「とても感じのいい女」
上りの電車が先ほど発車したので、
あと15分ほど、このホームは閑散とする。
がらんどう。
弁護士事務所の広告が書かれたいつものベンチに座るたび、
その言葉が頭に浮かぶ。
近辺には店も少なく、住宅ばかり。
急行が止まらないこの駅の昼時は、日々こんな感じだ。
知り合いもいなければ、用事があるわけでもない。
30分ほど電車に乗って、私はわざわざこの駅にやってくる。
クイ、と一口。
手に持った缶チューハイを飲み込み、その冷たさにぶるっと震える。
空は、春特有のどんよりとした灰色である。
春と聞くだけで、人々はことさら浮れるが、
Tシャツ一枚で出かけるにはあとどれくらいの日々を過ごせばいいのだろう。
そう思うだけで、また気が滅入ってくる。
くずれそうになる前に、私はここへ駆け込む。
なぜか? ここが、こここそが、私の居場所だからだ。
収入の高い仕事があって、夫がいて、実家は裕福で、友人もいて、
一体あなたは何が不満なんだと、問われたことがある。
あれは、何かのパーティーだっただろうか。
箇条書きでは見えない行間が、人間にはある。
そう答えたところで、
私のアラを探そうと躍起になる他人には、何も通じない。
私は、相手を不快にさせない程度の笑みを浮かべ、
「どうにも打たれ弱くて。だからダメなんですよね」と答えた。
相手はひとまず納得したようで、
もはや私以外の何かへと視線を移動させていた。
リフレッシュするにはやっぱり海外旅行だよ、とよく人は言う。
私から言わせれば、3泊4日程度、どこか遠くに行っただけで
気分が変わるという人は、そもそもたいした悩みなど持っていないのだ。
そんな私の気持ちとは裏腹に、人々はなんともあっけらかんと、
「悩みがなさそうだよね」という言葉を私にぶつけてくる。
つぶらな瞳、少し大きめの鼻の穴、上がった口角。
美人すぎないこの顔は、他者に対し、
敵意やストレスといった攻撃を仕掛けない。
「あの人は明るく、元気だ」。
誰に聞いても私の第一印象はこう返ってくるし、
どこにいても道を聞かれることはしょっちゅうだ。
この顔を持つ人間の責任として、
私も、周囲から求められる役割を演じてきた。
バカみたいな話だけれど、物心ついた頃から強くそれを感じ、
そしてそのように生きてきたのだ。
ただ、たまに、サイズの合っていない服を着せられているような気分に
なることがある。
そんな時は、その窮屈さに息が苦しくなり、
うまく笑うことはおろか、喋ることもままならなくなる。
一人になることが、唯一の治療法だ。
隣のベンチに座るややくたびれたスーツ姿の中年男性や
自動販売機の補充をしている作業員は、私の無を邪魔しない。
そこに彼らはいるけど、そこに彼らはいない。
彼らからしたら、私も無なのだろう。
感じがいいも悪いもないこの場所で、ちびちびと私は缶の水分を摂取する。
ここは無人島。ここは天国。
あと7分後に来る上り電車に乗ったら、いつもの日常が待っている。
そうして私はまた、
「つぶらな瞳と少し大きな鼻の穴、上がった口角が特徴の、
感じのいい遠山晴子さん」、に戻るのである。
出演者情報:西尾まり 30-5423-5904 シスカンパニー