中山佐知子 2009年9月24日



蜘蛛の巣に
                

ストーリー 中山佐知子
出演 大川泰樹              

                
蜘蛛の巣につかまってしまった。
蜘蛛はやさしくたおやかで美しくさえあった。

蜘蛛は朝起きたときから眠りにつくまで
甲斐甲斐しく私の世話をした。

冷たい山の水を汲んでは私に飲ませ
珍しい木の実やキノコで食膳をいろどった。
いつも私の顔色をうかがい
機嫌を取るような笑顔を見せた。

私は真綿でくるまれるように甘やかされて暮らし
おかげで相手が蜘蛛だということを
すっかり忘れてしまっていた。

ある夕暮れどき、
白い手を動かして
団扇の風を私に送っている蜘蛛にたずねた。
どうしてこんなに尽くしてくれるのか。

私は蜘蛛ですから、と蜘蛛は答えた。
そのうちあなたを食べてしまいます。
それはいつなのかと私はたずねた。
あなたが弱ったとき、と蜘蛛は小さな声で返事をかえした。

私はそれを信じなかった。
けれどもある晩、月からぽたんと落ちたしずくが
私の目をさました。
月のしずくは
私を案じて泣く女の涙のように思え
私は飛び起きるとそのまま何も言わずに立ち去った。

空にはふっくらとした三日月が上(あが)っていた。
下草の陰には白い糸のような水の流れがあり
それを頼りに暗い山を駆け下りたが
白い水は私を右や左に走らせるだけで
逃れる道を教えようとはしなかった。

私は薄や茅(かや)をかき分ける気力もなくし
弱り果てた自分を思い知らされていた。

やがて月が山の端に沈み
足元も見えない暗闇が訪れると
その闇の底にぼうっと光るものがあった。
青い小さな花の群れだった。
花の光を追うようにして山を下っているうちに
空が明るんできて、村里に通じる道が見えた。
道の両側はきれいに草を刈ってあり
青い花がところどころ露を置いて咲いていた。

その花をこのあたりでは月草と呼ぶのだと
後になって教えられた。
月草は月の光を食べて明るく咲き
山で迷った人をときどき助けることがあるそうだ。

出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/ 03-3478-3780 MMP

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中山佐知子 2009年8月27日



あの人は青い瞳のそばに

                 
ストーリー 中山佐知子
出演 大川泰樹              

あの人は青い瞳のそばにいる。
それを僕は絵はがきで知った。

絵はがきはイングランドの北の西から届いた。
最後の氷河期の形見として残された500の湖が
もの言わぬ青い瞳のように冷たく静まる場所。
それでも黄色い水仙の花畑は明るく
緑の牧草地はゆるやかにうねり
背後の深い森は神秘的な陰影を与えていたので
夏の休暇を過ごすために訪れる人は多い。

僕は湖のホテルのデッキで
ワーズワースを読むあの人を想像する。
暗記できるほど読みこんでいる古いページを
パラパラとめくりながら
目の前にある風景を賛美した詩人の言葉と実際の風景を
あの人はおそらく念入りに見較べているだろう。

あの人は青い瞳のそばで生まれて死んだ詩人の言葉を
ただ受け入れるのではなく
外科手術のように解析しているだろう。

ただ、それが
あの人のそういう行為がある種の愛情だったのだと
やっと僕にもわかってきたのだ。

あの人は青い瞳のそばにいる。
点在する500の湖を念入りにめぐる時間は
あまりにも長く
だから、あの人はもう帰ってこないのだ。

あの人がこの世からいなくなったと知らされて
数日後に受け取った絵葉書には
確かに山と森と静かな青い湖と緑の牧場が
この世のやさしい景色だけを寄せ集めたような構図で写っていたので
僕はもう、あの人の不在については考えることをやめてしまって
あの人は青い瞳のそばで
青い瞳のそばのホテルのデッキで
ずっと本を読み続けているのだと思うことにした。

ただ残念なのは
あの人はまったく興味がないのだけれど
湖を囲む山々は5億年も昔の地層の隆起から形成されており
カンブリア紀の化石が
たくさん出土するという事実を教えてあげることが
もうできないことだった。

出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/ 03-3478-3780 MMP

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中山佐知子 2009年7月30日


百億にひとつの孤独

                 
ストーリー 中山佐知子
出演 大川泰樹                   

夕日の色がなぜ寂しいのか
ときどき僕は考えることがあります。

それはきっと
七つの色の仲間を置き去りにして
たったひとり、あまりにも遠くに来てしまったのが
夕日の色だからです。

それから僕は光について考えます。
この世で最初の光と、その影について考えます。

光あれと誰かが言ったとき
影については何も語らなかった…
けれども影はどうしたって存在しています。
宇宙のはじまりの光がお互いに衝突しあって
はじめての物質ともいうべき素粒子が生まれたとき
その素粒子の影である反素粒子も生まれてしまったからです。

光の素粒子と影の反素粒子は
お互いの相手にめぐり会うことができたとき
プラスとマイナスが打ち消し合うように
消えていくことができました。

ときどき僕はその幸福を思います。
運命の相手と出会った瞬間に消えてしまうことができたら
一緒に消えることができたら
孤独というものはこの世になく
そもそもこの世というものすらない安らかな無の世界です。

けれども、百億にたったひとつ
めぐり会う相手のいない孤独な素粒子がいました。
いつまでたっても消えることのできない素粒子は
孤独をかかえたまま集まって寄り添い
その集まりからこの宇宙のすべてが形づくられていったのです。

集まっても寄り添っても寂しいのは
人も草も木も、ひと粒の砂も
もともと孤独から生まれているからだと僕は思います。
だから僕たちはひとりひとりが
冷たい石のような孤独を
抱きしめても決してあたたまらない孤独をかかえたまま
最後まで生きていかなければなりません。

あなたはひとりでなくてもひとりです。
そして僕もひとりです。

赤い大きな夕日がもうすぐ沈むと
あの親しみ深い夜がやってきます。
僕たちはその夜のなかで一緒に、そして別々に
自分の寂しさを味わいつくしましょう。

孤独こそすべてのはじまりであり
孤独でないものは何も生み出すことはありません。

出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/ 03-3478-3780 MMP

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中山佐知子 2009年6月25日



猫が死んでいることに気づいた日は
                
                
ストーリー 中山佐知子
出演 大川泰樹                   

猫が死んでいることに気づいた日は
音もなく雨が降っていて
窓の外の景色がうす青かった。
それは猫の毛の透けた縞模様を通して見えた。

死んだ猫は躰が透き通ってきて
向こう側の景色がうっすらと見えるようになっていた。
それで私は猫が死んだことを知ったのだ。

猫は死んでも窓際にきちんと正座して
私から目を離そうとはしなかった。
そうやって猫に見つめられていると奇妙な無気力状態におちいり
昼も夜もうつらうつらと
寝ているのか起きているのか区別がつかない何日かがあった。
猫はずっとそばに付き添い
昼も夜も部屋から出て行こうとしない。

あたりが暗くなって車の音が途絶えるころになると
ざわざわと風が吹いた。
猫は風の匂いを嗅ぐように鼻を上に向け
あたりの気配に耳をすました。
風は玄関と窓にかわるがわる吹きつけ
まるで誰かが押し入ろうとしているようにガタガタと音を立てた。
すると猫は、透明な毛を逆立てて威嚇するように唸るのだった。

いっぺん、窓を開けて猫を安心させようとしたのだが
起き上がろうとすると猫はさらに大きな声で
こんどは私に向かって唸った。
こんなことははじめてだった。

それから、降り続いていた雨がとうとう止んで
世界が顔を洗ったように明るくなった朝になると
猫ははじめて私に向かって口をひらいた。

「あれは雨の日だったね。」
それが猫を拾った日か猫が死んだ日かわからないまま
私はそうだと答えた。
「あれからずっと僕は幸せだったし、いまも幸せなんだ。
 きみはそれを信じてくれなきゃいけないよ。」
信じる、と答えるしかなかった。

幸せな猫だけが飼い主を助けることができるんだからね、と
猫は念を押した。
それから、背中を向けてさよならと言うと
締め切った窓を通り抜けて本当に出て行ってしまった。

猫がいなくなった部屋の隅には
出て行ったばかりの猫が、申し訳なさそうに
小さくうずくまって死んでいた。
死んだばかりの猫の躰はちっとも透明でなく、まだぬくもりがあり
縞模様の毛はやわらかく私の涙をはじいた。

私はそれに手を触れながら
死んでいたのは自分だったんだという、いま気づいたばかりの事実を
そっと心の隅にうずめた。

出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/ 03-3478-3780 MMP

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中山佐知子 2009年5月28日



できれば土に
                
                
ストーリー 中山佐知子
出演 大川泰樹

                 
できれば土に埋もれたいと思っている。
壁になりたいと思っている。
できれば息もしたくないけれど
小さな女の子だからどうしてもため息はでてしまう。

なれるものなら透明人間になりたいと思っている。
でも、小さな女の子だから
もとにもどる方法がわからない。

本当は何もしゃべりたくない。
石だから、壁だから、土なのだから。
しゃべろうとすると泣いてしまうから。

心が重くなって固くなって
びしょ濡れになって寒くなって
笑えなくなって、しゃべれなくなって
臆病になって
自分がここにいてもいいのかいけないのか。

みんなの視線と言葉がきっと針のように痛いけど
泣きそうな自分を隠しておくために
凍りついた目を大きく開いている。

どうしてそうなってしまったのか
どうして自分がいまそうなのか
きっかけは5分前でも、
原因は100億光年も彼方にあるから。
どうしてもわからない、わかりたくない。

泣かない小さな女の子はいつもそうして震えている。

年を取った大人はそれを見て
拗ねているとひと言で片付けてしまうけれど
そういう自分の心のなかにも
きっと泣かない小さな女の子がいて
誰にも気づいてもらえないまま凍っている。

誰の心のなかにも泣かない小さな女の子はきっといる。

僕は、そんな小さな女の子の手を取って
あたたかい場所へ連れ出すことのできる
小さな男の子になりたいと思う。

出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/ 03-3478-3780 MMP

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中山佐知子 2009年5月16日ライブ



夕暮れになると海から

                
ストーリー 中山佐知子
出演 大川泰樹

夕暮れになると海から霧が流れてきます。
飛行場の視界は10メートルもなく
5月だというのに冷たい風も吹いていました。

けれども
飛行機の、風防ガラスの窓の外は素晴らしい夕日です。
高度100メートルで霧の上に出て
600メートルで雨雲も突き抜け
青空に向かってぐんぐん飛んでいきます。
だから、空は自分のふるさとだ
いつもそう思っていました。

左90度に標的をとらえ
2000メートルの高さから左に旋回しながら急降下し
距離1000メートル、
高度100メートルで魚雷を発射する。

実戦の訓練がはじまったとき
高度100メートルはあの霧の高さだと思い出しました。
霧は地上に属するものだから
青空がふと遠ざかった気がしました。
それなのにさらに低空飛行をめざすのは
魚雷の命中率を上げるためでした。

プロペラの風圧で海面に飛沫が上がるときは
高度10メートルもない危険なところを飛んでいます。
食らいつく海をなだめながら魚雷を発射し
炎上する敵の船を飛び越えて
はるか高みに舞い上がる...
海面すれすれの低さに身構えるのは
あの青空にもどるためのたったひとつの手段であり
青空をめざす姿勢のはずだったのに。

いま、自分の頭上に青空はなく闇があります。
足元も暗い海です。
自分が乗っているのは
250キロの爆弾をふたつ抱えた
白菊という名の練習機。
海軍航空隊の飛行機には違いありませんが
偵察や無線の訓練のための
スピードの出ない飛行機です。

敵と遭遇しても戦うことも逃げることもできない
爆弾を投下した後も青空に舞い上がれない
かわいそうな飛行機は
夜の海をよたよたと這うように飛んで敵に接近し
爆弾を抱いたまま突撃するしか攻撃の手段がありません。

夜の海を5時間も飛ぶと、夜明け前には沖縄に到達します。
運良く敵の戦艦に近づいて突撃できたら
僕は飛行機からも自分のカラダからも自由になって
きっとあの青空にかえっていくでしょう。

昭和20年5月24日
白菊特攻隊

出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/ 03-3478-3780 MMP

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