はじまり
飼い主がいなくなったら死んでしまう、
なんていう仲間もいるけれど
俺はそういうタイプじゃない。
むしろ変化は喜んで受け入れたい。
ピーピー鳴くばかりのチビ猫だった俺を引き取ってくれたのは
ありがたいと思ってはいるが、
いまの暮らしにはいいかげんうんざりしていた。
俺の飼い主は年配の女の人で
俺がこの家に来てからこのかた
「私が死んだらこの子はどうなるの」と言い暮らしてきた。
ときには俺をギュッと抱いてポロポロ涙をこぼした。
そんな年になって子猫を飼うのが無謀なのだ。
自分が先に死ぬに決まっている。
その前に新しい里親を探してくれればいいのだが、
そういうことは考えもしないようだった。
引き取られて3年もすると
飼い主はときどき俺の飯を忘れるようになった。
そのくせ、「私が死んだらこの子は」という口癖はやめなかった。
そのことに気づいたのは
月に何度かやってくるボランティアの女性で
洗っていない猫の食器に昨日の餌が残っている様子を見て
年を取って猫を飼うたいへんさをさりげなく話題にするようになった。
なるほど、と思った。
うまくするとこの湿っぽい生活から抜け出せるかもしれない。
古い水、古い餌、汚れたままのトイレ、
干してない布団やカーテンを閉めたままの部屋と別れて
暖かい乾いた場所へ行きたかった。
俺はその女性が来るたびに玄関に出迎え、
歓迎の挨拶をするように心がけた。
彼女が座ると膝に乗り、
お前は俺の女だという顔をしてじっと目を見つめた。
俺たちは次第に心が通うようになってきた。
チャンスがやってきた。
飼い主は相も変わらず
「私が死んだらこの子はどうなるの」と
うんざりするほど言い続けていたが、
階段から足を滑らせて救急車で運ばれたとき
ついに俺を手放す決心をしたのだ。
車が止まる音がして、聞き慣れた足音が聞こえた。
俺が玄関に出迎えると
彼女は笑顔で俺を抱き上げ、「さあ、行こう」と言った。
「さあ、行こう。もうここには来ないから。」
そうか、もうここに帰らなくていいのか。
とうとう新しい暮らしがはじまるんだな。
俺は彼女の肩に前足を乗せて明るい空を見上げた。
出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属