中山佐知子 2007年5月-2



夕暮れになると海から

                       
ストーリー 中山佐知子
出演  大川泰樹

夕暮れになると海から霧が流れてきます。
飛行場の視界は10メートルもなく
5月だというのに冷たい風も吹いていました。

けれども
飛行機の、風防ガラスの窓の外は素晴らしい夕日です。
高度100メートルで霧の上に出て
600メートルで雨雲も突き抜け
青空に向かってぐんぐん飛んでいきます。
だから、空は自分のふるさとだ
いつもそう思っていました。

左90度に標的をとらえ
2000メートルの高さから左に旋回しながら急降下し
距離1000メートル、
高度100メートルで魚雷を発射する。

実戦の訓練がはじまったとき
高度100メートルはあの霧の高さだと思い出しました。
霧は地上に属するものだから
青空がふと遠ざかった気がしました。
それなのにさらに低空飛行をめざすのは
魚雷の命中率を上げるためでした。

プロペラの風圧で海面に飛沫が上がるときは
高度10メートルもない危険なところを飛んでいます。
食らいつく海をなだめながら魚雷を発射し
炎上する敵の船を飛び越えて
はるか高みに舞い上がる...
海面すれすれの低さに身構えるのは
あの青空にもどるためのたったひとつの手段であり
青空をめざす姿勢のはずだったのに。

いま、自分の頭上に青空はなく闇があります。
足元も暗い海です。
自分が乗っているのは
250キロの爆弾をふたつ抱えた
白菊という名の練習機。
海軍航空隊の飛行機には違いありませんが
偵察や無線の訓練のための
スピードの出ない飛行機です。

敵と遭遇しても戦うことも逃げることもできない
爆弾を投下した後も青空に舞い上がれない
かわいそうな飛行機は
夜の海をよたよたと這うように飛んで敵に接近し
爆弾を抱いたまま突撃するしか攻撃の手段がありません。

夜の海を5時間も飛ぶと、夜明け前には沖縄に到達します。
運良く敵の戦艦に近づいて突撃できたら
僕は飛行機からも自分のカラダからも自由になって
きっとあの青空にかえっていくでしょう。

昭和20年5月24日
白菊特攻隊

*出演者情報  大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

*「夕暮れになると海から」は2007年5月に収録されましたが
 Tokyo Copywriters’ Streetの当時の番組スポンサーだった某社が放送を許諾せず
 番組ブログのみに掲載されました。

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中山佐知子 2007年5月25日-1



女は蔵のなかに

                        
ストーリー 中山佐知子
出演  大川泰樹

                      
女は蔵の中にもうひと月も潜んでいた。

蔵は屋根に近い高さに小さな窓がひとつ開いているだけで
いつも暗い上にネズミの鳴き声まで聞こえたけれど
それでも辛抱して縁を切りたい世間があった。

十をいくつも出ないうちに女を色街に売った父親は
すでに亡くなっていたし
自分を買い取って財産の一部のように扱った
たった一度の結婚相手とも
どうにか縁が切れていた。

それでも女をさがして何度も足を運ぶ客が来た。
それは曰くつきの昔の相手だったり
古い馴染みのお茶屋の女将だったりしたのだが
女は息を潜めて出ようとはせず
人の執念と欲の深さにその都度怯えた。

女はもう女であることに飽きていた。
それなのにまたひとり
この蔵に住みはじめてから
影のようにひっそりと女の世話をする男が出来た。

男は年下で財産もなく
細工物をしてわずかに稼いでいた。
箒の握りかたも知らない女にかわって
器用に蔵の掃除もしたし
客が女を尋ねてきたときは走って知らせにも来た。

女が病気をしたときは自分の稼ぎで薬代も払い
女の過去を問うこともなく
蔵の窓から差し込む小さな光のように
女の心をあたためたので
男の存在は日々大きなものになっていった。

それなのに、月明かりが蔵の窓から差し込む晩
男は、生き仏さんに手を触れることはできないと言って
女を拒んだ。
それがきっかけになった。
それならば、本当に仏になってしまおうと思った。

女が長い髪と一緒に世間を断ち切って尼の姿になり
小さな庵に住むことになったとき
男は当然のようについてきて、女の世話をしはじめた。

その手狭な寺には
座ると目の高さに小さな障子窓がある。
窓から見える庭は緑の苔でおおわれ
その苔が蛇のように波打つのは
盛り上がった木の根まで
苔が覆いつくしているからだった。

男は朝晩その庭を掃き清める。
その遠慮がちな箒の音に耳を澄ませながら
女は、自分に指1本触れたこともない男が
いままででいちばん、もう身動きもつかないほどに
自分をがんじがらめにしているのだと気づいた。

*出演者情報  大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

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中山佐知子 2007年4月27日



塩は牛の背に

                   
ストーリー 中山佐知子                      
出演 大川泰樹

塩は牛の背に乗せて運んだ。

三陸の海岸から北上山地を越えて盛岡へ、雫石へ。
畑のできない三陸の村では、かわりに塩を焼き
これを何日もかかって内陸へ運んで米に替える。

だから牛は行きも帰りも荷物を背負って歩いた。
荷物は重いけれど背骨をひしぐほどではない。
ことにいまはいい季節で
道端にはいくらでも青草が生えている。
牛はたびたび歩みを止めて草を食べては
蝶が飛ぶ遠い緑の原っぱを思い出していた。

その原っぱでは、朝も暗いうちから草を刈る若者がいる。
毎年、春の彼岸になると
幼顔の15歳からハタチそこそこの若者が大勢で
奥羽山脈を駆け下りて来て
まるで牛や馬を売るように自分を売る。
正しくは自分の精一杯のはたらきを売る。
草は半分馬が背負い
馬が背負った同じ重さを若者が背負う。
仕事は休みもなく、1日1足の草蛙がすり切れ
その草蛙をこしらえるのもまた彼らの夜なべ仕事だったけれど
秋の取り入れまで働くと5俵の米を持って帰れた。

ふるさとの山の畑は貧しく
その米がないと越せない冬もあった。
でも、もし、できるものならこの米をちっと持たせて
弱い小さな妹を母親と一緒に湯治に行かせたい
若者のひとりは、そんなことを思いながら
蝶が止まった草をそっとよけた。

その湯治場は山の向こう側にあって
熱いお湯は湧いていたが宿というほどのものはなく
ただそのへんの木を伐って建てた小屋があるだけだった。
それでも十里も二十里も遠い村から
米と塩を持って人が集まり
お湯につかって手足を伸ばして寝るだけで
ああ極楽だと語り合った。

その温泉を北に下ると、そこはもう日本海で
砂浜から青い水平線に向かって蝶がしきりに飛んでいた。
あの蝶が本当に海を渡るのか誰も知るものはなかったが
はるか沖で漁をする漁船では、
マストに羽根を休める蝶を見かけることがあった。

あの蝶はどこへ行くんだろうな。
若い漁師は船を降りて近所の娘に問いかけた。
ほんにな。
娘は短い返事をした。

ただそれだけのことだったけれど
漁師は娘の心のうるおいを知り
娘は漁師のやさしさに触れた心地がして
濡れた目で漁師を見上げた。

出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP

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中山佐知子 2007年3月30日



桜をさがして

                  
ストーリー 中山佐知子
出演 大川泰樹

桜をさがして山を分け入ったら、桜のない里があった。

その里では山から流れ落ちる水が水路となって家々を取りまき
冷たい水にときおり桜の花びらが浮かんだ。

桜もないのに花びらの流れる不思議を尋ねると
この山の奥の奥、人の行かない滝の上に
1本だけ桜の木があるのだと年寄りが言う。
花を流して居所を訴える桜ならば
誰かを待つに違いない。
そう考えるといても立ってもいられず
ろくに足ごしらえもしないまま登りにかかった。

険しい山の中ほどまで来ると
木を切り倒して焼いている人がある。
ここらの里では春になると山に入り
焼き広げた土地を畑にして粟や稗を撒いている。
畑の場所は毎年変わるので山道の景色も違ってきて
ときに迷うこともあるが
水の流れを辿ると必ず滝に出るのだという。

その滝の、原生林を切り裂いてまっさかさまに水が落ちる滝壺には
むかし龍が棲んでいた。
里の人間は龍を恐れて滝に近づくことはなかったが
ある日照りの夏
雨と引き換えに女がひとり、送りこまれた。

龍は女を気に入り、目が離せなくなった。
たまたま霧にまかれて滝に迷いでた里人を見ると
女を連れに来たかと怯え
女が小声で歌うのを聞いても
誰に合図をするのだろうかと胸が騒いだ。
そんな息苦しい日々の中で
龍は次第に気が弱り、龍の心が曇っていった。

この滝壺から出るべきだった。
でも、それならば....
龍は女を滝のてっぺんに連れていき桜の木に変えてしまった。
これでもう、誰も女に近づくことはない。
龍はやっと心を鎮め、地に潜んで行方をくらました。

日が暮れても水の流れは白々と明るく
行くべき方角を示していた。
ざんざんざんとたぎる水音が迫ってくると
髪にも肩にも花びらが降りかかってきた。

桜が龍を呼んでいた。
そして、あの滝壺に出た。

滝壺の上はぽっかり天井が抜けたように空が広がり
中空の月が満開の桜の臈たけた姿を照らしていた。
そうだ、この桜こそむかし自分が置き去りにした女に違いない。
そう気づいたとき
女は、桜は、滝壺に身を乗り出すと
北国の雪のように惜しげもなく花を散らして泣いた。

私は女を抱き取るために一度滝壺に沈み
それから龍の姿になって駆け上がった。

出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP

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中山佐知子 2007年2月23日



しょくらあと/心と言葉 

                   
ストーリー 中山佐知子
出演 大川泰樹

               
いまごろ女は石段を数えながら上っているだろう。
注意深く足音を忍んではいるが
こんなに乾いた冬の日はどうしても下駄の音が高くひびいて
ああ、今日も大和路さんが出島に呼ばれていくのだと
あたりの家では噂をするだろう。

丸山の筑後屋が抱える遊女大和路。それが女の名前だった。
もちろん仮の名で本名は知らない。
女は生まれた土地の話もせず、両親の家も語らず
無理に尋ねようとすると
口だけでなく耳も目も閉ざしたようになってしまう。
馴染みをどれほど重ねても
女の心の入り口を探り当てることができなかったので
もう、心も言葉もこの女にはないのだと思うことにした。

心がない女の躰は従順だった。
その冷えた指をあたためようと私の躰のあちこちに置いてみたり
雪原のように凍った胸に手を差し入れてみても何の抵抗も示さず
そのかわり温もりもなかった。
その冷たさはひとり寝の夜にたびたび夢に出ることがあって
目が覚めると使いを出してまた女を呼び
ゆうべ夢の中であれほど踏み荒らした雪原が
再び冷たい静寂にもどっているのを確かめずにはいられなかった。

こうして冬が過ぎようとしていたある日
出航の予定が突然決まった。
私は思いがけず狼狽した。
女は私との日々の痕跡を留めず、他の客に寄り添うだろう。
私がさがせなかった女の心を他の男がさぐり当てることもあるだろう。
凍りついた女の肌を溶かすのはもう私ではなく見知らぬ男だろう。
別れた後の女を想像すると胸が焦げる思いがした。

私は女の従順さに満足していたので
躰がそばにあるときは心を望もうとせず
躰が離れるときになってはじめて女の心が欲しいと思ったのだ。

私は女を呼んでチョコレートを与えた。
 これは「しょくらあと」です。
 「しょくらあと」は誰かの心が欲しいときの贈り物です。
女は長い間じっとうつむいていたけれど
受け取らなかった。
無理に渡そうとすると、全身を固くして拒否の姿勢を示した。
私は言葉を変えた。
 「しょくらあと」は
 私の心をあげたいときの贈り物です。
 
すると女は同じ姿勢のままぽたんと涙を床に落とした。
私は女の心が少しだけ動いたと思い
そのわずかな心のしずくに自分が溶けていく感覚を覚えた。

そうして、日本には
1797年に長崎の丸山の遊女が
チョコレートをもらった記録が残っている。

出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP

 *動画が出来ておらず、すみません。

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中山佐知子 2007年1月26日



一軒宿の日記            

                   
ストーリー 中山佐知子                     
出演 大川泰樹

目が覚めたら、障子は明るいのにポタポタと雨音が聞こえていました。
雨音というより雫の音です。
2階から見ると、狭い道を隔てた共同浴場の屋根が白く光っていました。

雪、と僕は日記に書いたけれど本当は霜でした。
今朝は大霜です、と宿の女将さんの高い声が
階段を降りる僕の肩に刺さって、
僕は日記のウソを知られたかとうろたえました。

川沿いの一軒宿から見る景色は、その霜の朝を境に一変しました。

葉を落とした落葉樹は小骨のような枝がくっきりと見えてきました。
川も涸れて細い流れの両側には
あばらが浮き出るように大きな石が顔を出しました。

山も川もすべての罪をさらけ出して眠っているようでした。
僕もよく眠っています。
もう何日も眠りつづけています。

あなたがいなくなってから
あなたがこの世界から消えてから
僕ははじめてやすらかな日々を過しています。
あなたのカラダはもう僕を置き去りにすることはなく
あなたの心はどこにも飛んでいかない。

あなたの眼はもう誰も見ることがなく
あなたの手は誰にも触れることはない。
僕はすっかり安心して白いお湯の中で手足を伸ばし、
あなたを忘れる時間さえ持てるほどです。

お湯の湧く川の向こう岸には
石垣を組んで何軒かの家がうずくまり
そばの畑からここ何日か籾殻を焼く煙が登っています。
籾殻はじわじわと蒸し焼きにすると黒い炭になり
燃え過ぎると白い灰になると教わりました。

僕はきっと、いっぺん灰になってしまったんだ。
そして、灰ではないものに再生するために
この一軒宿にやってきて
心のアリバイを日記に書き続けているのだと思います。

籾殻の煙が消えると
西の空だけが不思議と明るく
ものの輪郭が不確かになる夕暮れがやってきます。

僕があなたの首に手をかけたとき大きく開いたあなたの眼
あのときの眼が日記を覗きこむ気配を感じるのも
そんな夕暮れです。

あなたはその眼を、もう一度眠らせてもらいたいですか。

日記の中の僕は
いなくなったあなたを悲しんでいるけれど
日記を書いている僕は、
何度でもあなたの眼を閉ざすことができます。
それほど僕は、あなたの眼を愛しています。

出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP

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