ケシの花
ストーリー 小野田隆雄
出演 坂東工
一年で、いちばん昼間(ひるま)の長い日を、
夏至(げし)と言う。その日は、毎年(まいとし)、
六月下旬に訪れる。そしてまた、
六月の下旬になると、ケシの花が散り、
そのあとに青い実が出来る。
この青い実から、麻薬のアヘンは作られる。
ケシの花は美しい。けれど、
花を見るためであっても、栽培することは
法律で禁じられている。
ただし、自由に栽培できた時代もあって、
その名残(なごり)で、いまも、古い村や町で、
ひっそりと咲いていることがある。
赤や白やむらさきや、
その花は、ヒナゲシよりも、大人びている。
四枚の花びらは、朝に咲き、夕べには散ってしまう。
ところで私は、その花を写真で見る以外、
長い間、見る機会にめぐまれなかった。
「菜の花畑に入日(いりひ)薄(うす)れ、
見わたす山の端(は)、霞(かすみ)深し」
この二行で始まる、
文部省唱歌(しょうか)「朧月夜(おぼろづきよ)」の詞(し)を作ったのは、
高野辰之(たかのたつゆき)である。
彼は、明治九年に、
長野県下水内郡(しもみのちぐん)永田村(ながたむら)に誕生した。
その地には、いま、彼の記念館が建っている。
私は、自分の生れ育った北関東の風景が
この歌に登場する風景に、
どこか似ていると、いつも、思っていた。
彼の、この歌が好きだった。
その高野辰之の、晩年に住んでいた家(いえ)が、
野沢温泉村(のざわおんせんむら)に、残っていると知ったのは、
二十年ほど前の六月下旬だった。
たまたま、その日、長野市で、
広告関係の小さな集まりがあり、
その席で、教えてもらったのである。
その家を訪れるために
長野電鉄の野沢温泉駅で、
下車したのだと思う。
けれど、もしかすると、JR飯山線の
戸狩野沢(とがりのざわ)温泉駅であったかもしれない。
ともかく、梅雨(つゆ)の合(あ)い間(ま)の午後の、
日射しのまぶしい日だった。
私は刈り取られた麦畑のあいだに
曲がりくねって続く道を、
はるか丘の上にあると教(おそ)わった
彼の家をめざして、
歩いたことを、記憶している。
ようやく、たどりついた家は、
つつましい瓦屋根(かわらやね)の平屋(ひらや)建(だ)てだった。
低い生垣(いけがき)をめぐらした小さな門(もん)に、
「高野辰之(たかのたつゆき) 晩年(ばんねん)の家(いえ)」と墨筆(ぼくひつ)で書かれた
めだたない看板がついているだけで、
見学はお断り、のようだった。
庭に面した部屋の、
雪見(ゆきみ)障子(しょうじ)のガラス窓から、
ほのかに室内が望まれた。
畳(たたみ)の上に置かれた白いベッドに
おじいさんが寝ている。
病(やまい)にふせっているらしく
酸素吸入器を使用して、眠っていた。
高野家にゆかりある人なのだろう。
のぞき見したことに、私はなんとなく、
ごめんなさいと思った。そして、
帰ろうとして、視線を動かした時、
庭の片隅に、赤い花が咲いているのを見た。
私は生垣に沿って、その花に近づいた。
その花は、初めて見るケシの花だった。
思いがけない女性に、出会ったようなときめき。
静かに、ケシの花は笑っているようだった。
帰り道、ゆっくりと丘の道をくだりながら、
南から西に、一面に広がる
刈り取られた麦畑の風景は
もしもいま、春の夕暮れで、
菜の花がどこまでも咲いていたら、
そのまま、「朧月夜」の風景になると思った。
そして、故郷(ふるさと)を離れて、東京に行った、
高野辰之の、はるか遠い時代の青春を想像した。
赤い花のような恋も、あったのだろうか。
いつか、そのことを調べてみよう。
太陽が少しずつ、西に傾き始めていた。
メモしておいた、長野行きの
列車の時刻を見るために、
私は、手帳を取り出した。
そして、その六月下旬の日付の横に
青いインキで小さく、夏至(げし)と、
印刷されているのに気づいた。
出演者情報:坂東工 http://blog.livedoor.jp/bandomusha/