「羽化」
もう寝るところ。遅い時間だったと思います。
「おもてで一服してたら、見つけてさ」
ふいに祖父が拾ってきたのは、
生きているのか、死んでいるのか、よくわからない塊でした。
祖父は、その塊を、居間のカーテンに引っ掛けて、
「見ていてごらん」私にやさしく微笑むのでした。
大きさは4、5センチ。薄茶色だったと思います。
おそるおそる近づくと、昆虫なのだとわかりました。
でも、何か変です。
その体は、すでに体としての役目を終えているようで、
かわりに、体内で何かが動く気配がありました。
当時の私は、虫が苦手でしたが、不思議と気持ち悪さはなく、
これから神聖な瞬間を目撃する、その予感だけがありました。
5分、10分、30分…、息をころして見守り、
「何かが来る」と思った矢先、
その背中が割れたのを覚えています。
青白い光を放つ物体が、
かつて体だったものを突き破ってあらわれました。
暗くしていたわけでもないのに、
部屋がパッと照らされた気がしました。
「羽化だよ」祖父は静かに言いました。
私は、生まれたばかりのそれから目をそらすことができず、
ただ黙って頷きました。
触ったら壊れてしまいそうな、繊細でやわらかな、白い生き物。
羽化したセミは、あたらしい体に慣れないようで、
小さく小さくたたんだ羽を、長い時間をかけて広げました。
ひとつも皺が残らぬよう丁寧に。
祖父の手に抱かれ眠っていた塊が、生まれ変わるまで、1時間。
気づけば私は、1日中遊びまわっていたかのように、
大量の汗をかき、パジャマをぐっしょり濡らしていました。
「こいつは、長いこと土の中で暮らしていてね、
いま初めて地上の世界に出会うんだ」
祖父は、飽きずに見入る私の頭をなでながら言いました。
「外にかえしてあげよう」
ようやく羽らしくなった羽を傷つけないように、
カーテンから引きはがそうとすると、
セミは、思ったよりも素直に手の中におさまりました。
鳴き声ひとつあげませんでした。
夜風にあたると、さみしさがこみあげましたが、
私の手をはなれ、桜の幹にしがみついた彼は、なんだかうれしそうで。
羽を大きく広げると、一瞬からだを震わせて、夜空に飛び去りました。
呆然と立ち尽くす私を置き去りにして、
さっきまで手の中にいた彼は、闇に紛れて消えました。
家に戻ると、カーテンには、抜け殻が残っていて、
かつて命を包んでいたそれは、まだすこし温かかった気がします。