名前をつける
どうしてそんなことをしたのか、振り返ってもわからない。
いつもの朝のホームだった。
強い風の中を獣のように電車が入ってきた。
私は反射的にふだんと反対方向の電車に乗った。
その電車が終点に着くと、
接続されている別の列車に乗って、ふたたび終点へ。
それを繰り返しているうちに列車は単線になり、
列車が尽きるとそこからバスに乗った。
その間、耳にこびりついた女特有の金切り声や
饐えた薬の匂いやまっ白いシーツの残像が
頭の中で反芻されていた。
時折、こめかみがキリキリと痛んだ。
気がつくと、私はロープウェーの駅に立っていた。
登りの最終便に飛び乗る。
年老いた駅員が怪訝そうに私を見た。
日は陰りはじめ、暗い山肌に向けて私が乗る車両は
ガタガタと小刻みに震えながら、
か細く上昇を続けていた。
ひとりで乗っている、と思っていた。
箱型の車両を中央で区切るつなぎの部分に隠れて、
小さな男の子の姿があった。
ジャンバーを着て、リュックサックを背負い、
じっと窓の外を見ている。
まるで自分もひとりきりで乗っているのだ、と言わんばかりに。
男の子が横を向いた。
不意をつかれたように私と視線が交わる。
彼はそのまま私の向いの座席までやってきて、
リュックサックを膝に置き腰をおろした。
小学校低学年くらいだろうか。
なぜ、この子はひとり、
こんな最終便の車両にいるのか。
「ボク、怪我したの」
呟くように男の子が口を開いた。
よく見ると、膝小僧が擦りむけて、血が流れた跡がある。
「それ、どうしたの?」
つられて私は尋ねた。
「空を見てたの。ずっと上ばかり見ていたら、
つまづいて転んだの。ちょっと痛かったの」
「あら大変、消毒して、絆創膏貼らなきゃ」
男の子は遮るように続けた。
「ううん、もう必要ないの。
ねえ、お姉さんも怪我してるね」
「私?怪我なんてしてないわよ」
不思議な問いかけにまたジン、とこめかみが痛んだ。
「だって、血が出てるよ」
「何言ってるの・・・・」
私はおかしな会話を続けながら、
ますます強くなる痛みを感じて、目を伏せた。
「お姉さんは戦ったんだね。
だから血を流した。ねえ、勝ったの?負けたの?」
「そんなことしてないってば・・・」
その瞬間、私は痛みを覆い隠すように流れる自分の涙を感じた。
そして、涙といっしょに澱のように溜まっていた言葉があふれた。
「ずっと…人と深く関わることを避けてきた。
だから自分にそんなことができるなんて思いもしなかった。
どうして私が?でもしょうがないじゃない、
出会っちゃったんだから」
私はこんな小さな子に何をしゃべっているのだろう。
まるで懺悔している信徒のように。
「うまくいったはずだった。
お姉さん、勝負に勝ったけど、負けたの。
あの人はおかしくなった奥さんの元へ戻って、
それっきり。私にはもう何も無いの。」
「ねえ、お姉さん」
男の子は足をぶらん、とさせながら言った。
「ボク、怪我したけど、いいことあったよ」
「・・・え?」
「転んだとき、遠くはっきりと道の向こうが見えたの。
小さな花が咲いていて、
泥だらけのまましばらくぼうっと見ていたの。
その時、気づいたの。
せかいは上と下と真ん中でできてるの。
どちらかばかり見てちゃいけないの」
顔をゆっくり上げ私はその子の柔らかそうな頬や、
まだ薄くて弱い皮膚がつくりだす赤い唇を見つめた。
誰かに似ている、と思った。問いかけが口をついた。
「・・・あなた、何て名前?」
男の子はきょとんとした表情を浮かべ、次の瞬間、
今までに見たあらゆる人々の中でいちばん悪戯っぽく愛くるしい顔で、
私をまっすぐ指差した。
ふいに大きなアナウンスが流れ、
山頂に到達したことを告げた。
暗くなったホームから再び座席に視線を戻すと、
男の子はそこにはいなかった。
車両から出て暗い山あいを見まわした。
ひんやりした風が吹いていた。
どうしようもなく私はひとりだった。
下りの車両にそのまま乗り込んだ。
発車ベルとともに動き出した車内から、
眼下に広がる街区のまばゆい光が瞼に飛び込んできた。
そのとき、私にはわかったのだ。あの子が誰なのか。
その確信はまるで何十億年前から決まっていた約束のように
私の胸に辿り着いたのだった。
私はこれから何度も負けるだろう。
でも、何度でも立ち上がって見せる。
そして、この上と下と真ん中の世界で、
かならずあの子に巡り合ってみせる。
そのときあの子に、私は名前をつけるだろう。
愛おしさと憎しみと憐れみを知って、
なお歩き続けることのできる名前を。
この不安定に明滅する宇宙の中で、
傷ついてもけして滅びることのない名前を。