三島邦彦 2021年11月14日「紅葉の客」

「紅葉の客」 

    ストーリー 三島邦彦
       出演 遠藤守哉

お久しぶりですね。
ずいぶんと伸びましたね。
今日はどんな感じにしましょうか。
ちょっと変わりたい。
なるほど。
そうですね、
髪型というより、
色を変えてみるのもいいかもしれませんね。
紅葉(もみじ)みたいな色にしてみるとどうでしょう。
誰もが変化を感じますよ。紅葉ですから。

美容師のYは、
ちょっとイメージを変えたいという客がいたら
いつもそう言うことにしていた。
変化したいなら、紅葉くらい鮮やかにやってしまえばいい。
Yはいつもそう思っていた。
しかし、誰も髪を紅葉のように染める客はいなかった。
赤く染めては、と言われたら従った客もいたかもしれないが、
紅葉と言われると誰もが冗談だと受け止めた。
7年間、Yは紅葉色の髪を何人もの客に繰り返し勧めた。

7年と1日が経った秋のある日、一人の客がやってきた。
初めて見る、80歳くらいの白髪の女性だった。

ちょっと変わりたい。
とその客は言った。

少し迷いながら、Yはいつものセリフを繋げた。

なるほど。
そうですね、
髪型というより、
色を変えてみるのもいいかもしれませんね。
紅葉(もみじ)みたいな色にしてみるとどうでしょう。
誰もが変化を感じますよ。紅葉ですから。

紅葉か。それもいいかもしれない。
老婦人は鏡に映る少しだけ毛量が減った銀色の髪を見つめながら言った。

Yは驚いた。
息を飲み込み、
いいですよね、紅葉。
と、なんとか間を空けすぎないタイミングで相槌を打った。

老婦人は少し微笑み、口を開いた。

暗い冬が来る前に、
一度燃え上がるような紅葉になってみるのも悪くない。

老婦人の過激な一言に、Yはうろたえた。

いえ、そんなつもりでは。とYは言った。

いいのよ。本当のことですから。
さあ、私を紅葉にして頂戴。

それから長い時間をかけて、Yは老女の髪を染めた。
これまでにYが経験したことがないほど丁寧にその作業は行われた。

紅葉色の頭の老女が生まれた。
それはどこまでも鮮やかで、少女のようにすら見えた。

ありがとう。元気になるわ。

そう言って、新しい髪の毛を老女はやさしくさわり、何度もうなずいた。

すっかり傾いた夕日の中に真っ赤な頭の老女は消えていった。
Yはその後ろ姿をいつまでも見ていた。
頭が目立つので、かなり遠くまで見ていられた。

変化を求めるという客に、Yは今日も繰り返す。
その老女以外に一度も受け入れられたことはないけれど。それでも。

紅葉(もみじ)みたいな色にしてみるとどうでしょう。
誰もが変化を感じますよ。紅葉ですから。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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永野弥生 2021年11月7日「タイムリープ」

「タイムリープ」 

    ストーリー 永野弥生
       出演 遠藤守哉

「この時間が永遠に続けばいいのに」
という彼女の言葉に「本当にそうだね」と相槌を打った。
心底そう思った時「本当に」とつけてしまうのは僕の口癖だったが、
この時は「逆に嘘っぽく聞こえたのではないか?」と心配になった。
それほどまでに僕も幸せを感じていたのだろう。
僕は時間ギリギリまで彼女の横でまどろんでいたことを強調するように
「本当に行かなくちゃ」と言って身支度し、外に飛び出した。
遅刻をすれば上司に何を言われるかわからない大事な仕事があった。

次の瞬間、けたたましいブレーキ音が聞こえた方を振り返ると、
避けられない距離に車が迫っているのが見えた。
僕は「あ、終わったな」と思った。

ところが、ぜんぜん終わらないのだ。

「この時間が永遠に続けばいいのに」
という彼女の台詞を、もう何度も聞いている。
「終わった」と思った瞬間、何度でもそこから始まってしまうのだ。
もしかして、これがタイムリープというやつなのか。
2度目以降、僕は「本当にそうだね」とは言えなくなり、
「そうだね」と調子を合わせるように言うのがやっとだった。

プロポーズした後、夜を徹して語り合い、
時にはともにウトウトした時間は、確かに至福の時かもしれない。
でも、僕は今、本当にこの時間が永遠に続くのではないかと怯え始めている。

ループするこの至福の時間の中では、彼女と喧嘩することもない。
でも、彼女の涙に胸を痛める瞬間があるからこそ、
幸せそうに笑う笑顔が眩しいのではないか。

会社で大抜擢されたビッグプロジェクトの
ヒリヒリするようなプレッシャーもない。
でも、胃が痛くなるようなミッションを乗り越えてこそ、
仕事の後のビールが死ぬほど美味いのではないか。

来週ドライブがてら見に行こうと言っていた紅葉(こうよう)も、
この時間がループするかぎり、見に行けないどころか、
木々が染まることすらない。もちろん山々が雪に覆われることもない。
でも、凍てつく季節があるから春が嬉しいのではないか。

「この時間が永遠に続けばいいのに」
もはやその言葉を何度聞いたかわからなくなった頃、
結局、僕はもう一度「本当に」と言うことになるのだった。
「本当に…本当にそうかな」と僕は言っていた。

不思議そうな彼女の顔が笑顔に変わるまで、
説明する時間が必要になった。もう完全に遅刻だ。

さっきまでは渡りきることができなかった道を無事に渡れた時、
僕は、烈火のごとく怒り狂う上司に
早く会いたいと思っていた。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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直川隆久 2021年10月16日「凧」

   ストーリー 直川隆久
      出演 遠藤守哉

あの日も、こんなふうに、空が高い日だったですよ。
ぼく、荒川の河川敷で凧をあげてたんです。
当時はやっていた…ゲイラカイト、ってわかりますかね。
そうそう、あの、デカい目玉が描いてある、ビニール製の、凧。

その日はね、土曜日だったんだけど、朝からいい風が吹いてましてね。
学校から帰って、ランドセルおいて、凧もって、
とびだして、河川敷に行きました。
当時はまだ土曜日は半ドンでしたから、小学校も。

こりゃあ高く上がるんじゃないかと思ってたんだけど、案の定。
助走して、ぱっと手を放したら、とたんにすーっと、
すごいスピードで凧、空にのぼっていきましたね。
ぐんぐんぐんぐん上っていってね。凧糸もびーんと張りっぱなし。
もう、下手したら、
風でこっちの体が持ってかれちゃうんじゃないかと思うくらいで。

凧はどんどん小さくなってね。
ありゃあ、いったいどれだけの高さに行ったのか、と思ってると、
またひとつがくん、と糸が引っ張られた。
上空では、すごく強い風が吹いてるみたいでね。
体が引きずられ始めた。
ずるずるずるずる、そのまま何十メートルか…
わ、こりゃ、やべえ、と思ってたら、自転車止めがあって、
そこにがんとぶつかってようやく止まりました。
で、あわててそこに紐をくくりつけた。
ものすごい力が要ったけど、なんとかくくり終わって、へたりこんじゃった。
糸はもう、びんびんに張ってますよ。

えらいもんだなあ、と思って空を見上げてるとね。
後ろに、だれか立ってる感じがした。
振り向いたら、同じクラスのコズミが立ってた。
コズミって、なんか、いつもぼろっちいカッコしてて、
暗い顔してるから、あんまり友達いないやつでしてね。
お母さんが早くに死んだとかで、
お婆さんと二人で暮らしてるって話でした。
凧?って訊くからね、うん、て答えた。
すげえ、っていいながらコズミは、糸の先を見上げ、
自転車どめにくくった糸を見て、また、空を見て、って繰り返してるんです。
こっちも居心地わるくなってね、貸してやろうか、って言ったんです。
そしたらね、うなずいて…
うなずくだけで、ありがとう、も何もなかったけどね。
自転車どめの方に歩いて、くくってある糸をほどきにかかりました。
で…
気ぃつけろよ。体がもちあがるぞって言おうとしたそのときですよ。
コズミの体がうわっと空へ持っていかれた。
ほんと、なんていうか、ふわーっと、持っていかれたんですよ。
たいへんだ!…と思ったときにはもう…
糸の端っこには手が届かなくて、
コズミはビルの4~5階くらいの高さにいた。あっという間に。

もう、どうしたらいいかわかりませんよ。
おーい、コズミ、降りろよー
って叫んでもね、返事しないんだ。
落ちたら死ぬ高さですよ。
見てるだけで、金玉のあたりがすーっと冷たくなる。
ぼくも、わけわかんなくなってね。
ばかやろー。って怒りだした。
ばかやろー、おりてこい。
コズミは、なにも答えなかった。聞こえてるのかどうかもわからない。
ぼくも半泣きになりながらね、
おりろよー、って。
おりろよー、おまえんちの婆さんにいいつけるぞー
て、意味わかんないこと言ってた。
でも、効果なしだ…効果なしどころかね、
コズミは、凧糸を手繰って上に、上に行こうとしてるんですよ。
なにやってんだよー、かえれなくなるぞー、って叫んだんだ。
そしたら、コズミの声が聞こえました。
いいよー、って。
いいよー。
コズミの、あんな明るい声、聞いたことなかった。

そのまま、どんどん…どんどん小さくなっていくのを、追いかけました。
カナブンくらいの大きさのが、もう、アリみたいになって…
そこで川にぶつかって、それ以上進めなくなった。
糸にぶら下がったコズミはそのまま、ずーっと流されて行って…
見えなくなった。
河原でぼくは、どうしたらいいかわからなくて、ただ、泣いてました。
泣きながら、泣いたって意味ないよな、ってわかってはいましたけどね。
でも、泣くよりほかにできることがなかった。
水辺の芦の茂みが風であおられて、ざーざー鳴ってたのを覚えてます。

コズミの行方はそれきりわからないです。
警察も四方八方探したみたいだけど、遺体も出てこなかった。
ただ、僕のゲイラカイトだけはね、
10キロほど離れた中学校の屋上で発見されたそうです。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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山月記 2021

山月記

   作 中島敦
   朗読 遠藤守哉

隴西(ろうさい)の李徴(りちょう)は博学才頴(さいえい)、
天宝の末年、若くして名を虎榜(こぼう)に連ね、
ついで江南尉(こうなんい)に補せられたが、性、狷介、
自ら恃むところ頗る
(すこぶる)厚く、
賤吏(せんり)に甘んずるを潔しとしなかった。
いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略(かくりゃく)に起臥し、
人と交を絶って、ひたすら詩作に耽った。
下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、
詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。
しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなる。
李徴は漸く焦燥に駆られて来た。
この頃からその容貌も峭刻(しょうこく)となり、肉落ち骨秀で、
眼光のみ徒らに炯々として、
曾(かつ)て進士に登第した頃の豊頬の美少年の俤(おもかげ)は、
何処に求めようもない。
数年の後、貧窮に堪えず、妻子の衣食のために遂に節を屈して、
再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになった。
一方、これは、己の詩業に半ば絶望したためでもある。
曾ての同輩は既に遙か高位に進み、
彼が昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、
往年の儁才(しゅんさい)李徴の自尊心を如何に傷けたかは、想像に難くない。
彼は怏々として楽しまず、
狂悖(きょうはい)の性は愈々(いよいよ)抑え難くなった。
一年の後、公用で旅に出、汝水(じょすい)のほとりに宿った時、遂に発狂した。
或夜半、急に顔色を変えて寝床から起上ると、
何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、
闇の中に駈出した。彼は二度と戻って来なかった。
附近の山野を捜索しても、何の手掛りもない。
その後李徴がどうなったかを知る者は、誰もなかった。

翌年、監察御史(かんさつぎょし)、
陳郡(ちんぐん)の袁傪(えんさん)という者、
勅命を奉じて嶺南(れいなん)に使(つかい)し、
途(みち)に商於(しょうお)の地に宿った。
次の朝未だ暗い中に出発しようとしたところ、駅吏が言うことに、
これから先の道に人喰い虎が出る故、旅人は白昼でなければ、通れない。
今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜しいでしょうと。
袁傪は、しかし、供廻りの多勢なのを恃み、
駅吏の言葉を斥けて、出発した。
残月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、
果して一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。
虎は、あわや袁傪に躍りかかるかと見えたが、
忽ち身を飜ひるがえして、元の叢に隠れた。
叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰返し呟くのが聞えた。
その声に袁傪は聞き憶えがあった。
驚懼(きょうく)の中にも、彼は咄嗟に思いあたって、叫んだ。
「その声は、我が友、李徴子ではないか?」
袁傪は李徴と同年に進士の第に登り、
友人の少かった李徴にとっては、最も親しい友であった。
温和な袁傪の性格が、峻峭(しゅんしょう)な李徴の性情と
衝突しなかったためであろう。
叢の中からは、暫く返辞が無かった。
しのび泣きかと思われる微かな声が時々洩れるばかりである。
ややあって、低い声が答えた。「如何にも自分は隴西の李徴である」と。

袁傪は恐怖を忘れ、馬から下りて叢に近づき、懐かしげに久闊を叙した。
そして、何故叢から出て来ないのかと問うた。
李徴の声が答えて言う。自分は今や異類の身となっている。
どうして、おめおめと故人(とも)の前にあさましい姿をさらせようか。
かつ又、自分が姿を現せば、
必ず君に畏怖嫌厭(けんえん)の情を起させるに決っているからだ。
しかし、今、図らずも故人に遇うことを得て、
愧赧(きたん)の念をも忘れる程に懐かしい。
どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜悪な今の外形を厭わず、
曾て君の友李徴であったこの自分と話を交してくれないだろうか。

後で考えれば不思議だったが、その時、袁傪は、この超自然の怪異を、
実に素直に受容れて、少しも怪もうとしなかった。
彼は部下に命じて行列の進行を停め、
自分は叢の傍に立って、見えざる声と対談した。
都の噂、旧友の消息、袁傪が現在の地位、それに対する李徴の祝辞。
青年時代に親しかった者同志の、あの隔てのない語調で、それ等が語られた後、
袁傪は、李徴がどうして今の身となるに至ったかを訊ねた。
草中の声は次のように語った。

今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊った夜のこと、
一睡してから、ふと眼を覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。
声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中から頻りに自分を招く。
覚えず、自分は声を追うて走り出した。
無我夢中で駈けて行く中に、何時しか途は山林に入り、
しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を攫(つか)んで走っていた。
何か身体中に力が充ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。
気が付くと、手先や肱のあたりに毛を生じているらしい。
少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となっていた。
自分は初め眼を信じなかった。次に、これは夢に違いないと考えた。
夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、
自分はそれまでに見たことがあったから。
どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は茫然とした。
そうして懼れた。全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。
しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々には判らぬ。
理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、
理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。
自分は直ぐに死を想うた。
しかし、その時、眼の前を一匹の兎が駈け過ぎるのを見た途端に、
自分の中の人間は忽ち姿を消した。
再び自分の中の人間が目を覚ました時、
自分の口は兎の血に塗まみれ、あたりには兎の毛が散らばっていた。
これが虎としての最初の経験であった。
それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。
ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還って来る。
そういう時には、曾ての日と同じく、
人語も操れれば、複雑な思考にも堪え得るし、
経書の章句を誦(そらんず)ることも出来る。
その人間の心で、虎としての己の残虐な行(おこない)のあとを見、
己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、憤(いきどおろ)しい。
しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。
今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、
この間ひょいと気が付いて見たら、
己はどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐しいことだ。
今少し経てば、己の中の人間の心は、
獣としての習慣の中にすっかり埋れて消えて了しまうだろう。
ちょうど、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋没するように。
そうすれば、しまいに己は自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂い廻り、
今日のように途で君と出会っても故人と認めることなく、
君を裂き喰うて何の悔も感じないだろう。
一体、獣でも人間でも、もとは何か他のものだったんだろう。
初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了い、
初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか? 
いや、そんな事はどうでもいい。
己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、
己はしあわせになれるだろう。
だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。
ああ、全く、どんなに、恐しく、哀しく、切なく思っているだろう! 
己が人間だった記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。
己と同じ身の上に成った者でなければ。ところで、そうだ。
己がすっかり人間でなくなって了う前に、一つ頼んで置きたいことがある。

袁傪はじめ一行は、息をのんで、叢中の声の語る不思議に聞入っていた。
声は続けて言う。
他でもない。自分は元来詩人として名を成す積りでいた。
しかも、業未だ成らざるに、この運命に立至った。曾て作るところの詩数百篇、
固(もと)より、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在も最早判らなくなっていよう。
ところで、その中、今も尚記誦せるものが数十ある。
これを我が為に伝録して戴きたいのだ。
何も、これに仍(よ)って一人前の詩人面をしたいのではない。
作の巧拙は知らず、とにかく、
産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、
一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。

袁傪は部下に命じ、筆を執って叢中の声に随(したが)って書きとらせた。
李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長短凡そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、
一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。
しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。
成程、作者の資質が第一流に属するものであることは疑いない。
しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、
何処か(非常に微妙な点に於て)欠けるところがあるのではないか、と。

旧詩を吐き終った李徴の声は、突然調子を変え、自らを嘲るが如くに言った。
羞しいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、
己は、己の詩集が長安風流人士の机の上に置かれている様を、
夢に見ることがあるのだ。
岩窟の中に横たわって見る夢にだよ。
嗤ってくれ。詩人に成りそこなって虎になった哀れな男を。
(袁傪は昔の青年李徴の自嘲癖を思出しながら、哀しく聞いていた。)
そうだ。お笑い草ついでに、今の懐(おもい)を即席の詩に述べて見ようか。
この虎の中に、まだ、曾ての李徴が生きているしるしに。
袁傪は又下吏に命じてこれを書きとらせた。その詩に言う。

 偶因狂疾成殊類 (偶(たまたま)狂疾(きょうしつ)に因りて殊類と成り)
 災患相仍不可逃 (災患(さいかん)相仍(よ)りて逃(のが)るべからず)
 今日爪牙誰敢敵 (今日(こんじつ)爪牙(そうが)誰か敢へて敵せん)
 当時声跡共相高 (当時声跡共に相高し)
 我為異物蓬茅下 (我は異物と為る蓬茅(ほうぼう)の下(もと))
 君已乗軺気勢豪 (君は已に軺(よう)に乗りて気勢豪なり)
 此夕渓山対明月 (此の夕べ溪山明月に対(むか)ひ)
 不成長嘯但成嘷 (長嘯を成さずして但だ噑(ほ)ゆるを成す)

時に、残月、光冷やかに、白露は地に滋く、
樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。
人人は最早、事の奇異を忘れ、粛然として、この詩人の薄倖を嘆じた。
李徴の声は再び続ける。
何故こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、
しかし、考えように依れば、思い当ることが全然ないでもない。
人間であった時、己は努めて人との交まじわりを避けた。
人々は己を倨傲だ、尊大だといった。
実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。
勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。
しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。
己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、
求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。
かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。
共に我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。
己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、
又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、
碌々として瓦に伍することも出来なかった。
己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、
憤悶と慚恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。
人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。
己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。
これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、
己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了(しま)ったのだ。
今思えば、全く、己は、
己の有(も)っていた僅かばかりの才能を空費して了った訳だ。
人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと
口先ばかりの警句を弄しながら、
事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、
刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。
己よりも遙かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、
堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。
虎と成り果てた今、己は漸くそれに気が付いた。
それを思うと、己は今も胸を灼かれるような悔を感じる。
己には最早人間としての生活は出来ない。
たとえ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作ったところにしたところで、
どういう手段で発表できよう。
まして、己の頭は日毎に虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。
己の空費された過去は? 
己は堪らなくなる。そういう時、己は、向うの山の頂の巌に上り、
空谷に向って吼える。
この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。
己は昨夕も、彼処(あそこ)で月に向って咆えた。
誰かにこの苦しみが分って貰えないかと。
しかし、獣どもは己の声を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。
山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮(たけ)っているとしか考えない。
天に踊り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。
ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易い内心を誰も理解してくれなかったように。
己の毛皮の濡れたのは、夜露のためばかりではない。

漸く四辺(あたり)の暗さが薄らいで来た。
木の間を伝って、何処からか、暁角(ぎょうかく)が哀しげに響き始めた。
最早、別れを告げねばならぬ。
酔わねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから、と、
李徴の声が言った。
だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。
彼等は未だ虢略にいる。固より、己の運命に就いては知る筈がない。
君が南から帰ったら、己は既に死んだと彼等に告げて貰えないだろうか。
決して今日のことだけは明かさないで欲しい。
厚かましいお願だが、彼等の孤弱を憐れんで、
今後とも道塗(どうと)に飢凍(きとう)することのないように
計らって戴けるならば、
自分にとって、恩倖、これに過ぎたるは莫(な)い。
言終って、叢中から慟哭の声が聞えた。
袁もまた涙を泛(うか)べ、欣んで李徴の意に副そいたい旨を答えた。
李徴の声はしかし忽ち又先刻の自嘲的な調子に戻って、言った。
本当は、先ず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、
己が人間だったなら。
飢え凍えようとする妻子のことよりも、
己の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕すのだ。
そうして、附加えて言うことに、
袁傪が嶺南からの帰途には決してこの途を通らないで欲しい、
その時には自分が酔っていて故人を認めずに襲いかかるかも知れないから。
又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、
此方を振りかえって見て貰いたい。
自分は今の姿をもう一度御目に掛けよう。勇に誇ろうとしてではない。
我が醜悪な姿を示して、
以て、再び此処を過ぎて自分に会おうとの気持を君に起させない為であると。
袁傪は叢に向って、懇ろに別れの言葉を述べ、馬に上った。
叢の中からは、又、堪え得ざるが如き悲泣の声が洩れた。
袁傪も幾度か叢を振返りながら、涙の中に出発した。
一行が丘の上についた時、彼等は、言われた通りに振返って、
先程の林間の草地を眺めた。
忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。
虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、
又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。



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直川隆久 2021年6月20日「蕎麦屋炎上」

蕎麦屋炎上

   ストーリー 直川隆久
      出演 遠藤守哉

商店街の端っこにある古ぼけた蕎麦屋。
木造の建物は若干傾いでいて、
その外壁を茶色く枯れた蔦がびっしりと覆っている。
店には、八十がらみの頭髪の薄い主人が一人だ。

俺は、ときどきこの蕎麦屋で昼飯を食う。
行きつけの古本屋から近いからだ。
蕎麦は、正直まずい。
いつもべたべたしていて、ざるの上の二、三本を箸でつまめば、
全部の蕎麦が一斉に持ちあがる。
つゆの量もけちくさくて、蕎麦猪口に二分目ほどしか入っていない。

いちど、ある客がそばつゆのお替りを頼んだときだ。
主人は厨房から出もせず、
「あーあ、蛇口ひねりゃつゆが出てくるとでも思ってんのかね。
あがったりだよ。あがったり」
という、聞えよがしの独り言をよこしてきた。
こんなホスピタリティのかけらもない店を、
なぜこの主人は開け続けているのか。

古本屋が言うには
「昔、この商店街が賑わっていたころは、あの店もそこそこうまかった」
のだそうだ。
――「いや、でも、ご多聞に漏れずここいらも人が来ないようになってさ。
起死回生ってことで、商店街の会長がマンションデベロッパーと組んで、
端っこの何軒かの立ち退きをすすめて。
ほかの店は、ま、従ったんだけど、一軒だけゴネたのが、
あの蕎麦屋だったみたいね」
確かに、蕎麦屋の建物は、通りに向かう面以外の三方を
マンションの敷地にぎっちりと囲まれており、
その境界の壁が不自然に高い様子は、
なにやら異様な圧迫感を放っている。

それを知ると、蕎麦屋の主人が店を閉めない理由もわかる気がした。
意地である。いや、意地といえば聞こえはいいが、
「おまえらの思うようにはならない」という攻撃的な反応が
常態と化した、というべきか。
この社会、この世間は、主人の自尊心を、長年かけて、
やすりでこするように毎日削り取っていったのだろう。
その世間に吠えかかるかわりに、
主人は、来る日も来る日も暖簾を掲げ続けているのだ。
さも、不本意な顔で。

コロナ禍となって、しばらくその商店街から足が遠のいていたのだが、
先日久しぶりに古本屋を覗きに行った。
そして、いつものように蕎麦屋の前までやってくると、
何か異様な熱気に店が包まれているのに気づく。
開け放たれた引き戸から中をうかがうと、
どういうものか、店はすし詰めだった。
そして、客は全員真っ赤な顔をして大声で喋りあっている。
あらゆるテーブルの上に、ビール瓶、日本酒の瓶がならび、
転がっていた。
この緊急事態宣言下、酒をだせば、この蕎麦屋でも超満員になる。
酒の力は恐ろしい。
路上には、スーツ姿の市役所職員らしき一群が
メモやらカメラで記録に忙しく、近所の住人であろう人たちが、
マスクの位置を直しながら警戒心もあらわに店の前を通り過ぎていく。
喧騒の奥、見たことのないようなにこやかな顔で、
主人が酒瓶を手に走り回っていた。
俺は、蕎麦屋の中には入らず、もと来た方向へ引き返した。
笑ってはいながらもやけに遠くに焦点のあったような主人の目の残像が、
頭から離れなかった。

一週間後、新聞で、その蕎麦屋が火事となり全焼したというニュースを読んだ。
何者かがガソリンをまいて火を放ったらしい。
俺はもう一度その記事を読み、死傷者はなく…
店の主人の遺体も未だ発見されていない、ということを確認した。

焼けた蕎麦屋に足を運んでみると、炭になった柱の残骸以外、
そこに建物があったことを示すものはほとんど無くなっていた。
足元に、見覚えのある品書きが、踏みしだかれ、
ずぶ濡れになっているのを見つけた。
周囲には焦げ臭い匂いが濃厚に漂っている。
マンションとの境界の壁は、煤で真っ黒に染まっていた。
ガソリンの命を与えられた炎が、
その壁に執拗に噛みつく様子が目に浮かんだ。

誰の犯行かも、主人の行方も、わからない。
だが…俺は、火を放ったのが、
当のその主人であってほしいと考えずにいられなかった。
不本意に続けた店を、本意から焼いたのであって欲しかった。
長年の鬱屈を反動として、
主人の生命が爆発的アクションを見せたのであって欲しかった。

そう思わずにいられなかった。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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直川隆久 2021年5月16日「西へ」

西へ  

   ストーリー 直川隆久
      出演 遠藤守哉
  
列車は、みっしりと乗客を詰め込んだ長い体躯を、
舞い散る砂ぼこりをかき分けながらいかにも大儀そうに
西へ西へと押し進めていた。
乗客…とはいっても、我々の扱いは「貨物」だ。
東部地域を脱出しようとなだれをうった人間をさばききるには、
通常の旅客車両では追い付かない。
 
わたしも、その「貨物」の一人だ。
人の群れは車両を埋めていたが、
冷たい鉄の床の上になんとか座る場所を確保することができた。
壁際ではないのでよりかかって眠ることはできないが、
およそ20時間の旅のあいだ立ちっぱなしになることに比べれば、
何ほどのこともない。
周りを見渡す。皆黙りこくっている。
終着地に着きさえすれば清浄な空気を思うさま吸えるのだから、
それまではなるだけ息を殺していよう、ということか。
以前なら、こういうときスマートフォンを触っていない人間を
探すほうが難しかったものだが、
今は誰もが、ただ、ぼんやりと空中を眺めているか、
床の上の油じみを凝視している。

隣国からの度重なるサイバー攻撃で、ネットの機能が全面崩壊し、
デジタル空間のすべての情報の真/偽、新/旧の判別が不可能になった。
われわれは豊かな情報の海から途絶された――いや、むしろ逆か。
情報は無限にあるが、
その一片とて信用するに足るものとして扱うことができない。
燃えさかる太陽の下、海のただなかに放り出され、
はてしない量の水に囲まれているのに
それを一滴も飲むことができない漂流者に、我々は似ていた。

西へ行けば、澄んだ空気と仕事がある――それも単なる推測だった。
それを主張する者たちの唯一の論拠は、
「西へ行って帰って来た者はいない」ということだった。
「あっちがひどい場所なら、戻って来るはずじゃないか」と。

「あなた、ワコーさんじゃないかね」
誰かかがわたしに話しかけた。
顔を上げると、顔を煤だらけにした若い男がこちらを見ている。
わたしはかぶりを振った。
男は、これならどうだ、と言わんばかりに懐から、
何か白い――いや、以前は白かったのだろうが
今やすっかり手垢で薄黒くなった封筒を取り出した。
わたしが怪訝そうにその封筒を見ていると、男は
「ユニタからの手紙だ。あなたがワコーなら、渡したい」
と言う。
「わたしはワコーじゃないし、ユニタという知り合いもいない」と私が答えると
男はさして気落ちした様子もなく「そうかい」とだけ言い、
また手紙を懐にしまった。

わたしは長旅の退屈を紛らわせる気になり、少し男に関わることにした。
「なぜわたしに?ほかにも乗客はいるのに」
「きいてた背格好が似てたんだ。悪かったな」男は長く話すつもりはないようだ。
だが、わたしは食い下がった。
「どんなメッセージを預かってるのかね」
男は、不審げな眼でこちらを見返してきた。お前に何の関わりがある?
わたしは、手持ちの大麻タバコ――合成ものだが――を男に一本差し出す。
「中身は知らない」男はひときわゆっくりと煙を吸い込み、
そしてさらに倍ほどの時間をかけて吐き出した。
「ユニタってのも、通りがかりの町で会った女だ。
西行きの列車に乗るなら届けてくれないかと言われた」
つまり、ユニタという女は、「西へ行く」と言って旅立ったまま
連絡絶えて久しいワコーという人間に手紙を書き、
この若い男に託したということだった。

ユニタとワコー。恋人同士か、あるいは、夫婦か。
どんなのっぴきならない事情があって、親しくもない人間に手紙を――
おそらくある程度の金を払って――託したのか、
わたしには想像がつかなかった。
手紙などという悠長で牧歌的な存在は、明日、今夜、
いや、1分後でさえ何が起こるか見通せないこの世界には、
およそそぐわない物に思える。
だが…これを預けたユニタという人間にとっては、
そうではないということらしい。
時も場所も隔てた二人の人間がつながりあえると信ずる、
その無根拠さそのものが
――深い井戸の中へと落とされた一本の蝋燭のように――
唯一、未来という暗闇に光を投げかけるものだったのだろうか。
さらに言えば…届くかもしれない/あるいは届かぬかもしれない、
と未来を曖昧にし、先伸ばしすることにしか、希望の根拠はないということか。

一方、この若い男も…とわたしは、思った。
その手紙を預かったことで、何か希望の欠片のようなものを、
旅の駄賃とすることができた――だから金を持ち去ることもなく、
渡し主との約束を守り続けているのだ、と。

がく、と衝撃を感じた。
製鉄所で聞いたことがあるような、金属のきしむ音が響いた。
と、つぎの瞬間、体が右に傾き、
目の前の乗客の群れがトランポリンで嬌声をあげる子どもたちのように、
宙を舞い――轟音とともに回転する車両の天井に激しく叩きつけられ、
わたしは意識を失った。

脇腹の激痛で目を覚ます。
暗闇の中で、うめき声があちこちから上がっている。
全身を手で探る。髪は血で濡れていたが、傷は浅そうだった。
肋骨が何本か折れたようだが、命に別状はない。
体を起こす。
そのとき、誰かが、扉を開け、
砂ぼこりを通過した光が車両の中になだれ込んできた。
傍らに、さっきの若い男が横たわっているのが見えた。
首が不自然な方向にねじれ、
半分開いた眼の中で瞳は糊付けしたように動かなかった。
 
わたしは、上下さかさまになった扉から、外へ出る。
黄色い砂漠。焦げ臭い匂いが鼻を襲う。
列車は、レールを大きく逸脱し、車輪を空にむけて――
白い腹を見せて死んでいるトカゲのように――横たわっていた。
そして、呆然とした様子の乗客たちがその周りを取り囲んでいる。
車両の先頭からは、黒煙が遥か上空にまで立ちのぼっていた。
 
攻撃。事故。いくつかの単語が脳裏に浮かぶが、
もはや原因を詮索する気力を残す者はいなかった。
この状態になったのは、この列車だけなのか。
東地域も、西も、同じ惨状なのか。救助は来るのか、来ないのか。
何も、わからない。
だが、このあたりの夜の寒さは、人の命を奪う。
たちどまっている時間はなさそうだった。
 
わたしは、もと来た車両に取って返し、先程の男のところへ戻った。
上着の内ポケットをまさぐる。手紙はそこにあった。
封筒を手にしてみると、想像していたよりも分厚く、そして重い。
男の体温もまだいくばくか残っていた。
「ユニタ。ワコー」と口の中で繰り返した後、
「あんたの名前もきいておけばよかった。すまない」そう男に声をかけ、
ポケットへ手紙を押し込み、外へ出た。
 
生き残った乗客たちは、線路をたどり、歩き始めていた。
わたしは、傍らで足をひきずる老人に肩を貸し、
西へと向かう一群の末尾に加わった。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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