中山佐知子 2020年4月26日「チグリスとユーフラテスの三角地帯で」

チグリスとユーフラテスの三日月地帯で

    ストーリー 中山佐知子
       出演 遠藤守哉

チグリスとユーフラテスの肥沃な三日月地帯で
1万年ほど前から栽培されていた大麦が
ウイスキーという金色の液体に変貌を遂げるには
奇跡のような偶然が重なっている。

大麦ははじめこそパンやお粥になって
貴重な食料とされていたが
古代ローマの時代になると小麦にその地位を奪われ、
家畜の餌に転落してしまった。
エジプトではすでに大麦を使ったビールの製造が始まっていたが
ローマ人はワインばかり飲んでいて
大麦はちっとも大事にしてもらえなかった。

ところが、4世紀になるとゲルマン民族の大移動という事件が起きた。
地中海を支配し、文明を築いたローマ人にとって
ゲルマンは北の森や沼地の暗黒地帯に棲む野蛮な民族だったが、
ビール造りの名人でもあった。
ゲルマンの大移動はヨーロッパの地図を塗り替え、
各地にビールをひろめた。
大麦も酒の原料としての地位を得た。

7世紀になるとオーデコロンの蒸留技術が
イスラムからアイルランドに飛び火する。
香りの技術は同時に酒の技術であり、
イタリアあたりでは葡萄を蒸留した酒を飲んでいた。
しかし、アイルランドは寒くて土地が痩せた貧しい国で、
葡萄の栽培ができない。
代わりになりそうなのは
主食のジャガイモとビールの原料になる大麦くらいだ。
大麦とジャガイモ、大麦とジャガイモ…
どっちにしようか迷ったかもしれないが
結局彼らは大麦を選んだ。
麦から生まれた蒸留酒、ウイスキーの始まりである。
当時のウイスキーは、つくるそばから飲む無欲透明のきつい酒だった。

さて、そのウイスキーが
アイルランドのお隣のスコットランドに伝わる。
スコットランドはウイスキーの風土に適していたらしく、
修道院や貴族の館、農家の庭先に無数の小さな蒸留所ができた。
ウイスキーという名前が付いたのもスコットランドだ。

ところが18世紀のはじめ、
スコットランド王国はイングランドに吸収合併されてしまった。
国がなくなった国民は、
さらに愛するウイスキーにかけられた過酷な税金に激怒する。
しかも税金を取り立てに来るのはにっくきイングランド人だ。
彼らは税金を逃れる方法を必死で考えた。

深い森で、山の奥で、誰も知らない谷間で
スコットランド人はウイスキーを密造し、樽に詰めて隠した。
保存期間が長くなると、無色透明だったウイスキーは熟成し、
金色に色づき、果物や樫の木やくるみの香り、
花やクリームの香りを放つようになった。

まったく、何が幸いになるかわからない。
ヨーロッパ全土を震撼させたゲルマンの大移動も、
アイルランドの痩せた土地もスコットランドの過酷な税金も
ウイスキーにはプラスに作用した。

そうして、
世界史を肥やしにして成長し、花開いたウイスキーを
我々は今夜も飲んでいる。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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坂本和加 2020年4月12日「ウイスキー」

ウイスキー

   ストーリー 坂本和加
      出演 森一馬

死んでからの生き方について、
考えたことはあるだろうか。

あるバーで聞いた。
バーテンダーは店のマスターであり、
オープンは32才のとき。
いまは92才だから、60年ものあいだ
週に一度の休みを除いて毎日、
カウンターに立ち、酒をつくり続けてきた。

その男は、上村といった。いい酒飲みだった。
いつも店には前払いで10万を渡し、
なくなるとまた同じようにした。
たいていひとりで、カウンターで静かに本を開いた。
酒で乱れるようなことはなく、
マスターとは、ぽつりぽつりといろんな話をした。
苗字は違うが、父親は著名な医学者であり
編纂した医学書を店に持ち込むほど、誇りに思っていること。
自分は大手と言われる勤め先にいるが、
結婚もせず40を過ぎて、いまだ独り身だということ。
母は亡くなり兄弟もおらず、天涯孤独だということ。

上村は、珍しいウイスキーを好んだ。
ときどきそれらを見つけてきては店に持ち込み、
その日たまたま隣りに座ったような
一見(いちげん)の客にも、
気前よく酒を振る舞うような男だった。

エドラダワーの10年。
これに「1960年代の」がつくと
とたんに値は跳ね上がる。麦の黄金時代に生まれた酒。
いまは1本、80万のビンテージ。
長くバーテンダーをしているマスターでさえ、
いまだかつて飲んだことのないような、酒。
それをどうやって入手したのかを
自慢げに語るような男ではなかったが、
大枚をはたいて手に入れた酒には違いない。
「いつ、開ける」そんなやりとりが笑い話とともに交わされ。
ある日、上村はパタリと店に来なくなった。

それから30年近く、月日は流れた。
希少な高級級だ。そのまま店で保管していいものかと
マスターも何度か会社に電話したそうだが。
「そのような名前の者はおりません」。

特別なエドラダワーは、最初のうちは
カウンターからよく見える場所に置かれた。
上村を知る誰かに、たどり着きはしないかという期待を込めて。
マスターが、カウンターの客にさりげなく話をしやすいように。
同じ業種で、似たような仕事をしている人間は多いから。

けれど男は消えたまま。
生きていれば、もう70を超えている。
きっとこの世界に、彼はもういない。
マスターの推測にしか過ぎないけれど。ふつうそう思うだろう。
自死か病死か、その原因はわからない。
家族も子供もいない、とるに足らない平凡で孤独な男を
思い出すひとなどこの世界に誰ひとりいないことはわかっていた。
だから。このバーで「特別なエドラダワー」とともに
オーナーや客たちに、くり返し語られることを想像したのだと思う。
あとは上村の思惑通り。
彼は30年にわたり鮮やかに、ここにいた。

特別なエドラダワーは、いまもバーの片隅で。
未開封のまま、タバコのヤニで
包まれたフィルムを黄色くして。
消えた男の輪郭をつくるためにそこにある。

出演者情報:森一馬 ヘリンボーン所属 https://www.herringbone.co.jp/

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川野康之 2020年4月5日「ピートの島」

ピートの島                

       ストーリー 川野康之
          出演 地曳豪

スカイ島からグレートブリテン島にフェリーで渡った。
マレーグという小さな港町に着いた。
スコットランド鉄道・西ハイランド線の終点の駅がある町である。
ここから一日に3本だけ、グラスゴーへ行く列車が出る。
駅舎がクローズされていたので、勝手にホームに入ってベンチに座って待った。
潮の香りがしてカモメの声が聞こえた。
駅前に一台二台とクルマが着いては、
荷物を抱えた乗客や見送りの人が降りてくる。
人々は、三々五々ホームの上に上がってきて立ち話をしている。
ディーゼルの列車が入線してきた。

乗客たちが乗り込んで、出発を待った。
私の斜め向かいの席に、一人の青年が座った。
窓を開けて、ホームの見送りの人たちと話をしている。
見送り人の中に青年の父親らしき人がいた。
大声で青年に言葉をかけている。
車内の乗客たちがくすくす笑った。
私にはなかなか聞き取れなかったが、何々はだいじょうぶか、
これこれに気をつけろ、とまるで子供に言うように
こまごまと注意を与えているようだった。
青年は、この田舎町を出て、グラスゴーで学生生活でも始めるのだろうか。
幼さの残る頬を少し赤らめながら父の話にうんうんとうなずいている。
やがて、列車は動き始めた。
父親の姿が後ろへ下がって、カモメと一緒にマレーグ駅のホームに残された。
青年はしばらく窓から父の姿を追っていたが、
見えなくなると、バッグの中から分厚い本を取り出して読み始めた。

列車は徐々にスピードを上げ、
荒れ野と森林が交互に現れる荒涼としたハイランドの風景の中をひた走った。
5時間半の後にはグラスゴーにたどり着くだろう。
途中私がどうしても見たかった景色があった。
ロッホ・ローモンドだ。
フォートウィリアムの駅を過ぎてしばらくしたころ、
黒々とした森の合間から静かな水面が見えた。
列車と併走して湖は何度も見え隠れした。
氷河に削られてできた谷が長い時間をかけて巨大な湖になったのだという。
湖面にはいくつかの黒い島影が見えた。
何万年も前からここにあって、湖のまわりの人々を見てきたのだろうか。
私の頭の中にあのロッホ・ローモンドの歌のメロディが流れていた。
グラスゴーに着くと、乗客たちは都会の顔になった。
列車を降りて駅の人混みに紛れ、灰色の石の街へせわしげに消えていく。
その中に大きなバッグを抱えたあの青年もいた。

スコットランドを離れる日、
私はエディンバラのウイスキーショップで
『ロッホ・ローモンド』という名のモルトウイスキーを見つけた。
聞いたことのない蒸留所だが、何かなつかしい気がして一本買った。
ラベルをよく見るとロッホ・ローモンドの下に『インチモーン』と書いてある。
どういう意味だろう。
日本に帰ってから調べてみたら、
それはローモンド湖に浮かぶ一つの島の名前だった。
古代から周辺住民の燃料源となったピートの島だという。
湖に浮かんでいた黒い島の姿を思い出した。
封を開けると豊かなピートの香りがあふれてきた。
このウイスキーを今から私は飲むのである。



出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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