中山佐知子 2007年1月26日



一軒宿の日記            

                   
ストーリー 中山佐知子                     
出演 大川泰樹

目が覚めたら、障子は明るいのにポタポタと雨音が聞こえていました。
雨音というより雫の音です。
2階から見ると、狭い道を隔てた共同浴場の屋根が白く光っていました。

雪、と僕は日記に書いたけれど本当は霜でした。
今朝は大霜です、と宿の女将さんの高い声が
階段を降りる僕の肩に刺さって、
僕は日記のウソを知られたかとうろたえました。

川沿いの一軒宿から見る景色は、その霜の朝を境に一変しました。

葉を落とした落葉樹は小骨のような枝がくっきりと見えてきました。
川も涸れて細い流れの両側には
あばらが浮き出るように大きな石が顔を出しました。

山も川もすべての罪をさらけ出して眠っているようでした。
僕もよく眠っています。
もう何日も眠りつづけています。

あなたがいなくなってから
あなたがこの世界から消えてから
僕ははじめてやすらかな日々を過しています。
あなたのカラダはもう僕を置き去りにすることはなく
あなたの心はどこにも飛んでいかない。

あなたの眼はもう誰も見ることがなく
あなたの手は誰にも触れることはない。
僕はすっかり安心して白いお湯の中で手足を伸ばし、
あなたを忘れる時間さえ持てるほどです。

お湯の湧く川の向こう岸には
石垣を組んで何軒かの家がうずくまり
そばの畑からここ何日か籾殻を焼く煙が登っています。
籾殻はじわじわと蒸し焼きにすると黒い炭になり
燃え過ぎると白い灰になると教わりました。

僕はきっと、いっぺん灰になってしまったんだ。
そして、灰ではないものに再生するために
この一軒宿にやってきて
心のアリバイを日記に書き続けているのだと思います。

籾殻の煙が消えると
西の空だけが不思議と明るく
ものの輪郭が不確かになる夕暮れがやってきます。

僕があなたの首に手をかけたとき大きく開いたあなたの眼
あのときの眼が日記を覗きこむ気配を感じるのも
そんな夕暮れです。

あなたはその眼を、もう一度眠らせてもらいたいですか。

日記の中の僕は
いなくなったあなたを悲しんでいるけれど
日記を書いている僕は、
何度でもあなたの眼を閉ざすことができます。
それほど僕は、あなたの眼を愛しています。

出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP

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安藤隆 2007年1月12日



70歳の男は    
                   

ストーリー 安藤隆                      
出演 大川泰樹            

新宿3丁目の居酒屋で
コピーライターの福岡くんが70歳の男に喋っていた。
女性は失恋しても平均3週間で回復するんですって。
だけど男は平均3ヶ月かかるらしいですよ、と。
70歳の男は「そんなもんでしょ」と口で合わせてひそかなショックを隠した。
なぜなら70歳の男は失恋から立ち直るのに最低でも3年はかかる。
そして70歳の男にとって最後かもしれない、新しい失恋が始まったばかりだった。

70歳の男は55歳くらいに見える。
だけど代償は払っている。
つまり下半身は80歳くらい。
言うことを聞いてくれない。
恋はだから不完全なものだ。
ひどく高い寿司屋に連れてゆきカウンターの下で手を握る。
ひからびた手で湿った柔らかい手を撫で回す。

きょうの朝、70歳の男は、以前女と来た丸の内の大きな本屋の喫茶店へ
ひとりでやってきた。
女が食べたシナモントーストを注文した。
生クリームをたっぷりつけ、はみ出て指についたのを女がしたようにそっと舐めた。
目をつむると女の微笑んだ顔が見えた。
「おいしい」と呟いた女の生暖かい声が確かに聞きとれた。
70歳の男はさっき買ったばかりの黄色の小さな手帳を開き、
1ページめに、ああ、と書いた。

そうやって字を書きはじめたのは70歳の男が18歳だった冬で
生まれて初めての手ひどい失恋の中にいた。
失恋とは結局自分を全否定されるという経験だ。
自分は強く、明るく、人生に祝福された人間だと思いたがっていた甘い18歳が
こわれるのはたやすかった。

あの日の夕暮れ、自転車に乗って走っていた。
胸が急にどきどきした。
何かが起きた。
「僕は自殺する」という未来が不意に見えた。
18歳は必死で家へ戻り部屋に閉じこもってノートに字を書いた。
「何かこわいことが起きた。どうしよう。」と。
こうして本当の自分を受け入れることができるようになるまで
毎日ノートに字を書きつづけることが始まった。

悲しいときに悲しいと書くだけで人は少し息を継げる。
書くことは何をもたらすというよりも、苦しい胸の内をやりすごす作業。
70歳の男は結局失恋したときだけ日記を書く男になった。
そして、きょう、丸の内の大きな本屋の喫茶店で、
買ったばかりの黄色い手帳に、ああ、と書いた。
ああ、の続きを考えて、ああ、だけにした。

出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP

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中山佐知子 2006年12月23日



マフラーの雪           

                      
ストーリー 中山佐知子
出演 大川泰樹

塀に沿って植えてある雪割草の常緑の葉の上に
ふわりと積もった雪を
小さかった君は「マフラー」といった。

そのときは
君がクリスマスにもらったばかりのマフラーを見せに来ていたときだったので
白い雪も吹き溜まった茶色の落ち葉も
みんなマフラーに見えるんだと僕は思った。

マフラーの雪はすぐ溶けたけれど
その冬はいつもより寒い冬で
水道がぶるぶる震えて氷を吐き出したり
鉢植えがひと晩で凍りついたこともあったね。
いっそ雪が積もってくれた方が植物は助かるのに、と
僕の母も庭を眺めてはつぶやいていた。

日曜日、目が覚めたとき妙に静かだと思ったら
こんどは本格的な雪が積もり
ツリバナやクロモジのやわらかな木の枝が重そうに撓(たわ)んだ。
その雪を払いのけている母から
この雪の布団は冬から芽を出す節分草や
緑の葉が凍えている雪割草を守ると教わったんだ。
雪のマフラーと言う人と雪の布団と言う人の
その言葉の違いと認識の違いに気づいたのは
もっともっと後になってからだった。

君はもう、小さな女の子ではなくなったのに
ときどきその明るすぎる眼で僕をたじろがせることがある。
土の下には種が眠り、この世の暗がりには悲しみが沈んでいるのに
君の眼は日の光を浴びて生きるものだけを映し
君のマフラーは明るい地上で動くものしか守ろうとしない。
君がいまだに無造作に踏み込むその靴の下から
春にはスミレが顔を出すことを知ることもない。

そして、僕は未だに
すべての命は暗い場所から生まれ
この星もまた闇の宇宙に浮かぶ一粒の種である真実を
君に教えられないでいる。

出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/ 03-3478-3780 MMP

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中山佐知子 2006年11月24日



置き忘れていった                    
                           
                   
ストーリー 中山佐知子                      
出演 大川泰樹

置き忘れていった小さな腕時計を
僕はときどき取り出して触る。
もしかしたら、
わざと置き去りにされたのかもしれないと考えてもみる。

その持ち主の手首の細さをもう覚えてはいないが
腕時計をはずすときの指のカタチがぼんやり記憶にある。
結局僕は
針を合わせたりネジを巻くその指が好きだったのか
それともこの小さなかわいそうな腕時計が好きだったのか
いまだにわからないでいる。

このところ気温が下がりはじめ
文字盤のガラスがときどき曇る。
僕の時計も一緒に曇って
針のありかがよく見えなくなってしまうので
縁側の先まで霧が押し寄せている朝などは
世間からも、時間からも、
ひどく遠ざかったところに漂っている気持ちになる。
僕は本当にそんな場所に、ひとりいるのかもしれない。
君の時計だって
そんな寂しいところでじっと耐えているんだよ。

たまに空に向かって呼びかける相手の、
どちらの手首にこの腕時計が巻かれていたのかさえ、
もう思い出すことがなくなっているのに
その人が、わざと時計をしたまま水槽の水を替えたり、
焚火の栗を突ついたりしていたのは
どういうわけか覚えている。
小さな時計はいつも喪に服したようにひっそりと悲しんでいた。
そして、とうとう置き去りにされてしまったんだ。

ある昼下がり、
長く伸びた日差しを浴びているヤブコウジの赤い実を見つけたとき
この季節に生きた色を持たないものは
すべて眠ってしまえばいいと思った。
落葉樹が葉を落とし、樹液の水路を閉ざして眠るように
トカゲが土の中で目を閉じるように
時計も動きを止めてやれば目と心が閉じるだろう。
心が閉じれば寂しくも悲しくもないだろう。

僕は小さな時計を洗ったばかりのハンカチにつつんで
小机の引出しにいれたまま
3日ほど様子を見ることもしなかった。
うっかり手に取るとネジを巻いてしまうので
引出しを開けることもしなかった。

4日めの朝、寝静まった巣箱を覗きこむように
そっとハンカチを広げたとき
小さな時計はまだかろうじて息をしていた。
1秒の3倍ほどかかって
秒針をひとつ進めるのが精一杯だったけれど
時計は目も心も閉じようとはしていなかった。

悪かったね
僕はもう一度小さな腕時計のネジを巻いた。
冬が来ても時計と人に楽園の眠りはやって来ないが
ヒリヒリと痛がる心がやがて赤い実をつけるかもしれない。

出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP

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児島令子 2006年10月20日



『彼女の出張』
                      

ストーリー 児島令子
出演    大川泰樹

もしもあなたが、
大阪から東京に向かう新幹線の中で、
ペンとノートを手に、
考え事をしている女性を見かけたら、それは彼女かもしれない。

彼女の職業は、女芸人。
最近急にブレイクし、大阪から東京に呼ばれることが多い。
彼女は、それを「出張」と呼ぶ。

彼女は、東京23区内でギャラを稼ぎ、
大阪西税務署で納税している。
東京都知事よりは、大阪府知事に愛されそうな生き方。

彼女は、東京までの2時間半、
出張先で披露するネタを考える。
「こんな感じでいいんじゃないの」
ってやつなら、もうできている。
「これでなくちゃいけないの」
ってやつが、まだでていない。。。。

彼女はまったく、天才なんかじゃない。
だから、考える。

もしもあなたが新幹線の中、
名古屋を過ぎたあたりで、
座席でメイクを直している女性を見かけたら、彼女かもしれない。

電車の中でメイクをするのは、ルール違反。
でも、新幹線の中は例外。隣が空席の場合はもっと例外。
それが、彼女のルールブック。
自分を自分なりにきれいにしておくことと、
いいネタを持参することは、
居心地のいい出張のための条件。

それに、もはや、おかしな顔で面白いより、
美しくて面白い方が、面白い時代なのですよと。

メイクをチェックして、ふたたび、仕事に集中。

もしもあなたが、東京駅に着くまぎわに、
コーヒータイムしている女性を見かけたら、彼女かもしれない。

「お熱くなってますのでお気をつけください」
差し出された車内販売のコーヒーを、彼女は味わう。
いま、ノートに書き込んだばかりの新ネタを見つめながら。

新幹線は必ず行き先に着く。だから彼女は救われる。
東京駅という締め切りに向かって2時間半、
彼女のネタ作りの旅は、コーヒーで締めくくられる。

ダークブラウンの液体とともに彼女が飲み込むのは、
あるときは、小さな達成感。「やったね、これだ」
あるときは、少しの敗北感。「こんなもんかな」

だけど、いずれにせよ、締め切りがあってよかったのだ。

人生は、
さまざまな時間のユニットでできていて、
それぞれに終わりがあるから、
ささやかな何かを成し遂げることができる。

コーヒーを飲み干したとき、
彼女の手からノートが通路にすべりおちた。開いたままの状態で。
見開きいっぱいに、へんなコトバや文章が並んでいる。

まわりの乗客の視線を感じたとき、
彼女はもうひとつ、ネタを思いついた。

「今日、新幹線でネタ考えてたら、コピーライターとまちがわれたんですよ~」

彼女は東京23区内へ消えていった。

*出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/ 03-3478-3780 MMP

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