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佐藤充 2024年11月10日「雪虫」

雪虫

    ストーリー 佐藤充
       出演 大川泰樹

中学時代の家庭科の時間。
栄養バランスのいい献立を考えて、
それを調理実習の時間につくることになっていた。

多くの男子はバランスなど考えずに食べたいものを書いて、
野菜も入れなさいなどと先生に注意を受けていた。

それを聞いて僕はハンバーグや生姜焼きだったら、
ハンバーグには玉ねぎが、生姜焼きには生姜が入っている。
これはギリギリいけるのではと思っているときだった。

隣の女子が何を書いているのか覗いてみた。
見た瞬間にくらくらしたのを覚えている。
そこには『カロリーメイト』とだけ書いていた。

正しくて、面白くて、新しい。
調理実習であるという固定概念に
邪魔されていない自由な発想だった。

『カロリーメイト』はバランス栄養食だし、
部活をやっている僕はいつも食べていた。
こんな身近にあるのに気づくことができなかった。

どんな顔をしてこんなことを書いているのかと
見てみると凛と澄ました顔をしていた。

澄ましたまま席を立ち上がり、
『カロリーメイト』とだけ書いた献立表を先生に見せる。

先生は一瞬困惑した表情をして、
彼女に何かを言っている。

「今回は調理実習だから調理できるものじゃないとね」
的なことを言っているように見える。

彼女は表情を変えずに席に戻り、
僕の献立表を一瞥する。

ハンバーグには玉ねぎが、
生姜焼きには生姜が入っているから、
これで野菜も摂取できるとか
つまらないことを考えているんだね、
と言われているような気分だった。

敗北にも似た感情だった。

それがマスイだった。

マスイは変わっているやつだった。
別々の高校になったがよく遊んだ。

一緒にいるときによく言っていたのが、
「悲しいから遊びたくない」だった。

聞くと、
「今日が終わることを考えると悲しくなる」
と言う。

なんだ、それ。かっこいい。

喜怒哀楽のなかで1番かっこいい感情は悲しみだ。
北海道の田舎の高校生の僕にはそう思えた。

喜ぶのも怒るのも楽しいもすこしバカっぽい。
悲しむのはどこか哀愁をともなってかっこいい。

だから悲しいと言う理由で、いつも遊ぶのを断られた。

そのたびに僕は「また遊べばいいよ」と、
断られても毎日のようにマスイの家に遊びに行っていた。

10月。
北海道の高校では修学旅行の季節である。
マスイは修学旅行に行かなかった。
理由を聞くと家で猫といっしょにいる方が楽しいから、と。

くらくらした。
雪虫が飛んでいた。

雪虫とは白い綿毛のついた小さな虫である。
北海道では10月に雪虫が飛ぶ。
大量に発生する雪虫はすべてを白で覆い尽くす。

家を、学校を、帰り道によく行くセイコーマートを、
1時間に1本しか来ないバスを、軒下で干された大根を、
枯れた落ち葉を、電柱の錆びた歯医者の広告を、
身体を、頭を、ぜんぶ真っ白にする。

雪虫はやがて時雨に変わる。
そして時雨は雪に変わる。

こうして冬がやってくる。



出演者情報:
大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

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小野田隆雄 2024年10月27日「昭和時代」

昭和時代

   ストーリー 小野田隆雄
      出演 久世星佳

鳥取県から岡山県まで、
中国山脈を越えて走るJRの列車がある。
岡本京子が、この列車に鳥取県の米子駅から乗ったのは
10月上旬、秋晴れの朝だった。
彼女は文化服装学院の三年生。
ファッションデザイナーにはなれなくても、
その方面で働きたいと思っていた。
この列車に乗りたかったのには、ささやかな理由がある。
高校時代に好きだった、井上靖の「高原」という詩の舞台が、
中国山脈がつくる高原地帯の村だったのである。
その高原を吹き過ぎる風の匂いに、京子は触れてみたかった。

列車は大山という名前の、姿の美しい山をめぐるように走り、
やがて峠を越え、岡山県に入っていく。
その列車を京子は、新見の駅で途中下車した。
車窓から見えた遠くの村が、彼女を誘っているように思えたので。

駅前の町並みを抜けると、遠くの村へ続く道は、
雑木林と草原のあいだを、曲がりくねって続いている。
雑木林にはシラカバも混じり、草原の主役はススキだった。

やがて道は広場のような場所に出る。
村の入り口だろうか。
そこから先は、道の両側に畑が続き、あちらこちらに農家も見える。
その道を、京子は歩き始める。
空は青く、風も吹かない。誰もいない。
静かだった。そろそろ正午になるだろうか。

そのとき京子は、一軒の農家の庭先が、あざやかに赤く、
太陽に反射しているように見えた。

京子は近づき、低い垣根の前に立ち、農家の広い庭を見た。
そこには三枚の「むしろ」が並んでいた。
「むしろ」は収穫が終わったあとの稲の葉や茎を編みあげてつくる、
古くからある敷物である。「たたみ」の原型かもしれない。
その三枚の「むしろ」の上に5センチほどの、あざやかに赤い草の果実が、
童話に出てくる小人たちの赤い帽子をそのまま細長くしたような形をして
びっしりと並んでいる。
赤い帽子たちが太陽の光を吸っている姿に京子は見とれていた。

そのときすこし風が吹いた。
すると小人たちはハミングするように、「むしろ」の上で、
カサコソカサコソゆれ始めた。

それは無意識の行動だった。
京子はスーツケースから、小型のラジオカセットを取り出すと、
スイッチを入れた。
ビートルズが低く聞こえてくる。
京子は気分が高まると、ジョン・レノンを聴きたくなる。
「イン・マイ・ライフ、僕も好きですよ」
突然、今日子の背後で男性の声がした。

「あれは?なんですか?」
思わず今日子は、その男性に尋ねた。
男性は二十代の後半だろうか。
古びたジージャンの肩にショルダーバッグ。
小さな旅の途中なのかもしれない。
彼が言った。
「あれは、とても辛いトウガラシ。
 あのように太陽で日干しにしたら市場に出します。
 ナナイロトウガラシの材料です。」
そのようにていねいに話すと、
彼は京子に軽く会釈をしてからその農家に入っていった。
「ただいまあ」と言いながら。

あれから一年後、
京子は大学を卒業して、青山のブティックに就職した。
先輩のアクセサリーデザイナーの資料捜しが、仕事の大半だった。
数年後、ブティックの経理を担当していた税理士の川上高志と結婚し、
長女が生まれたので退職した。

短い彼女のデザイナー時代に、ひとつだけ商品化された企画があった。
カジュアルなファッションを楽しむとき、
胸元を飾るアクセサリーとして、野菜の果実をデザインしたのである。
トウガラシ、トウモロコシ、キュウリ、ナス。
そのブローチが、彼女の退職したあとに、ちょっと評判になった。

あのデザインを考えるとき、京子は思い浮かべていた。
結婚を約束した高志が、ジージャンを着て、
その胸に小人の赤い帽子をつけているのを。

遠い村で、京子が出会った風景は
すべて記憶のなかに溶け込んでしまった。
幼稚園に長女を送っていくとき、
いつもジョン・レノンをハミングしている。
けれどそのことに、京子は気づいていない。



出演者情報:久世星佳 http://www.kuze-seika.com/

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佐藤充 2024年10月20日「唐辛子とホルモン」

唐辛子とホルモン

    ストーリー 佐藤充
       出演 地曳豪

東京に妹と甥っ子と母親が来たので、
焼肉をご馳走することにした。

最近どう?のノリで甥っ子が
「50メートル何秒?」と聞いてくる。
「今だったら10秒以上かな」と答えると、
「おそ。おれ7秒」と噛んでぐちゃぐちゃになった
ストローでリンゴジュースを飲みながら言う。

「でも昔は6秒台だった」と答えると、
「すげ」と甥っ子は尊敬の眼差しで見てくれる。

甥っ子は妹の子供で、
僕が高校生のときに生まれた。

人生ゲームだったら、
ぼくはルーレットを回しても1しか出ない。
牛歩のようなスピードで駒を進めている。
妹は常に10が出て人生を進めている。
バツ3で、また結婚しようとしている。

いつだったか電通に勤める知り合いから連絡がきた。

「いま、お前のお姉ちゃんと合コンしている」と。
「僕に姉なんていませんよ」と返信すると、
「ほんと?この人だよ」と1枚の写真が送られてくる。
そこに映るのは妹だった。

どうやら合コンで出身地の話題になり、
旭川だと自称姉の妹が答えると、
電通の人が「だったら佐藤のこと知ってる?」と言うと、
「それ弟です」と答えたらしい。

確かに人生という意味では妹は大先輩である。
思うと家族のなかでのヒエラルキーで僕は最下層に位置している。

もちろん理由もなくそのような扱いは受けない。

学生時代に留年したことを隠して、
就活には車の免許が必要だから
免許取得するためのお金を貸してくれと嘘をつき、
借りたお金で海外に2ヶ月くらい行き音信不通になり、
帰国する際に無一文になったのでまたお金を無心したりした。
親がダメだったら妹にもお金を貸してくれと連絡をした。

そのようなことすると妹も姉を名乗るようになる。
慕ってくれるのは甥っ子だけだった。

サッカーのリフティングができる。
そのままボールを公園の木より高く蹴り上げられる。
パソコンの文字を素早く打てる。
ゲームセンターのワニワニパニックでワニを逃さずにハンマーで叩ける。
飛行機にひとりで乗っていろんな海外に行ける。
地元の駅前から実家まで何も見ずに歩いて帰ってこられる。
割り箸を片手でパキッと折れる。
ロケット花火を手に持ってできる。
実家のテレビをNetflixが見られるようにしてくれる。
サウナと水風呂に長く入っていられる。

甥っ子はどれだけ僕がすごいのかを妹や親に語る。
すると決まって「わかってない」「人を見る目がない」
「騙されるんじゃないよ」などと甥っ子は責め立てられる。

甥っ子は悪くない。ぼくが悪い。

目の前にある七輪の上のホルモンがそろそろ食べごろになっている。

「この唐辛子あるでしょ」
「うん」
「これだけで食べると辛いけど、
ホルモンと一緒に食べたらぜんぜん辛くないからやってみな」
「ほんとだ、すげぇ」

甥っ子はまた妹や親から注意を受けている。



出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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名雪祐平 2024年10月13日「走れ唐辛子」

走れ唐辛子

ストーリー 名雪祐平
出演 阿部祥子

ここ、いいバーだねぇ。
ちょっと酔ったついでに、白状しようかな。
会ったばかりの男の人に、恥ずかしいけどさ。

わたし、刺青あるんだ。
ううん、小さいよ。燃えるような赤いやつ。
唐辛子の刺青なの。

綺麗でかわいいんだけど、
ファッションのタトゥーじゃないつもり。
わたしには、誇りだから。

ふふ、こんな話されても困る?
でも、わたしを知ってもらうには、
刺青の話がいちばんって思ったんだ。
からだのどこかは、まだ秘密。あとでね。

なんで唐辛子? って思うよね。

わたし、郵便配達員なんだ。
いま10人に1人くらいかな、女の配達員。

ホンダの赤いスーパーカブに乗ってて、
ある朝、局から5台一列で出発したのね。
その瞬間、感じたの。
アッ、似てるって。

ほら、見たことあるでしょ。
インドカレー屋さんのメニューに付いてる
唐辛子マーク。
激辛のカシミールカレーなら唐辛子5つとか、
甘口のバターチキンカレーなら唐辛子1つとか、
あのマーク。

その朝、赤いバイク5台が唐辛子5つだぁ、
って見えたの。激辛だぁ、って。
朝っぱらから楽しくなっちゃった。へん?

もう気づいたと思うけど、
わたし、郵便配達、大好きで。

お手紙届けたり、申請書類届けるのだって、
誰かの人生に関係してるんじゃないかな。
そのラストワンマイルを走るアンカーが
わたしなんだって責任もってる。

そういう郵便配達の誇りって、
目に見えないでしょ。
刺青なら、しるしとして見えるし、
だったら、毎日配達する相棒のバイク、
唐辛子しかないって思ったの。

でも、ただ刺青するんじゃおもしろくないでしょ。
条件を考えたんだ。

一生懸命配達してると、
ありがとうって声をかけてくれたり、
飲み物やお菓子をくれたりする人がいて、
ささやなことが、すっごくうれしいの。

そうはいっても二言三言のやりとりだから、
下の名前で呼んでもらうほど近づけるって、
あまりなくて。

あ、わたしの名前、ナオなんだけど、
配達先で、もしナオって呼ばれたら
唐辛子1つ、刺青してオッケー。
そういうルールにしたわけ。

がんばったなぁ、がんばった。
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬって、わたしだもん。

配達担当エリアに、
チバさんという若いご夫婦の家があってね。
共働きだったんじゃないかな。いつも留守で。
赤ちゃんができてからは、ママが抱っこして
ときどき受けとってくれるようになったの。

わたしも赤ちゃん見てニヤニヤしちゃうから、
自然に話しかけてもらう仲になったんだ。

チバさんに配達するたびに、わたしも、
たわいもない話したり、冗談ぽくグチったり、
赤ちゃんにおどけてみたりして。

でもベタベタするのも仕事上よくないし、
1分もいないから、
ナオって名前まで呼ばれることは……なかった。

しばらくたって、赤ちゃんが1歳になるころにね、
チバさんが初めてこう言ってくれたの。

「ナオさん、わたし仕事に復帰するね。
子育てつらかった時もあったけど、
ナオさんが来てくれると、いつのまにか笑ってた。
ほんとうにありがとね。
あまり会えなくなるけど、
お仕事がんばってね。からだに気をつけてね」

わたし、肩が震えてたと思う。
うれしくて、かなしくて、うれしくて。

つぎの休みに、唐辛子の刺青を彫ったんだ。
いまもまだ、その唐辛子1つしかないの。
まだまだ甘口なわたし。バターチキンなわたしです。

赤い赤い唐辛子。傷口みたいに美しいんだよ。
からだのどこかは、口では教えない。
探してみる?



出演者情報:阿部祥子  連絡先ヘリンボーン https://www.herringbone.co.jp/

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山中貴裕 2024年10月6日「指の系譜」

指の系譜

ストーリー 山中貴裕
出演 大川泰樹

青い唐辛子のようなちいさな指で
一生懸命に鼻くそをほじっている少年の私を見ながら祖父は、
「ほじってもええけど、それ食べたらしょっぱいでえ」と
ニヤリと笑った。
家族の誰ともほとんど話をしない祖父だったが、
孫である私には、時折そんなふうに
こっそりコミュニケーションをとってきた。
祖父から漂ってくる煙草の匂いは、
間違いなく、私にとって大人の匂いだった。

6人兄弟の5番目として生まれた祖父は、
家が貧しかったため、小学校を卒業するとすぐ
「口減らし」のために親戚の家に養子に出されたが、
無口で愛想が悪い子どもだったため、
養父や養母に可愛がってもらえなかった。
祖父がたまたま学校を早退して早く家に帰ると、
養父と養母が内緒ですき焼きを食べている場面に出くわしたことも
あったという。
肉が貴重な戦時中、きっと育ちざかりの祖父も
喉から手が出るほど食べたかっただろうに。

そんな切ない暮らしに耐えかねたのか、
自暴自棄になったのか、それとも本気でそう思ったのか、
「戦死した兄貴たちの敵討ちに行く」と言って
祖父は、赤紙もきていないのにみずから望んで戦争に行った。
16歳の志願兵。
今なら高校一年生の男の子である。
飛行機乗りになりたかったが足の裏が偏平足だったのが原因で不合格となり、
九州の飛行場で整備兵として働いた祖父はそこで終戦を迎えた。
ふるさとへ帰る兵士で満員の貨物列車が広島駅で停車したとき、
焼けただれてすべてが破壊された街のむこうに
青い海が輝いていたという。

「もしも飛行機乗りになれてたら神風特攻隊に選ばれて死ねたかもしれんなあ」
という言葉を、一度だけ祖父から聞いた日があった。
「じいちゃんが死んでたら僕は生まれてないね」と私が返すと、
祖父はニンマリとほほ笑んで「お前は賢いなあ」と頭をなでた。
私が広告屋になったとき誰よりも喜んでくれた、祖父。
じつは絵を描いたり文章を書いたりするのが好きだった、祖父。

戦争中のケガが原因で、祖父の右手の人差し指は、半分欠けていた。



出演者情報:
大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

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安藤隆 2014年9月29日「面影飯店、葡萄色」

面影飯店、葡萄色

ストーリー 安藤隆
   出演 大川泰樹

 太る男はきょうも太る。せんだってまで3
畳ほどだったのに、いまは4畳半ほどにまで
太ってしまった。
 そのことについて、なぜそのように太るの
か太る男よ、となじられても困る。だってそ
れはおれのせいですか。
 太る男は憤慨し、憤慨すると目をそらす。
だっておれには、悲しみを怒りに変えて燃や
す内燃機関が、生まれつき備わっていないの
だといきりたつ。いきりたつとうつむく。う
つむいてお辞儀する。

 面影飯店の二重になったカーテンの内で、
ベッドの上やそこかしこで、太る男は朝から
すでに太りはじめている。
 たしかにカロリーメイトのようなものをぽ
ろぽろ食べたし、ウイダーインゼリーのよう
なものをちゅうちゅう吸った。部屋に降り積
もったそれらの滓や容器のうえに、スカート
みたいな尻を、ぺったんこつけて座るものだ
から、尻には滓や容器の跡が、赤い点々とな
ってついた。それから太る男は、厚く塗った
口紅を、壁一面の作りつけの鏡にぶにゅと押
しつけた。
 二重になったカーテンの外は暗い旬である。
中国人たちの苛立ちのクラクションが、交差
点の真脇にあるこの鏡の間までとどく。けれ
どひっきりなしの喧噪の奥から、猫がミルク
を舐めるような静寂が伝わってくるのは、雨
が降っているせいだと太る男は推測する。

 1991年春の桂林もまた冷たい雨の底に
沈んでいる。土饅頭のような山々を、有るか
無きかの煙雨(けぶりあめ)が、絶え間なく
覆って物事と物事の境界を曖昧にしている。
見えない雨のなか、人々は黒い合羽を着て黒
い自転車を漕いでいる。
 夕暮れになると太る男は面影飯店前の、
雨に汚(けが)れた石畳にずらり並ぶ赤と青の
パラソルの下で、鍋の犬肉を食べた。スープ
に沈む豚の脳みそを、噛まずに呑んだ。唇は
脂に濡れ紫色に照り光った。
 それらは四半世紀たっても消化しきらず、
太る男の太っ腹の中で、表面の溶けた胎児の
ようなものとなり、折々に憂鬱を発動する。

 君の指がくるくると黒いフェルトペンを回
している。太る男の目がそこから離れられな
いのを知って、ひらひらと少し隠す。性器を
少し隠すように。君はやはり稀代のエロ女。

 煙(けぶり)のごとき雨は、世界の隙間に
嬉々として入り込み、われらのジャージの下
の恥骨までひたひた水浸しにしている。
 あんたは日本人かね。脳みそスープの店主
である中国人の父親が尋ねる。
 そうそうそうそう!ニホンジン!
 店主の横に座っている利発そうな長男が、
悪い日本人を睨んでいる。
人民帽を深く被った静かな人々によって、
雨のなかをゆっくり漕がれる自転車の、荷台
のみすぼらしい筵(むしろ)の下から、皮を
剥がれた犬の葡萄色の足が覗けている。
 屈辱と寒さと恐怖で微細に震えている。よ
ほど怖かったのか死んでからも震えている。



出演者情報:
大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

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