廣瀬大 2015年11月8日

1511hirose

「最後の言葉」 

     ストーリー 廣瀬大
        出演 清水理沙

「ありがとう。真紀子」

苦しそうに呼吸をしていた父が、
突然、穏やかな表情になり、
母を優しく見つめて言った。
まるでそれは、
地図を片手に見知らぬ土地をさまよい歩き、
へとへとになって顔を上げると、
ずっと目指していた所が目の前にあった。
そんなほっと安心したような表情だった。
そして、またそれは娘の私には一度も見せたことのない、
愛しい女を前にした、恋する男の顔だった。

「ありがとう。真紀子」
そう言って父は、静かに息を引き取った。
67歳だった。
泣き崩れるかと思ったが、
母はただ茫然とそこに立ち尽くし、
じっと父の顔を見つめていた。
3年間、癌に苦しんできた父の介護を続けてきた母の、
ベッドの横に立つ後姿は、驚くほど孤独に見えた。
生きているような穏やかな表情の父と、
亡くなったように表情を失った母。
母も私も、そして私の夫も息子も、
病室にいる誰一人、泣くことなく
そこに立ち尽くしていた。

父の容態が悪化したと
母から電話をもらい、
ホスピスに向かったのは
夜中の2時を少し過ぎた頃だった。
癌が末期のステージに進行していた父は、
半年前からこのホスピスで治療を受けていた。

むずがる4歳になる息子を連れ、
夫の運転で車をホスピスに走らせた。
大きな嵐が来ていた。
激しい雨が病院に急ぐ
車のフロントガラスを叩く。
この嵐が去るのと同時に、
父はこの世を去るのではないか。
どういうわけか、私にはそう思えてならなかった。

病室に入ると、嵐の雨と風のように
父は激しい呼吸を繰り返していた。
ベッドの横で、父の魂が体から抜け出てしまうのを
なにがなんでも防ごうとするかのように
母は父の肩を押さえつけ、声をかけ続けていた。

思えば父と母は、
娘の私から見ると恥ずかしいぐらいに
仲のいい夫婦だった。
元気だったころ、父はぽろっと私にこう言ったことがある。
「俺は母さんしか知らないからなあ」
私は顔を真っ赤にして、なにも聞こえなかったふりをした。
どうしてひとり娘を前に、突然あんなことを父は言ったのか。
今、考えてもさっぱりわからない。

「ありがとう。真紀子」
その最後の言葉は、
父の最後の呼吸でもあった。

ただ、最大の問題は母の名前は真紀子ではなく、
直美であるということだった。

真紀子とは誰なのか。
私の知る限り、親類、知人に真紀子はいない。
朦朧とした意識の中で、父は何を見ていたのか。
誰と一緒にいたのか。
どんな幻が、父を恋する男の顔にしたのか。
真紀子という名前に、母は心当たりがあるようだった。

あれから数年経って母は
「最後にどうして間違えるのかしらねえ」
と苦笑いをしながら羊羹を切った。
でも、私はときに思うのである。
人生の最後に、朦朧とした意識の中で、
私も父と同じように大切な何かを、
間違えてしまいやしないか。
それは夫に対してかもしれないし、
息子に対してかもしれない。

「でも、あのときのお父さん、すっごくかっこよかったわよねえ」
そう言って茶をすすっていた母も、今年亡くなった。
 

出演者情報:清水理沙 アクセント所属:http://aksent.co.jp/blog/

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磯島拓矢 2015年11月3日

1511isojima

「地図」

    ストーリー 磯島拓也
       出演 平間美貴

NAVIが当たり前になって、
ドライブはつまらなくなったと思う。
なぜって、迷うことがなくなったから。
あわてて地図を開くことが、なくなったから。

私が20代のころ、デートと言えばドライブだった。
私が望んだわけじゃない。男たちが勝手に決めていた。
クルマのない男はデートをする資格がないと、
勝手に決めていた。
まったく、バブルってやつは。

あのころはNAVIがなかった。
だから男たちは、道に詳しくなければいけなかった。
正確に言うと、男たちが勝手にそう決めていた。
地図に頼らず運転する男がカッコイイと、勝手に信じていた。
まったく、男ってやつは。

あのころ助手席に座らされていた私は
「あ、迷ったな」という瞬間が好きだった。
その時、運転する男の顔を盗み見るのが好きだった。
意地の悪い女と言われれば、確かにそうかもしれない。

迷ったことを私に悟られぬように、平静を装う男。
でも脂汗をかいている男。
ごめんね、ごめんねと繰り返し、地図を取り出す男。
必死にページをめくる男。
どうせ意地の悪い女だと開き直った上で言ってしまえば、
それは、男の度量が試される瞬間だった。
慌ててつけ加えるけれど、
迷った時にオタオタするから度量が小さい、というわけではない。
もっと、そもそもの話だ。
「道に詳しい男が女をエスコートするのだ!」という考え方が
小さいのだ。

デートとは、そんなものではないだろう。
そんなにつまらないものではないだろう。
互いに好意を持った男女が、
または好意を持つ可能性を秘めた男女が、
ともにいる時間を楽しむこと。それがデートだろう。
誓って言うが、私は、
男に楽しませてもらおう!なんて思ったことは一度もない。
いっしょに楽しもうと思っていた。いつだって。

ドライブで迷ったら、迷ったことを楽しみたかった。
いっしょに地図を見て
こっちだ、いやこっちじゃない?と話したかった。
迷わないことに必死になる男より、
迷ったことをいっしょに楽しもうとする男が好きだった。
そして、あのころ、そんな男は驚くほど少なかった。

その数少ない男が今、私の隣で運転をしている。
数年前に新車を買い、すすめられるままにNAVIをつけた。
彼も「便利だね」などと言っている。確かにそうだ。
しかし、何だか物足りない。
上品な女の声に導かれ、迷わず、間違わず、常に正しく到着する。
そうだ。この車にしてから、私は地図を見ていない。

「今日はNAVI使うの、やめない?」
私は夫に言ってみる。彼はきょとんとして私を見つめる。
そしてこう言った。
「そうだな、久しぶりに迷うか」
よかった、この男はまだ大丈夫だ。
私はダッシュボードから地図をとり出し、ひざに置いた。

出演者情報:平間美貴 03-5456-3388 ヘリンボーン所属

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中山佐知子 2015年10月25日

2015nakayama

まず14段の階段を上り

     ストーリー 中山佐知子
        出演 大川泰樹

まず14段の階段を上り、次にまた14段の階段を上ると
改札のある階に出る。
改札を出て14段の階段を上り、
また14段、次に13段の階段を上る。
それから11段の階段を上がり、12段を上り、
17段を上る。
最後に10段を上って、やっと地上に出る。

この長くて退屈な階段を毎日上って会社へ行く。
ホームから出口までの階段を数えたら118段あった。
クフ王のピラミッドさえ201段だ。
ピラミッド…石を運ぶ奴隷…
しかしピラミッドは最初から201段あったわけではない。
何十年もかけて201段に成長したのだ。
10段とか20段のころはラクだっただろうな。

会社は駅の出口から近いが、
ある日、駅のホームで忘れ物に気づき、
階段を上って会社まで取りに戻り、
また引き返して来たら17分がたっていた。
これで駅から近いと言えるのだろうか。

駅のホームから14段と14段の階段を上って改札を出ると
向かい合わせにパン屋とコンビニとトイレがある。
コンビニには元同僚だった齋藤くんが働いている。
齋藤くんは、4ヶ月ほど前、
つまり夏の暑い盛りに二日酔いで出社しようとしたのだが、
電車を下りて14段上ったところで貧血を起こした。
私はすぐに駅員を呼んだ。
私と駅員は齋藤くんを抱えて改札階までの14段を這い上がったが、

残る90段を思うと暗澹たる気持ちになった。
すると齋藤くんは「俺にかまわず行ってくれ」と言い残して
よろめきながらトイレに去った。
思えばそれが齋藤くんのスーツ姿を見た最後だった。

トイレから出た齋藤くんは
向かいのコンビニの「店員募集」の張紙を見るやいなや
そのまま応募してしまった。
次に齋藤くんを見たときはTシャツ姿でエプロンをかけ
レジの向こうで一杯100円のコーヒーを担当していた。
齋藤くんはいま階段的にはエリートに属して幸せそうだった。
私は相変わらず奴隷のように118段を上り下りして
息を切らせているのに較べ、
齋藤くんはたった28段を口笛吹きながら上下しているのだ。

さて、コンビニの向かいのパン屋には清水さんがいる。
清水さんは入社一日めの通勤で靴のヒールが折れて遅刻をし、
それを叱った上司に辞表をたたきつけたという噂がある。
それもこれも階段のせいだ。
清水さんは改札の前のパン屋で
元上司や同僚が背中をまるめて階段を上がる姿を眺めながら
毎日ほがらかに働いている。

そういえばうちの会社の創立記念日に社長の訓辞があった。
テーマが「階段」だった。
嫌われても罵られても階段はホームと出口を繋ぐために必要だ、
みたいなことをしゃべっていたが
運転手付きの自動車で通勤するやつに
そんなこと言われたくないと評判が非常に悪かった。

それにしても118段は長い。
もう何も考えないで上ろう。

出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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野澤友宏 2015年10月18日

1510nozawa

『階段をおりる時』 

     ストーリー 野澤友宏
        出演 石橋けい

「アユミってさ、階段をおりるとき、
いつも、ウッウッって変な声出すよねぇー」
2階席からロビーに続く階段を降りたところで、
アツコさんが言った。
「あ、言う言う言う、私もずーっと気になってた」
眉を吊り上げながら、ユミも大げさにうなずいている。
そう…?と平然を装ってみたものの、アタシは少し動揺していた。
「ウッウッ…それ、どこから出んのって感じぃー」
アツコさんが、喉から変な声を出して笑った。
自分がそんな声を出してるなんて、完全に無意識だった。

人気劇団の2年ぶりの公演だけに、ロビーはかなり混雑していた。
休憩時間15分。女子トイレにはさっそく長い列ができていた。
アツコさんとユミは、アタシが以前働いてた文房具メーカーの同僚だ。
三人とも演劇が好きということで仲良くなり、
アタシが辞めてからも付き合いが続いていた。
「あとさぁ、アユミィ、お芝居観ている途中ぅ、
ずぅっと首揺れてるよねぇーーー」
アツコさんは、意地悪モードに入るとどんどん語尾が長くなる。
「うそうそうそうそ、まじでッ」
ユミは、いじりがいのあるおいしいネタを見つけると、
眉毛がどんどんつり上がる。
同じ言葉を繰り返じはじめたら、かなり要注意だ。
「でもでもでもでも、デスクでもそうだったかも。いっつも首揺れてたかも」
ユミが、首がクネクネ揺らす。
アツコさんが、アタシの顔をみて吹き出す。
「それにぃ、ちょーっと気まずい時とかぁ、そういう顔するよねぇーーー」
「そうかもそうかも、するかもするかも」
ユミが、鼻をぷくっと膨らませ、
右の小鼻をクイッと引きつらせた顔をした。
何よ、その顔…アタシがそんな顔しているなんて、完全に無意識だ。

「あとぉー」と言って、アツコさんがスレンダーな身を屈めて、
ユミの耳に顔を近づける。
アツコさんの小悪魔的なしぐさを見て、
直感的にケンイチロウのことが頭に浮かんだ。
ケンイチロウとは、アタシがその文房具メーカーに入社し、
新しいホッチキスの開発を一緒に担当したのをきっかけにつきあい始めた。
しかし、6年をすぎた今、男女の関係としては階段の踊り場状態。
二人とも、あがることも降りることもできずにいた。
「え、え、え?まじでまじでまじで?」
「・・・そうみたいよぉーーー」
アツコさんが、アタシの方に意地悪な視線を向ける。
今、ケンイチロウとアツコさんは同じ部署で働いている。
「アタシ、ちょっとトイレ…」
たまらず、二人から離れた。
「私もぉーー」
アツコさんが後ろからついてくる。

女子トイレの列に、アツコさんとふたりで並ぶ。
「それでぇ、どうなのぉ」
意地悪モードがマックスに達した時、アツコさんはささやき声になる。
「何よ、急に、こんなとこで」
自分の鼻がふくらんでいくのが分かる。
「何よってぇ、そりゃ、ねぇ…」
アツコさんの切れ長の目がロビーの方に向けられる。
ロビーでは、ユミが眉毛を吊り上げながらケータイいじっている。
「ボヤボヤしているととられちゃうぞぉーー」
アツコさんがアタシの耳元でささやく。
右の小鼻が引きつっていくのが、自分でも分かった。

トイレを出て、ロビーに戻る。
アツコさんもユミも先に席に向かったようだ。
2幕目の始まりを告げるブザーが響き渡る。
観客達が、一斉に席に戻り始める。
まさか、ケンイチロウがそんな男だったとは…
ロビーの柔らかな絨毯を一歩一歩踏みしめながら考える。
踊り場状態に、ある種の居心地のよさを感じていたのは自分だけだったのか…
ウッウッ…ウッウッ…
自分の喉から変な音が出ているのが聞こえる。
ウッウッ…ウッウッ…ウッウッ…
自分が、「階段」を降り始めていることに、気がついた。

出演者情報:石橋けい 03-5827-0632 吉住モータース

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直川隆久 2015年10月11日

naokawa1510

天国への階段

       ストーリー 直川隆久
          出演 遠藤守哉

げえ。
止まっちまったよ。

まじか。

4階の自宅まで、いつもは階段で上がるのに…
1秒でも早くトイレに行こうと思ったのが、
裏目にでた。

うう…。

「あ、止まってしまいましたね。非常ボタン、押しましょう」

ちくしょう。
しかも、よりによって、
この狭いエレベーターに
女性と二人きりだなんて。
だれだっけ、この人…3階の…奥田さんだったか。

階段使えよ!
…い、いや、怒ってもしょうがない。
まずは、無駄にあやしまれないように、快活に。

「とまっちゃいましたね。大丈夫ですよ。ここの非常ボタンを押せば、
警備会社のコールセンターにつながるはずですから。
あ、わたし、4階の原田です」

非常ボタン。非常ボタン。

「あ、あの、すみません。こちら、レジデンス欅台です。
エレベーターが止まってしまいまして…はい。どれくらいで来れます?
…い…1時間?もうちょっと早くなりません…かね?あはははは」

なぜ笑ったのかわからないが、それほどに、動揺している。
もう一刻の猶予も許されない状態なのだ。

「す、すこし時間がかかるみたいですね…
 わ、わたし、4階の原田です。…あ、さっき言いましたね」

うう。下腹部が震えてきた。
持ちこたえられるだろうか。
早く!
早く来てくれ!

いかん…
奥田さんが…不審げな目でこっちを…

だめだ。
ここで…
ここで漏らしたら…
おれの社会人生命は…おわりだ…

う。
うおお。
神よ…!
助けてください…
わたしに…
手をさしのべてください…!!
ここから出る…手立てを…
う…

……

まぶし…

なんだ?

え?

目の前に…
階段!?
エレベーターの中だったのに…

き…奇跡だ。
神よ!
感謝いたします!

奥田さん。
助かりましたよ!

よかったですね!
わたし、ちょっと急を要する用事がありまして…!
お先に、のぼらせていただきます!

よいしょ…

よいしょ…

よいしょ…

ふう…

ふう…

ふう…

ふう…

ふう…

ふうふう…

ふうふう…

な…

ながいな…

ど、
どこまで続くんだこの階段…

ああ、また、下腹部っううう
も…漏れ…

いかん、落ち着け。
神は俺に救いの手をさしのべてくださったんだ。
裏切るはずはない。

もう、すぐそこのはずだ…
きっとすぐ、そこに…

あ。あんなところに、
張り紙が…。

ふう…

ふう…

ふう…
ふう…

な…なんて…なんて書いてある…

…「ようこそ、安住の地へ」…

やった…!
たすかった…
天国はあったんだ…!

あれ…もう一行…書いてる…

「がんばれ、あと3万段」…?

ううっ、
か…

神よ…!!

出演者情報:遠藤守哉 青二プロダクション http://www.aoni.co.jp/

 

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勝浦雅彦 2015年10月4日

katsuura1510

幻の炎

      ストーリー 勝浦雅彦
         出演 石飛幸治

テーブルの上で小さな燭台の火が揺れている。
店には雄一たちの他に、客は誰もいなかった。
「ようやく連絡が取れたと思ったら、この店だもん。びっくりしちゃった」
咲枝は屈託なくえくぼを見せる。
自分の妻なのに、雄一はどんな顔で向き合えばいいのかわからなかった。

「ひとつ聞いていい?」
「ん?」
「なんでそんな派手な服を着て来たの?」
咲枝は赤に白いラインの入った鮮やかなワンピースを着ていた。
「え、だって可愛いから。好きでしょ、こういうの」
雄一は瞬時に苛立ちを覚え、思わず語気を強めた。
「あのなあ、嫌みかよ。旦那が荷物を持って出ていき、
もう三カ月も連絡がありません。
急に話があるから、と初めて出会った店に呼び出しました。
これでさ、何を話すと思ったの?」
咲枝は黙っている。
「どうしてそうなんだよ、そもそも勝手なのは俺なんだから、
怒ったり、問いつめたりしたって」
遮るように咲枝はつぶやいた。
「最後・・・」
「え?」
「最後かもって思って、着てきた」

咲枝と付き合いだして一年半で結婚を持ち出されたとき、雄一は即座に断った。
好き嫌いではなかった。不完全な状態のまま型に組み込まれ、
足下だけが固まっていくことが想像できなかった。
咲枝の「そのふわふわした感じ、二人ならはやく抜け出せるかもよ」
という一言が雄一を翻意させた。逃げ道を探してもいた。
そうして、二人は式も挙げず、周囲にも殆ど知らせることもなく、
紙とボールペンと判子だけで夫婦になった。

「・・・別れない」
「え?」
「私、別れないよ」
「やめろよ、そういうの。なんかさ、怖いよ。
これからどうする?定職についていない夫。
それを支える妻、そんなありがちな構図が美しいのはせいぜい20代までだろ。
第一、さっきこれで最後かもしれないって自分で言ったじゃないか」
「でも、別れられないもん」
この感じだ、と雄一は思った。目の前にいる、触れ合ってもいる、
だが、現実感が無くなっていく。いつしか雄一は目の前にいる咲枝を、
妻でも、女でもない得体のしれない生き物のように感じ始めていた。
二年をかけてお互い違う何かに変わってしまったのだ。

「終わ・・・」
雄一の口が、そうひらきかけたとき、何かが顔に投げつけられた。
呆気にとられる雄一を置いて、咲枝は店の外に弾けるように飛び出した。
カツンッ、カツンッ、カツンッ・・・
階段を降りる聞き慣れたせっかちな足音が遠ざかり、
手元には白い封筒が残された。ひらくと、離婚届が入っていた。
咲枝の文字は薄く角張っていた。こんな字だったかな、と思った。
いつしか燭台の炎は消えていた。
よく見ると、それは紙でつくられた炎がランプの灯で揺れていただけだった。

区役所に向かうバスの中で、雄一は封筒をひらいた。
雄一と咲枝の名前が並んでいる。「離婚」という文字がなければ、
仲良くそこに座っているようにも見える。
窓の外は、赤や黄色の大小の風船をもつ親子連れが目に付いた。
きっと何かのイベントがあるのだろう。
ふと、咲枝の旧姓欄の名前が松岡のままであることに
気づいた。しまった。たしかここは本来咲枝の旧姓である高田
が入るのではなかったか。
これが書き損じの場合、どうなるのだろう。まさかもう一度書いてもらう?
雄一はだんだん腹がたってきた。それは咲枝に対してというよりは、
休日のバスの中でこんなことを考えている自分に対してだった。

「松岡さん、松岡さーん」
老齢の係員が大きな声で雄一を呼び出した。
「松岡さん、大変申し上げにくいのですが」
「何か・・・」
「離婚届は無効になります」
目の前が真っ暗になった、またやり直しか。
「あ、それはその書き損じが・・・?」
「いえ、違います。松岡さんは、結婚されてないんです」
雄一は一瞬、その言葉の意味がわからなかった。
結婚・・・していない・・・?
「この二年前の日付に、婚姻届が出された記録はありませんでした。
ですので戸籍上、奥さんとはご夫婦ではありません。
結婚されていない以上、離婚もできないんです。
失礼ですが今まで、住民票や謄本をとられたことはなかったのでしょうか」
思い当る節はあった。すべて咲枝に任せていた。保険も、手続きも。
蒼白の雄一に、係員は付け加えた。
「三年たてば、事実婚という考えも出てくるのですが、それは民法上の・・・」
その言葉を言い終わる前に、雄一は窓口を離れていた。

陽が落ち、赤く染まった道を雄一は歩いていた。
ひんやりしたアパートの階段を登る。カン、カン、カン・・・。
見慣れたドアはそのままだったが、人の気配はなく、
取り外された表札の白い跡が目に痛かった。
咲枝とかわした会話が脳裏をよぎった。

「私、明日一人で出してくるよ。婚姻届」
「え、いいよ。二人で日を決めて出しに行こうよ」
「日っていつ?」
「え?」
「雄君みてるとね、その気はあるんだけど、足が動かないんだろうなって思う。
ほら、よく子どもがエスカレーターから降りる最後の一歩が出なくて
戸惑ってるときあるでしょ、あんな感じ」
「俺はガキかよ」
「男の人の方があるんじゃないかって。どうしても最後の一歩が出ないこと。
紙一枚のことなのにね。出してくるから家で待ってて。
帰ってきたら、お帰り、奥さん、って出迎えて」

別れられない、当たり前だ。一緒になってなかったんだから。
なぜ届けを出さなかった。どんな気持ちで毎日俺と過ごしてたんだ。
ただ、それを聞きたかった。
あったはずの二年間は幻のように消えた。咲枝も消えた。
あの夜、自分が吹き消したのだ。

玄関の前にしゃがみこんだ。動けなかった。
せめて、あのせっかちな階段の音が聞こえないかと、耳をすませてみたが、
夕闇の住宅街を切り裂く風だけが、雄一の肩先を通りすぎていった。

出演者情報:石飛幸治 http://www.studio-life.com スタジオライフ

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