中山佐知子 2008年10月31日



素焼きの壺で発酵するワインは

                
ストーリー 中山佐知子
出演 大川泰樹

素焼きの壺で発酵するワインは自由に呼吸する。
けれどもワインは人間にふたつの不自由さを教えた。

ひとつはものを集めて溜めこむことだ。
今日必要な量よりはるかに多くの葡萄を採らなければ
ワインはできない。
もうひとつはその土地で長く暮らさなければならないことだ。
潰した葡萄を入れた壺は土に埋めて発酵させるとき
気候によっては9ヶ月もかかることがある。
ワインをつくることは
獲物を追って数百キロの旅をする身軽さを
捨てることでもあったのだ。

ある秋、川と川にはさまれた三日月型の土地に
野生の麦がたくさん実った。
女はその土地に感謝の祈りをこめて
ひと握りの麦を土にもどした。
祈りは聞き届けられ
翌年、そこは小さな麦畑になって
ひと粒の麦から80粒の麦がとれるようになった。
葡萄の種を捨てたところには
葡萄の木が生えることもわかった。

誰もがもう旅をせずに麦や豆を蓄え
素焼きの壺でワインをつくるようになった。

けれども、
ユーフラテスの岸辺の葡萄畑が何度めかの秋を迎えたとき
男はその実りの重さに心が押しつぶされる心地がした。
こうして同じ土地を消費しつづけることが
太陽や月や森に宿る神々の心にかなうことなのか
この豊かな川の神のものである水を汲み上げ
乾いた土に与えることは…..
そして自分が弓を捨て槍も持たずに
斧で木を伐ったり土を耕したりすることは
正しいことなのだろうか。

それからまた何度めかの秋が来た。
夏の収穫はすでに蓄えられ
今年の葡萄はまだ摘み取っていなかったが
去年のワインがあり余るほどあった。

そこに見たこともない顔の人々がやってきた。
彼らはこの世界有数の豊かな土地を自分たちのものにするために
武器を手にしていた。

男は仲間の呼びかけに応じて戦うために出て行った。
それが正しいかどうか考える余裕はなかった。

出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/ 03-3478-3780 MMP

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佐倉康彦 2008年10月24日



   鏡

                
ストーリー さくらやすひこ
出演 片岡サチ
             
試着室のドアをそっと閉める。
店の女に勧められるままに選んだ
真っ白なマキシ丈の
ワンピースを手にしたまま、
わたしはゆっくり目を閉じる。
姿見とわたしの距離は、
どのくらいだろう。
        
わたしは、
目を閉じたまま
真っ新な服に素早く袖を通す。
そして、
時間が過ぎるのをただ待つ。
わたしがこれまで生きてきた
気の遠くなるようなときに比べれば、
一瞬にも満たない時間。
         
新しい服を纏った自分を
鏡に映して試し替えし
吟味する女を
つかの間、やり過ごす。
わたしの前には
おそらくわたしの背丈よりも
高くて大きな鏡があるはずだ。
その鏡が微かに軋む。
小さな悲鳴のような振動が
目を閉じたままの私の
耳朶(みみたぶ)を震わせる。
閉店間際に飛び込んだ一見の客に
少しだけ苛ついている
店の女のダルな声が、
鏡の悲鳴に重なる。
「いかかですかぁ?」

ドア越しに聞こえる女の声を遮り
わたしはドアを開け、
そっと告げる。
「これ、いただきます」
惚けたようにわたしを見つめる
店の女に
値札の倍の金を払い
さっきまで着ていた服の処理を頼む。
店の入口でわたしを待つ男は、
ウィンドウに映る己の姿を
眺めながら
ひとり悦に浸っている。
          
「知り合いの店に
いいワインが入ったらしいんだよ」

ショウウィンドウに映るのは、
脂下がった男の姿だけ。
男の前ではにかみ俯く
白いワンピース姿の女はいないはずだ。
タクシーで移動の途上、
向かうはずの場所が
「知り合いの店」から
完成したばかりの外資系のホテルへと
すり替わる。
在らぬ方向を見つめたまま
何食わぬ顔で男は行き先を変えた。

飲み過ぎたのか
男は、わたしの足下に仰臥している。
はだけた胸元から
透けるような白い肌が見え隠れする。
男の言う「いいワイン」のせいだろう。

わたしの真っ白なワンピースの胸元には
小さな赤いシミが出来た。
これもきっと
「いいワイン」のせいだ。

わたしの口元から零れて落ちた
その小さな雫が、
わたしの赤い乾きを癒やす。

わたしの強さと弱さは、
抗(あらが)えない掟に従っているから。
男の心が傷付き、
そしてその躯から血が流れれば
わたしの心だって一緒に血を流している。
男の暖かい命で
わたしは生き続ける。

抜かれることのなかったワインは、
テーブルの下に
男と並んで転がっている。

わたしはワインと男を
リビングに残したまま
バスルームに向かう。
そして、
鏡には映らないわたしと対峙する。
誰も映ってはいない鏡を凝視し続ける。

鏡が、
また、小さな悲鳴を上げはじめた。

出演者情報:片岡サチ 03-5423-5904 シスカンパニー

shoji.jpg  動画制作:庄司輝秋

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小松洋支 2008年10月17日



Twilight
                     
ストーリー 小松洋支
出演 浅野和之

夢を見ていた。

小学校の廊下だった。
右手の窓からは校庭が見えた。
左側は工作室になっていて、高学年の生徒たちが
角材とボール紙とセロファンで何かをこしらえていた。

つきあたりが給食室で、
マスクとエプロンと三角巾をした母親くらいの年齢のひとたちが、
湯気の中でいつも忙しく立ち働いているのだった。
自分がそこに向かっているのは、
ミルクが入った大きなケトルとか、パンが並べられた木箱とかを
教室に運ぶ当番だからに違いない。

給食室の間近までくると、
かすかに漂っていたアルコール発酵の匂いが
不意に輪郭を濃くするのだった。
遠い日の甘い記憶に浸るようなあの匂いが好きで、
コッペパンをふたつに割り、
穴を穿つように白い実をむしって食べ、
微細な空気孔の無数にあいたやわらかなパンのくぼみに
鼻をおしあてて、
深々と息を吸いこんだりしたものだった。

夢の中なのにこんなにもはっきりと匂いを感じるのは何故だろう。
そう思ったところで目がさめた。
目の前にパンのひろがりがあった。
つま先からあごの下までおおきな四角いパンが覆っているのだった。
横たわっているのもパンの上のようだった。
粘性のあるひんやりとした膜状のものが体を包んでいた。
それが生ハムであることは確かめなくても分かることだった。
眠っている間に蹴ったのであろうレタスが足もとの方にまるまっていた。

夕暮れだった。
そう思ったが、それはそうではなかった。
すこし離れたところにあるワイングラスを透過した光が、
あたりいちめんにさしていた。

ほどなく、最前より深い眠りが訪れた。

出演者情報:浅野和之 03-5423-5904 シスカンパニー

shoji.jpg  動画制作:庄司輝秋

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小野田隆雄 2008年10月10日



ベネチアングラスのワイングラス
            
ストーリー 小野田隆雄
出演 久世星佳  

  
ワインって楽しいお酒だなと、
思うことがあります。
赤いワイン、白いワイン、
バラ色のワイン、そのほかにも色いろ。
同じブドウから作られるのに、不思議です。
ビールや日本酒と比較してみてください。
でも、ワインについて
なんだか変だなあって、思っているのは、
あのワイングラスのことです。
チューリップみたいな形をして
ほとんどが透明度の高いクリスタルグラス。
あの無色透明で、清潔すぎて、
すこし冷たい感じ。
あのグラスが、赤ワイン用、白ワイン用と、
テーブルに並んでいるのを見ると、
なんだか、理科の実験室を
思い出してしまうのです。
どこのレストランにいっても
ワイングラスって、ほとんど同じスタイル。
なにも飾りがなくて、無機的で。
ワイングラスは、世界中どこでも
あんなに同じなのでしょうか。

「いいえ、そんなことはないのですよ」
私のワイングラスについての話を
黙って聞いていた彼が、
ニコニコしながら言いました。
それは五年程前のこと。
私はあの頃、横浜にある小さな
グルメ関係のタウンマガジンの、
駆け出しの記者でした。
彼は、イタリアのワインを
輸入している商社の
若い社長さんでした。
彼にインタビューしたのは、
イタリアの食材の特集号を
企画していたからです。
インタビューは、伊勢佐木町に近い
馬車道にある彼のオフィスで行われました。
秋の夕暮のことでした。
「最近のレストランで使用している、
あのワイングラスは、もともとは、
ソムリエコンクールのための
標準規格のグラスなんです。
お酒の色がよく見えるし、
香りも逃げない形なのですね。
ま、その点は便利ですが、
あなたのおっしゃるように
味もそっけもない、そのことも確かです。
ただね、すべてのワイングラスが
あれと同じでは、ありませんよ」

そう言って彼は、席を立ち、
すこし古びた、木の箱を運んできました。
ふたをあけると
ワイングラスがふたつ。
彼は、それを取り出し、
応接セットのデスクに置きながら、
言いました。
「ベネチアングラスです」
そのグラスは、ブルゴーニュの
赤ワイン用のグラスほど大きくはなく、
なつかしいソーダガラスで作られていました。
茎と言われるカップと台をつなぐ部分には、
ドルフィンが二匹、
カップの部分をささえるように
からみあっています。
そして、カップの部分には
エーゲ海を思わせるような、
あざやかな青い色の小さな花が、
ちりばめられて。
 「ワインは、ひとが作るものだから、
グラスにも手作りのぬくもりが
欲しいと、僕も思っていました。
でも、今日まで、グラスについて、
あなたのようなことを
おっしゃる方に初めて会いました」
それから、遠くをみるような眼で
彼は言いました。
「いつか、僕はこのグラスで、
誰かと、夜明けの白ワインを
飲みたいと思っていたのです」

あれから五年すぎて、どこかの誰かが
彼と、夜明けの白ワインを
もう、飲んでしまったのかなあと、
ときおり、いまも、気になっています。

*出演者情報久世星佳 03-5423-5904シスカンパニー 所属

shoji.jpg  動画制作:庄司輝秋

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一倉宏 2008年10月3日



難破船の救命ボートを選ぶなら

                    
ストーリー 一倉宏                      
出演  地曵豪

   
あなたをもうなんども怒らせた 
そのたびに あなたは不思議な解釈で追いかけて
ぼくの理不尽を見失ったボールにする
そして あなたはなぜ怒ったのかさえ忘れる
いつのまにか ぼくたちのワインは残り少なくなる
やがて あなたは眠くなる

女性たちよりも美しい酒があるなんてたわごとを
ぼくはいちどだって吐いたことはないさ
そう言って人生を寝過ごした友人もいたけれど
本気で思っていたらもうすこし楽だった 
彼も…

たとえばぼくたちの乗った船が難破するとして
目の前に2艘の救命ボートがあるとしよう
片方のボートには1本のワインが載せられていて
それは ちょうどぼくたちが結婚した年の
「シャトー・ムートン・ロートシルト」さ
もう片方のボートにはざっと3ダース
名前も知らないチリ・ワインがどっさり

さあ クイズだ
あなたならどちらのボートを選ぶだろう?
ぼくならどちらのボートを選ぶと思う?
言うまでもなくこのたとえ話は 筋書き通り
どこかの無人島に流れ着くとして
   
もう寝てしまったあなただから
こんなことを言ってるぼくに怒るにも怒れないね
申し訳ないけれど どうしたって
ぼくはチリ・ワインのボートを選ぶのだから
せめてそれだけは見失わないでほしい
たとえあなたがついに理解できないにしても
人間たちのちょっとしたエピソードの
ほんとうはなにが嫌いでなにが好きかということを 
   
たとえどんなに怒ってもいいから
難破船の救命ボートだけは間違わないでくれないか
そうしたらぼくたちはいつか無人島で
たったふたりの夕焼けに乾杯できるのだから
夕陽よりも紅いチリのワインで

死ぬまで憶えておくことはたったひとつでいいさ
できれば忘れてしまうほうがいい
他愛ない日々のことばのしっぽ そしてあの昔話の嫉妬も
一日の始まりと終わりに必要なことばだって
たった4文字なのだし おはようとおやすみ
あるいは やれやれ… 
   
くりかえし見る夢をあなたに話しただろう
そこにでてくる誰かをあなたは知ろうとしたが
顔も名前も仮のものさ 夢だから
ひょっとしてあなた自身であったかもしれない
あるかもしれない可能性については
ぼくらは話さなかったね
  
その解釈だけはしなかったあなたが
むこうを向いて寝ている

出演者情報:地曵豪(フリー)http://www.gojibiki.jp/links.html

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2008年10月(ワイン)

10月3日 一倉宏 & 地曳豪
10月10日 小野田隆雄 & 久世星佳
10月17日 小松洋支 & 浅野和之
10月24日 佐倉康彦 & 片岡サチ
10月31日 中山佐知子 & 大川泰樹

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