中村直史 2014年8月24日

「夢のパスワード」

     ストーリー 中村直史
        出演 遠藤守哉

現実の社会が、ハイパー電脳フィールドに満たされてしまった
22世紀の社会では、
リアルとバーチャルの境目は完全になくなっていた。
毎朝目が覚めると、私は家族におはようを言う前に、
家族それぞれの電脳フィールドにジャックインする必要があった。
まず妻フィールドに、そして娘フィールド、最後に息子フィールドに。
私は自らの電脳フィールドを通じて、ジャックインする。

電脳フィールドにジャックインするためには、
私しか知りえないパスワードが必要だった。
そしてパスワードは、安全のために毎日変更する必要もあった。
22世紀のハイパー電脳社会では、
ウイルスメイカーや国際的なサギ集団による
ありとあらゆるパスワード探査装置が開発済みであり、
自分の属性に付随するパスワード、つまり生い立ち、家族関係、
友人関係、趣味、好きなもの、嫌いなもの、
DNAの塩基配列にいたるまで・・・・
自分の肉体と歴史に関わるいかなるものも、
それを用いたパスワードにしてしまえば、
24時間以内にほぼ100パーセント見破られるのだった。
生きていく上で欠かせない日々のパスワードを
どのように用意するのかは、21世紀の終わりごろから、
最大の社会問題のひとつとなっていた。

問題解決の糸口となったのが、
今から約40年前の2102年に
カンボジアン・ナショナル・アカデミーの
ヴィエン・シュッツ・パーリ博士が提唱した、
パスワード制作プロセスだった。
博士の提唱はさまざまな実験段階を経て、
世界中で実践されることとなった。
その制作プロセスは、眠っている間に見る「夢」に着目していた。
人間が見る夢は、現実で起こった出来事を情報源としている。
けれど、夢となってあらわれる映像には脈絡がなく、
その脈絡のなさが、希望の光となった。
誰も知りえない脈絡のないものを毎日準備する。
現段階では、個々人の夢が最適かつ最強の脈絡のなさだった。

人々は、国家的な取り組みとして、
幼いころから夢を覚えておく訓練を、徹底的に行わされた。
3歳の誕生日から、国の施設に通い始め、
夢にあらわれたことを記憶にとどめておくこと、
また、見た夢を決してだれにも話さないことを完全に習慣化するよう、
くりかえし行わされた。
法律上定められた、電脳フィールドにジャックインしてもよい
6歳という年齢に達するときには、だれもが、
昨夜見た夢の映像をパスワード化することを習得していた。

今朝もまたいつものように、昨夜の夢をパスワード化した私は、
自分の電脳フィールドでパスワードの変更を行うと、
家族の電脳フィールドにジャックインした。
電脳フィールドに入ってしまえば、
わざわざ息子の部屋まで行くことも、わざわざ実際に声を出すこともなく、
まだ眠っている息子の背中をゆすりながら
「朝だぞ」と声をかけることが可能だった。
家族が朝食のテーブルにそろうときには、
もちろん、家族のそれぞれが、自分の電脳フィールドで
新しいパスワードを設定済みだった。
相互ジャックインされた電脳フィールドのおかげで、
今日もこれから一日、家族のだれがどこにいようと、
私たちは見るもの、聞くものを共有し、
物理的にいっしょにいるかのように、過ごすことができる。
それは21世紀の行きすぎた資本主義社会で崩壊した
家族の絆を取り戻す力があった。
ただし、家庭の会話の中から「あのね、昨日こんな夢を見たよ」
という会話が消えてしまったことが、どんな影響を及ぼすのか、
それを想像できる人間はだれもいなかった。
             

出演者情報:遠藤守哉 青二プロダクション http://www.aoni.co.jp/


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直川隆久 2014年6月22日

2014年6月6日(金)

         ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

7時32分:
起床。テレビをつけ「目ざましテレビ」を流しながら洗顔。

7時46分:
朝食。メロンパン1個と牛乳。

8時3分:
出勤間際、カバンの中に見慣れぬ茶色い皮の手帳、
すなわちこの手帳がはさまっているのを見つける。
不審に思って開く。
この手帳のダイアリーが見慣れぬ筆跡の字で埋められていることを認識する。

8時4分:
一週間ほど前の6月1日のページに見慣れた名前を見つける。
以下のような記載。

“午後10時42分、滝内絵里と会い。バー「F」に誘う。
話弾まず、終電があるとのことで滝内絵里、早々に帰宅。
一人のこされ悶々とする。”

8時5分:
手帳内のあらゆる詳細な記載がすべて自分の記憶と完全に一致すること、
そして自分以外の第三者による記述であることを認識。
監視の可能性に思いいたり、周囲を警戒するも、
不審者の存在および痕跡は発見できず。

8時6分:
本日6月6日付のページを見ようとしかけるも、あわてて手帳を閉じる。
逡巡の末、手帳を持って会社に向かう。

8時31分:
S駅行き急行に乗車。座席があいており、座る。
寝たふりをして終点まで過ごす。

8時54分:
出社。
私用メール、SNSで1時間27分過ごす。
滝内絵里からの連絡なし。

11時06分:
左の鼻の穴をほじる。

12時3分:
昼食。そば屋「長寿庵」にてカツ丼を注文し、
そのあと、注文内容を手帳とは別のメモ用紙に書き記す。

14時32分:
得意先からクレーム電話。ハタナカ産業山田から、
午前中必着の品物が届かなかったので代金をまけろという内容。
このクレーム内容と相手の名前および、“山田カスぼけ死ね”と
メモ用紙に書き記す。

16時37分:
西陽がさしこむ時間になり、汗ばみ、ネクタイをゆるめる。

17時5分:
会社を出、近くの地下街の公衆便所へ入る。
メモ用紙を取り出し、この手帳の記載と見比べる。
その日の行動があらかじめすべて正確に
手帳に書き記されていたことを発見。

17時6分:
嘔吐する。内容物は昼食のカツ丼および、缶コーヒー。

17時7分:
動転し、この手帳を便器の中につっこんで、排水レバーを押す。
何度か失敗するも、流すことに成功。

17時8分:
地下街のほうから大きな水音が聞こえるのに気づく。

17時9分少し前:
大量の糞便と水が爆発的に公衆便所の中に流れ込む。

(以下、空白)

出演者情報:遠藤守哉 青二プロダクション http://www.aoni.co.jp/

 

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村は消えても

「村は消えても」
 
           ストーリー 矢谷暁
              出演 遠藤守哉

その日、村長は一夜にして市長になった。

岩手県 岩手郡 滝沢村。
盛岡市の北西にへばりつくように隣接し、
新幹線の停まる盛岡駅からわずか5キロの村だった。
2014年1月1日。
それまで「人口日本一の村」だったこの村は
地図上からその名を消す。
滝沢村から、滝沢市に昇格したためだ。

「ご注意ください。道路標識の変更は1万か所を超えています」
「お間違えなく。郵便番号は5種類から139種類に増えました」
しかし、そんな呼びかけも馬耳東風、
馬の耳に念仏とばかり聞き流す市民もいる。
いや、正しくは市民ではない。馬だ。

代々、馬と人々がともに生活してきた滝沢。
なにもかもが変わったが、変わらず続く行事もある。
「チャグチャグ馬コ(うまっこ)」という祭りだ。

毎年6月の第2土曜日、蒼前(そうぜん)神社から盛岡八幡宮まで、
100頭を超える馬が、13キロの道のりを4時間かけて行進する。
馬たちは色とりどりの装束とたくさんの鈴で飾り付けられ、
歩くたびにその鈴が「チャグ、チャグ、チャグ」と音を立てる。

今年のチャグチャグ馬コは、6月14日。
練り歩く道路では、標識がいたる所で変更されている。
人々にとっては大きな変化だったが、
馬たちの目にはちょっと新しい景色に映るぐらいで、
いつものようにのんびり道を行くことだろう。

晴れれば祭り見物には半袖が気持ちいい。
村から市へその名を変えても
人と馬が変わらず寄り添い続けるこの地に、
もうすぐ夏がやってくる。

東北へ行こう。

 

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盛岡タウン情報http://www.morioka.ne.jp/index.htm

盛岡観光情報http://www.odette.or.jp/

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岡部将彦 2014年5月4日

「剣と魔法のファンタジー」

       ストーリー 岡部将彦
          出演 遠藤守哉

世界が混乱に陥って、もう何年が経っただろうか。
突然、魔王を名乗る者が現れ、魔物を率いて、
人類に対し宣戦を布告。
罪のない多くの人の命が、魔物によって奪われていった。
もちろん人間たちも、ただ黙っているだけではなかった。
古(いにしえ)より伝わる魔法など、持てる限りの武力で徹底交戦。
戦況は、一進一退の膠着状態に陥っていた。
その間、勇者を名乗る人間が星の数ほど現れては、
魔王討伐に立ち上がり、そして散っていった。

世界中が魔王の存在に怯え、日々の暮らしを営んでいた。

それは雪に閉ざされた、
このさびれた名もなき村でも例外ではなかった。
村の寄合所では、
今まさに村長を中心に村人たちによる定例会が行われていた。

「では、次の議題です。
 勇者を名乗る一団が2組、
 この村に向かっているとの情報が入りました」

出席者たちの目がいろめきだつ。

「皆さまよくご存知とは思いますが、
 彼らは、どんな扉でも開ける不思議な鍵を使い、
『魔王討伐』の大義名分のもと、村民の住居等に無断で侵入、
 引き出しや、タンスを勝手に詮索、果ては宝箱すら略奪するという
 狼藉を働きます。貴重品の管理には充分な注意を払ってください。」

この会議の度に繰り返される注意事項の定型文の後、
議題は本題へと移った。

「宿の値段は、もう少し、つり上げてもいいんじゃないか?」
 宿屋の主人が口を開けば、
「この村の他に、この地域で補給できる場所はないんだ、
 薬なんかの値段は、
 もっと高くしてもいいと思うがね」
道具屋の主人も負けてはいない。

まあまあと彼らをなだめるように村長が口を開いた。
「そんなのは、後でどうとでも回収できるじゃろ。
 それよりも、村のそばにある洞窟に、
 伝説の武器が眠っているかのような噂をもっと立てるべきだと思うんじゃ」

村長の発言が終わるか終わらないかのうちに武器屋の主人は、
最近入れた金歯を見せつけるようにニタッと笑いながらこう言った。
「しかし、以前作った「偽の古文書」は効いたなあ。
 高価な武器をたくさん買ってくれたあの「勇者さま」たちは、
 今頃、どうしてるのかねえ。
 おっと、そういえば、武器の在庫が切れかかってるから、
 仕入れにいかなきゃならんな」

「仕入れっつっても、洞窟まで行くだけだろ?」
 会議出席者の間で、笑いが起こる。
「まったく魔王さまさまだな」

昨年、魔物に両親を殺されたために、
村長の家に身を寄せている少年・ポックルは、
不思議そうに大人たちの会議をじっと聞いていた。

「村の予算達成のために、各自よろしくお願いしますよ」

会議が終わり、家へと帰る道中、ポックルはたまらず村長に尋ねてみた。
「ねえ、村長。みんなまるで魔王のことを
 ありがたがってるみたいじゃないか…」

村長はすべてを察したような顔で話し始めた。
「ポックル。お前が言いたいことはわかる。
 お前は魔物に大事な母さんも父さんも殺されてしまったんだしな。
 でも、もし魔王がいなくなってごらんよ。
 どんな物好きが、こんな雪山の村に訪れるんだい?
 でも、今は違う。この非常事態の中で、世界中の人間が、
 現状を打開すべく世界の隅々まで冒険している。
 人里離れたこんな辺鄙な村だからこそ、
 なにか「伝説のお宝」が眠っているんじゃないかと期待をする。
 だからこそ、この村の汚い宿でも、
 街の何倍もの宿代を取ることができるんだよ。
 彼らが買っていく、武器や防具、薬のお金が、
 この村にどれだけの富をもたらしてくれたか。
 お前は、食うものにも困るような元の貧乏村に戻りたいのかね?」

「でも…」

「お前が、魔物を憎んでいる気持ちはわかる。
 でもね、魔物がいるからこそ、
 この村は食っていけてることを忘れてはいけないよ。
 魔王がいて、それを倒そうとする人間たちがいる。
 その状態が、この村にとって、一番平和なんだよ」

ポックルは納得がいかなかった。
僕のように、いつ魔物に大事な人を奪われてしまうかわからないような日々が、
この村にとっての平和だなんてことが。

でも、それだけじゃない。
ポックルが本当に聞きたかったことは。

「僕、知ってるんだよ…だったらなんで…」

「おーい、旅人が来たぞー!」
見張り台の方から、若い衆の威勢の良い声が響いた。

「ほらほら、急ぎなさい。最高の笑顔で「勇者さま」をお迎えするんだ!」

ポックルは、村長に言いかけた言葉を飲み込んで、
自分の持ち場へと向かっていった。

ポックルの持ち場は、村の出入り口。
子供らしい無邪気さで、「勇者さまご一行」に話しかける。
「ようこそ、さいはての村へ」。

その後、いつものように、村の大人たちが考えた鼻歌を、さりげなく歌う。
「♪らららー空を割き、大地を割るよ〜♪洞窟の奥で眠る氷のつるぎ〜
 …おじいちゃんに教えてもらった、この歌は、どういう意味なのかなあ」

「やはり噂の通り、この付近の洞窟には、
 求めていた伝説の武器があるようだな…」
勇者さまご一行は、村の奥へと歩を進めた。

彼らの背中が遠ざかっていくのを見つめながら、
ポックルはポツリとつぶやいた。
「僕、知ってるんだよ…その洞窟には、
 村のみんなが仕掛けた罠があるよ。気をつけて…」

出演者情報:遠藤守哉 青二プロダクション http://www.aoni.co.jp/

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玉山貴康 2014年4月6日

「スピーチ」

      ストーリー 玉山貴康
         出演 遠藤守哉

タクヤくん、ユキさん、ご結婚おめでとうございます。
本日は、佐藤家、林家、ご両家のたいへんおめでたい席に
お招きいただきありがとうございます。心からお祝い申し上げます。
ただいまご紹介にあずかりました、
新郎新婦と同じ職場でともに仕事をしております、田中でございます。
たいへん僭越ではございますが、
ご指名ですのでひとことお祝いの言葉を申し述べさせていただきます。
どうぞご着席ください。

いやはや、まだ信じられないというか、まさかこの二人が!という心境でございます。
はじめて話を聞かされたときは本当にビックリしました。
彼は営業部で、彼女はマーケティング部。
それぞれの部署でバリバリのエースです。
タクヤくんは、営業成績なんと2年連続でNo.1ですし、
ユキさんも大きなプロジェクトをリーダーとして何本も抱えています。
二人とも後輩の面倒見もよく、その仕事ぶり、人柄、将来性、
どれをとっても完璧、パーフェクトでございます。
今年、彼らの働きもあって、わが社は上場いたしました。
この数年間というものは、非常に忙しかった。
お得意さまも増え、プレゼンの連続で、休日勤務も少なくなかったはずです。
それなのに、どこにそんなつきあう時間が…あ、いや、よけいなお世話ですね(笑)

そういう私もじつは社内結婚でして、
私の結婚式のときも、このように当時の上司にスピーチをお願いしました。
そのときに贈っていただいた言葉が、いまでも私たち夫婦のモットーとなっております。
その同じ言葉を、今日、お二人に贈り、祝辞に変えさせていただきたいと思います。
それは、「祝婚歌」という吉野弘さんの詩です。
えー、ゴホン(咳払い)、それでは心をこめて。

祝婚歌

吉野弘

二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派過ぎないほうがいい

立派過ぎることは
長持ちしないことだと
気づいているほうがいい

完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい

二人のうち どちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい

互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで疑わしくなるほうがいい

正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい

正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気づいているほうがいい

立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には色目を使わず

ゆったりゆたかに
光を浴びているほうがいい

健康で風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと胸が熱くなる
そんな日があってもいい

そしてなぜ 胸が熱くなるのか
黙っていてもふたりには
わかるのであってほしい

えー、以上です。
仕事上ではとても優秀すぎるお二人です。
家庭においても、同じように「完璧」を目指してしまわないか。
もしもそうなりそうだったら、ふとこの詩を思い出してほしい。
気持ちがフッと楽になるかもしれません。
どうぞ温かく明るいご家庭を築いてください。末長くお幸せに。
本日はたいへんおめでとうございます!

え?なんだよ!いいよもう!俺が主賓なんだから!あ、そう?
う、うん、わかった、わかったよ!
(誰かと小声で打合せしている様子。少し面倒くさそう)

えー、ゴホン(咳払い)、では、続きましてぇー、
わが社の会長である、妻、トシコからも、ひとことご祝辞をと申しておりますデス、はい…。
(きまりが悪そう)

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直川隆久 2014年3月16日

すみれ、散る

         ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

ときどき行く商店街のうどん屋の主人が、
新しいメニューを試食に来てくれ、とメールをよこしてきた。
ちょうど昼時でもあったので、散歩がてら行ってみることにする。

店に入ると、「ああ、ようお越し」と朗らかな顔で主人が出迎えた。
年齢は50そこそこ。婿養子で、
先代からつづくこのうどん屋を夫婦で切り盛りしている。
先代は80を超えた爺さんで、店にはでず競馬中継を見て過ごす毎日だ。

席に通され、しばし待つ。
昼時だが、ほかに客はない。
「どうぞ」とだされた丼に、予想もしなかった色彩がのっているので、
一瞬ぎくりとする。紫色の花弁が山盛り。
「すみれうどん、て言いまして」と主人が胸を張る。
ほう、なぜまたこんな、その…斬新なメニューを、と水を向けると、
堰を切ったように喋り出す。

「わたしらうどん屋も、新しいことにチャレンジせなあかん思いましてね。
チャレンジせな、生き残れませんがな。
もっとね、若い女性に食べてもらわなならん。
ほんでね、わたし、考えたんです。うどん屋に欠けてるもんは何か。
それはね、はなやぎですわ。はなやぎ」と主人がぐっと顔をこちらへ近づけた。
右のおでこのホクロの毛が見える。

主人は“宝塚”好きということもあり、
女性に間違いなくアピールするマテリアルとして
「すみれ」の発想を得たのだと言う。
すみれの花は実際に吸い物の具にしたりもするらしいので、
あながちでたらめということでもないらしい。

食べてみると、見た目を重視したせいか花を湯通ししていないので、
少々えぐみがある。が、しかし、これはだめだ、というほどでもない。
むしろ野趣があるとも言える。
こういう変わりメニューは、味よりも話の種になるかどうかが大事だ。
存外、いけるかもしれない。

いや、これはなかなかだ、
もしテレビに取り上げられたら若い女性が行列をつくるかもしれませんな、
と述べると主人はほくほくと笑い
「まあまあ、やっとくなはれ」とビールとコップをだしてきた。
ありがたくいただく。
「もしテレビに」以下はあくまで一般論であるので、
でまかせの世辞を言ったつもりはない。

正直に言うと、私は少しく驚いていた。
この国を覆う焦燥感に、である。
巷の讃岐うどん屋のように手打ちにこだわるでもなく、
どちらかといえばふにゃふにゃで主張のないうどんを、
殊更に問題意識なく何十年来売り続けて来た男にまでそういう気を起こさせる、
この国の「なんとなくこのままではいけない感じ」に。
コップのビールがいつもより苦く感じたのは…
舌に残ったすみれのアクのせいだろうか。

一週間ほど仕事でばたばたしたあと、外出時にうどん屋の前を通りがかった。
中をのぞくと、客は誰もいない。
店内の椅子にこしかけ、ぼんやりとテレビを見ていた主人がこちらに気づき、
さえない表情で会釈をした。
店に入り、どうです、新しいうどんの評判は、と訊くと、
主人はかぶりを振って「やめですわ」と答えた。
やめた?なぜ?
「おやっさんがやめえ、言うんです。ええ年してはしゃぐな、て」
店の奥から競馬放送の音が聞こえて来る。
もったいないですな。客には出したのですか。
「ええ、だしました。二人ほど」
どうでした、評判は。
「ええ、まあ…悪なかった、思いますで」と主人が目をそらした。
「けど、おやっさんは…気にいらんかったみたいですな」
話はそれきりになった。わたしは、きつねうどんを注文した。
あいかわらず、腰のないうどんだった。

ひょっとして、先代の爺さんが止めたのは、
婿養子のアイディアが評判を呼ぶのを苦々しく思ったためなのか。
いや、本当に評判が悪かったからなのか。それは今では分からない。
なぜなら、それからほどなくうどん屋は店を閉め、
主人とその家族もこの町から姿を消したからである。
うどん屋は取り壊され、後にはチェーンのセルフうどんの店が建った。

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