夕方の匂い
お向かいの徳永さんは、空き家になったままだ。
道路から中をうかがうと、
新たな家主である雑草たちは野放図にのびさかり、
鮮やかな緑色で庭を覆いつくしつつある。
ふと気づく。今日は豚の角煮を煮る匂いがしない。
この家に引っ越してきた頃、
徳永家は、ご夫婦と幼いお嬢さんの3人暮らしだった。
けれど、お嬢さんが高校生の頃、
一人で北海道旅行に行ったまま、
行方不明になってしまったのだという。
わたしが物心つく前の出来事だ。
徳永の奥さんは、それから毎日、豚の角煮を作り続けた。
角煮が娘さんの大好物だったから。
いつあの子がもどってきても、角煮をたべさせてやれるように。
徳永さんのご主人は、何年かして、出て行ってしまった。
それでも、角煮の匂いはおさまらなかった。
砂糖と、醤油と、豚の脂と、八角の混ざりあった、
粘り気の強い匂い。
塾の帰り、部活の帰り、バイト先からの帰り…
わたしは、毎日、お向かいから漂ってくるその匂いを
嗅ぎながら生きてきた。
それは去年の暮れ、徳永の奥さんが入院するまで続き――
年を越すことなく、奥さんは亡くなった。
我が家と徳永さんの家とは付き合いがなく、
ときどき、家の前の道路を掃除する奥さんと挨拶をかわすくらいで、
そのお宅に上がったこともない。
それでも、生垣の切れ目からのぞくその庭が、
徐々に荒れていく様子を見るのは、悲しかった。
わたしは、門の前に進んだ。
門の扉を押してみる。すると、抵抗なく開いた。
入って…みようか?
周囲に誰もいないことを確認して、庭に入ってみる。
足元から、バッタが何匹か跳ねて逃げた。
庭の方を見ると、レンガで区切ったごく小さな花壇がある。
ふだん道路から覗くときは生垣に隠されて見えなかった。
草しかはえていない花壇に、
色あせたプラスチックのショベルが落ちていた。
昔、娘さんが使っていたものだろうか。
庭に面した側は雨戸で塞がれていて、中の様子はわからない。
道路側を振り返ると、生垣越しに自分の家が見える。
こんな角度と距離で自分の家を見たことがない。
すぐそこにあるのに、なぜかとても遠いところに感じる。
わたしは、玄関に戻り、ドアの取っ手に手をかけた。
ドアを引く。
鍵がかかっていてほしい、と思う自分もいた。
だが、ドアは、そのままこちら側に開いた。
中の空気が流れだす。
それは、あたたかく、今まさに料理をしている人と、
火の気配をふくんだ空気だった。
そして…わたしは、嗅いだのだ。
角煮の匂いを。
いま、まさに、くつくつとお鍋の中で煮込まれている。
その匂いの密度で、
もう、出来上がりの近いことがわかる。
「りかちゃん?」と女性の声が奥からする。
「りかちゃん、帰ったの?」
そして、ぱたぱたと軽やかな足音がこちらへ向かってきた。
わたしは、扉を閉め、玄関から道路に走り出る。
ごめんなさい。
ごめんなさい、徳永さん、わたしは、りかさんじゃないんです。
道路でわたしは、うずくまる。
何秒後か何分後かわからないが、
わたしは車のクラクションで我に返った。
振り返ると、見慣れた徳永さんの家が見える。
角煮の匂いは、もうしなかった。
庭の雑草が、傾きかけた太陽の光にまぶしく照らされている。
出演者情報:清水理沙 アクセント所属:http://aksent.co.jp/blog/