってる中にやってくる。
秋は気がつくとそこにいるってことだな。
「恋の予感」って歌があって「別れの気配」って歌がある。
恋は春で、別れは秋なんだな。なんかうまく出来ている。

いかんいかん。
どうも飲んでて、店に安い歌謡曲なんかかかってると
どんどん話が逸れていってしまう。
ふきのとうのいいところ。残りの15%は名前だ。
おいおいそれで100%になっちゃうわけ?と言われそうだが、
なっちゃうんだな〜。

ふきのとうは漢字じゃ書かない普通。
それはもちろん難しいから…なんだけど、
ひらかなで書くところに、なんかいい感じが生まれてる。
ひらかな5文字ってのは曲者で、
日本語のいい感じの言葉にはひらかな5文字が多い。
ありがとうとか、さようならとか。たぶん優しい響きがいいんだと思う。
リズムが平板で、跳ねたりしない。
初めて会ったのに、お、こいついい奴だな、というリズム。
特徴としては、5文字それぞれが独立している。
隣の文字に寄りかかったりしていない。
そういう言葉を日本人は好きなんだな。
んでこの5文字がまた地味で。

そもそも「ふき」って地味だよね。
明治の終わりに、ふき、という名の少女が
その後の動乱の時代をたくましく生きて立派な人になったっていう
朝ドラ作れるくらい地味。
そのベースがあるから
ふきのとうの「その中の花んとこ」って感じがいいんだと思う。
さっきの冬の中の春っていう理屈と同じ。
5つの文字がそれぞれ独立してるから、
じっと見てるとどこで切るのかわかんなくなる。
ゲシュタルト崩壊ぽい感じ。
ふきの、とう。ふ、きのとう。
ふきのさんが、「トゥッ」ってジャンプしたり、
フッと気の遠くなることがあったり、
文字の並びにあんまり意味がないから、
応用範囲が広いって言うかイメージが広がりやすい。
癖がないんだね。
ふきを「帰ってこないの不帰」とうを「高い塔」だと考えると、
…『あの戦争のあと、世界中が冬に包まれた。
そんな中、帰らぬ人を待つ岬の高い塔を人は
「不帰の塔」と呼ぶようになった。』
…という出だしのSFも書けるね。
いかんいかん。飲んでるとなんでもできるような気になるけど、
どうせ出だししか書けないんだよいつも。

…そろそろまとめないと。
でも自分が酔っ払ってまとまんない今の状況を考えると、
まとまるとは思えないわ。
冬眠してた熊が、目を覚まして最初に食べるのが、
ふきのとうなんだってね。
そんときお酒もあるといいのにね〜。
あ、やっぱりまとまんなかったね。
もう一杯飲んでから帰ります。読み返さないね。んじゃ

出演者情報:遠藤守哉 青二プロダクション http://www.aoni.co.jp/

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中山佐知子 2016年1月31日

1601nakayama

暗殺者は思った

     ストーリー 中山佐知子
        出演 大川泰樹

美しい少年だ、と暗殺者は思った。
邪気というものがまったく感じられなかった。
誰かを疑ったり悪く思ったことは一度もなさそうだった。
おそらく一点の濁りもない湖のような心をお持ちなのだろう。

例えば誰かを殺すとき
暗殺者は相手の濁りを狙って刃を振り下ろす。
濁りとは相手に生じた恐怖であり憎しみであった。
相手に自分を憎む気持ちがあれば仕事はやりやすかった。
しかし、濁りのない湖に向かってどんな刃を向ければいいというのか。

暗殺の理由は政治にあった。
少年は南朝の帝だった。
1336年に後醍醐天皇が吉野に逃れて開いた南朝は
100年余りを経たいま、
山の民に守られて吉野の奥に潜んでおられる年若い帝と
その弟の宮がおいでになるだけだったが、
それでも正しいお血筋は南朝にあり
三種の神器のひとつもこちらにあった。
南朝の帝を殺して神器を奪うことは室町幕府の宿願だったのだ。

暗殺者は南朝に味方すると見せかけて一年ほど様子を探った。
木樵しか歩けないような絶壁の杣道を辿り、
急斜面を四つん這いで這い登ると
川が滝となり、渓流には無数の温泉が湧き出る処がある。
そこからさらに登り下りを繰り返すと見えてくる
隠し平という狭い谷に仮の御所を建て
帝はお住まいになっていた。

おそばに仕える人数は少なかった。
険しい山の守りは固く、
万一敵の軍勢が攻め寄せてきても
あたり一帯の村々が砦となって戦うのだ。
狭い谷に大勢がひしめく必要はなかった。
吉野の民は決して裏切らないだろうと暗殺者は思った。
しかし、自分は吉野の民ではない。

そしてあの12月の大雪の日が来た。
暗殺者は仲間とともに雪に紛れて御所を襲った。
帝は急を知って寝巻きのまま刀を手にされた。
美しい少年だ、と暗殺者はふたたび思った。
このときでさえ、湖に濁りはなかった。
しかし不運にも帝の刀が鴨居に突き刺さり
はじめて暗殺者は湖に波が立つのを見た。
それは濁りではなく焦りのようなものだったが、
暗殺者はそのわずかにざわめく波に、静かに刀を差し入れ、
南朝最後の帝の十八歳の生涯を終わらせた。

さて、この暗殺の物語には続きがある。
雪のなかを逃げる暗殺者の一行は三日めに追っ手と遭遇し、
激しい戦いになった。
その戦いのさなか、暗殺者が雪に埋めておいた帝の首は
おびただしい血を噴き上げ、
みずからの居場所をお示しになったという。

南朝の帝のご最期は吉野の伝説となっていまに伝えられるが
その一方で詳細な記録も残されている。
暗殺隊の生き残りが当時の手帳に書き残しているからだ。

出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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福里真一 2016年1月24日

fukusato1601

サルの自慢の後輩

    ストーリー 福里真一
       出演 遠藤守哉

後輩がメキメキと力をつけ、
自分を追いぬいていこうとするとき、
それに激しく嫉妬するタイプと、
それを心から喜ぶタイプがいる。

サルは完全に後者だった。

人間という後輩が、
文明というものを生み出し、
それをすごい勢いで発展させはじめたとき、
サルは心の底から、感心した。

あの、人間ってやつらは、すごいなあ、と。

そして、人間が、文字を発明したと知っては、
キーキー喜び、
鉄道を発明したと知っては、
キーキー喜び、
スマホを発明したと知っては、
キーキー喜んだ。

まるで田舎のおじいさんが、
都会での孫の活躍に目を細めるように、
サルは、人間の活躍をいちいち喜んだ。

その間、サルの方が何をしていたかといえば、
木の実を食べたり、子孫を増やしたり、
時々、温泉に入ったりしていただけだった。

昨年、とある極東の国で行われた強行採決や、
それに反対する国会周辺でのデモなども、
サルから見ると、
ただただ、すごいなあ、ということになるのだった。

考え方、なんていう抽象的なことをめぐって、
真剣にぶつかりあえる人間ってやつらは、
やっぱりすごいなあ。
こっちは、せいぜい争いといえば、
メスの奪い合いと、バナナの奪い合いぐらいだというのに。
キーキー。

その時、サルの心に、一瞬、
自分たちも、
国というものをつくってみたらおもしろいんじゃないか、
という考えが浮かんだが、
メモをとる手帳もなかったので、
すぐに忘れてしまった。

出演者情報:遠藤守哉 青二プロダクション http://www.aoni.co.jp/

 

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直川隆久 2016年1月17日

naokawa1601

カレのテチョー

       ストーリー 直川隆久
          出演 西尾まり

 わ。
 ちょちょちょ。
 カレが、ダイニングテーブルに…
 忘れてるんですけど。
 
 手帳。
 手帳忘れてるんですよ。
 わー。
 裕人くん!油断!
 
 …どうですかこれ!
 どうなんでしょーう!
 どうなんでしょーうってつまり(笑)…
 見てもいいのかなー!
 
 いいともー!
 とは、ね、ま、誰も言ってくれませんけれども。
 ままままま、
 ここは、私の内面にいらっしゃるリョウシンカシャクさんとの
 打ち合わせ次第ということにはなりますけれどもええ、ええ、ええ、ええ。
 
 というのはねー。
 裕人くんとは約束があるんですよねー。
 お互い、携帯の履歴とか手帳とか、そういうののぞきみするのやめようね
 って。 
 ま、まだ同棲段階なんで。
 そのへんのプライバシーは、まだ、ね、籍入れる前は
 お互いにセイフティゾーンとしておこう的な。
 
 ま、ね。
 いまどき、ほんとに大事な情報はスマホに入ってますから。
 よしんば、
 よしんばですよ。
 ま、裕人くんが、フローティングエアー…
 日本語でいえば浮気ですか?
 を、
 していたとしてもですね。
 そんな情報はたぶん、手帳に残しては…いなーい。
 いなーい。
 ということはま、普通に想像されますよね。
 それに、いくら裕人くんがアホでもですね
 そんな重要な情報を残した手帳を、
 こんなダイニングテーブルに残しておくとは
 これ、
 思えなーい。
 
 思えなーい。

 …んですけれども。

 …まさか…

 ということがありますよね、これ(笑)

 ま、わたくしの内面に湧き上がるキュリオシティ、好奇心にね、
 抗えない、逆らえないというのもこれまた正直なところではありまして。
 いや、逆にむしろ抗わない。逆らわない。というのも人間の…
 
 見る!
 はい!
 見ちゃう!

 ぱらりぱらりと(笑)
 いやー、どっきどきするわ。
 これ…

 ん?

 なにこれ…
 真っ白ですわ。
 
 なんだこれ…新品?
 これ…
 どこめくっても…

 …

 がっかり〜!
 なんすかこの肩透かし!
 しょーもな(笑)

 どきどきして損した。
ま、ねー。そりゃそういうもんかも…

 …ん?
 あれ。
 あれあれ?

 なんか、最後のほうのページに、電話番号が…
 ありますよ。
 090…
 あ、携帯だ…

 これ…なんですかね…
 あきらかに…携帯ですよね…

 わ。
 携帯だ…

 なんでしょう。
 裕人くんの…番号…ではないん…ですよね…

 ふふふふふ。
 どーなんでしょう…
 ねー。これ、どうしたらいいんでしょ。
 
 あー。
 かけちゃ…うんですかね。わたし?わ、わ、わ(笑)
 
 いや、この番号に…かけちゃうんですかね?
 わたし。
 
 いやいやいやいや。
 そっれはないでしょ。
 
 それやっちゃうとー、裕人くんとわたしとの信頼関係自体が、
 こう、アースクエイク的な揺さぶりを受けてしまうというところありますか
 らこれは…
 
 かける!
 はい!
 かけちゃう!

 うっわー。
 くっそドキドキする。
 …
 090…3…9…

 (電話呼び出し音)

 あ…
 あの、もしもし…
 あ、わたし、田中裕人の友人…というか、
 こ…婚約者でございまして…
 あは。
 あはは、突然電話して申し訳あり…

 え…?
 裕人くん?

 え、なに。

 なんで裕人くんがでてんの?
 
 え、いやいやおかしいじゃん。
 なんで?
 この番号、裕人くんの番号じゃないじゃん。
 
 いや、なんでこの番号わかったのとか、そういう問題じゃないじゃん。
 なんでわたしに黙って別の番号持ってんのおかしいじゃん?

 手帳?
 …うん、見たよ。
 
 約束?
 うん、覚えて…るよ。
 覚えてるけど。
 
 それさ、そんなに大事なもんならさ、
 テーブルの上に置いてるのが悪くない?

 え。
 終わり?
 
 なにそれ。

 なに言ってんの?
 それ、自分にやましいことがあるって言ってんのとおんなじじゃん。
 
 全部おまえのせいだ?
 はあ?
 
 え?
 この番号がなんだっていうの?
 
 賭け?
 だれの?
 
 なんかすごい人?
 意味わかんない。
 
 賭けってなによ。
 え?
 「人間が、約束を守れる動物かどうか」?

 え、裕人くんは、
 守れるってふうに賭けたの?
 
 でも、なに、それで賭けに勝ったらどうなってたっていうのよ。
 
 え。
 一生困らないだけのお金?
 なにそれ、意味わかんない。
 騙されてるよ、そんなの、あたりまえじゃない。

 え、負けたら…
 俺の命?
 意味わかんない。
 なに、
 え、おまえのせいだって…
 なに言ってるわけ?
 
 あ。

 もし…もしもし。
 もしもし。

 ちょ、
 ちょ、なにいまの叫び声。

 裕人くん!
 裕人くん!

 答えてよ。

 あはっ。
 あはははは。
 
 わかんない。
          
 あははっはは。
 
 意味わかんないんですけど。

出演者情報:西尾まり 30-5423-5904 シスカンパニー


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小野田隆雄 2016年1月10日

onoda1601

舞踏会の手帖はもったことがないけれど

ストーリー 小野田隆雄
出演 大川泰樹

池波正太郎の『鬼平犯科帳』の中に、次のような話があった。
なんというタイトルだったか、
その話がストーリー全体とどのようにかかわっていたか、
それは憶えていない。
若い頃に居酒屋で働いていた女がいた。
仮にお光としておこう。
酒を売るだけではなく、
ときおりは好みの客に、自分の体も売っていた。

そんな彼女が六〇歳の坂も越えて、水商売もままならず、
わびしく裏長屋で暮らすようになった。
そんなある日、彼女は表通りの人混みで、
若い頃になじみの客だった、呉服屋のせがれに、
ばったりと会った。
呉服屋のせがれも、いまは立派な大旦那になっていた。
お光は、なつかしさから思わず彼に声をかけた。
ところが、呉服屋の旦那は、なつかしいどころではなかった。
なにしろ若い頃に、遊び気分で抱いた女である。
しかもその女が、みすぼらしい、
しわだらけのおばあさんになっている。
こんなばばあに、こんな人混みで声をかけられたところを
知っている人に見られたら、たいへんである。
彼はお光を横町に連れ込むと、小判を二枚、
押しつけるように渡しながら言った。
「これからは、私に会っても、決して声などかけないでおくれ」
お光は逃げるように去っていく旦那と
二両の金を見つめていたが、そのうちニヤリとした。
これは、いい商売になるじゃないか、と思ったのである。
それからは金に困ると、昔の遊び相手を捜し出して、
道でそっと声をかけた。
商店の旦那や番頭、旗本の次男坊や三男坊。
ほぼ七割の確率で金になった。
そのお光がある日、長谷川平蔵に会った。
若い頃の平蔵は、「ほんじょのテツ」などと呼ばれた、
腕っぷしのいいやくざ旗本だった。
その頃にひと晩、お光を抱いたことがあった。
お光はいまをときめく火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)の長官に、
声をかけたのである。
平蔵は立ち停り、女がお光だとわかると、
心にしみるような優しい笑顔になった。
それから三両の金をお光の手に渡しながら言った。
「お光、昔は世話になった。ありがとうよ。
 俺はな、いまは火付盗賊改方にいる。
 困ったことがあったら、やってきておくれ」

この鬼平の話について、
池波正太郎があるエッセイに書いていた。
ヒントになった映画があったのだと。
それは「舞踏会の手帖」というフランス映画で、
若い頃、貴族の舞踏会に出入りしていた女が、
年をとってから、そこで知り合った男たちを訪ねていく、
というストーリーだった。
彼女は、彼らのことを自分の手帖にメモしておいたのである。

私は、この古いフランス映画を観ていない。
けれど、「舞踏会の手帖」という言葉に魅力を感じた。
タイトルだけで、男と女の人生のドラマを感じたからである。
私の手帖は、毎年、毎年、ほとんど日程表のままで終っていく。
平凡で単調である。
ただ、いつの頃からか、12月31日のページに
「こぞことし、つらぬく、ぼうのごときもの」という
高浜虚子(きょし)の俳句を書く。
年は変るけれど人生そのものが変るわけじゃない。
ただ、こうやって、年々歳々、一年が終ってゆきながら、
自分というものが続いていくのだな。
そんなことを考えながら、年越しそばを食べ日本酒を飲み、
この俳句を手帖の最後のページに書きこむのである。

出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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