名月赤城山(水下きよし七回忌)

*2014年1月24日に水下きよしさんが亡くなって、今年は七回忌になります。
 亡くなるひと月前に収録した「名月赤城山」を再びお届けします。

名月、赤城山
     
      ストーリー 小野田隆雄
         出演 水下きよし

20代の終り頃、古い街道を歩くことを趣味にしていた。
9月の終りに、赤城山の見える宿場町の小さな民宿に泊った。
二階の部屋だった。
妙に暑い日で、夜になっても、やけに蚊が多かった。

寝る前に冷や酒を注文して飲んでいた。
つまみはカラシ菜という、ほろ苦い葉で、
ゆでてカツオブシがかけてあった。
おぼろ月夜で、ガラス戸の外には赤城山の大きなシルエットが
青く見えた。

そのとき、民宿のおカミさんが階段を昇ってやって来た。
そして言った。
「カヤでもつろうかね」
そして白いカヤをつり始めた。
私は窓ぎわに茶ぶ台を寄せて飲んでいた。
カヤをつりながら、おカミさんが言った。
「このカヤは、バカな息子が使っていてね。
 いまは、池袋にいるんだけど、さっぱり帰ってこない。
 ヤクザなんだ。マツバ会に入ったとか、組を出たとか、
 そんな噂ばかりさ。ほら、カヤつったからカヤの中で飲みな。
 セガレも、そうやって飲んでたよ」

茶ぶ台をカヤの中に移して、また飲んでいると、
おカミさんが、もう一本トックリを持ってきてくれた。
そして言った。
「昔、国定忠治が赤城山でつかまって、藤丸かごに乗せられてさ、
 この街道を通ったのさ。
 そのとき、うちの祖先が忠治に、水を飲ませてやったんだけどね
 実は水じゃなくて酒だったんだ。
 そのせいかねえ、この頃、セガレの夢を見るのさ。
 セガレが藤丸かごに乗せられて、
 両手をしばられて家に帰ってくるんだよ。変な夢だねえ」

私はおカミさんに、一緒に飲みませんかと言ってみた。
おカミさんはアハハと笑って階段を降りていったが、
しばらくすると、トックリをもう一本と、
ヤマメを焼いたのを持って昇ってきた。

それから二人でカヤの中で、酒盛りをした。
「明りを消してさ、月明りで飲もうかね。いいもんだよ。
セガレもそうやっていた」
それで、電燈を消して、月明りで飲んだ。
ガラス戸の外に赤城山が、月の光のせいか、
ものすごく近く見えるようになった。
「ほら、いいもんだろう?」
とおカミさんが言った。
茶ぶ台をはさんで、差し向かい。
おカミさんは、かっぽう着から、
長袖の白いワンピースに着替えていた。
「さあ、飲んだ、飲んだ。おしゃくするよ」
おかみさんが言った。

そのとき、ガラス戸の外で、五位さぎという鳥が、
「ギエッ、ギエッ」と鳴いて飛んでいく声が聞えてきた。

出演者情報:水下きよし 花組芝居 http://hanagumi.ne.jp/


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小野田隆雄 2019年12月15日「思い出のホワイト・クリスマス」

思い出のホワイト・クリスマス

        ストーリー 小野田隆雄
       出演 大川泰樹

キリストがゴルゴタの丘で処刑されたあと、
だいぶ時が流れてから
キリストの弟子たちが、ローマの街で
布教活動を始めた。その頃の話である。
当時のローマで、人気のある宗教があった。
ペルシャから入ってきたミトラス教である。
ミトラスは太陽の神で、
昼の時間が一年でいちばん短い冬至(とうじ)に生まれ、
いちばん日が長い夏至(げし)にいちばん元気になる。
そして次の年の冬至の前に死んで、
また冬至に生まれてくるのである。
ミトラス教では冬至の日に、
神の誕生を祝う儀式をする。
牛を殺して、その血をミトラスにささげ、
信者たちは血の代わりに赤いワインを飲む。
それから祈りをささげ、最後に牛を焼き、
その肉をみんなで食べて儀式は終る。
このミトラス教の儀式に
キリストの弟子たちが、ひそかに参加した。
彼らは一生けん命に布教していたが、
なかなか信者がふえずに困っていた。
そこで見学に来たのである。
彼らは赤ワインを飲みながら、
ひとつのアイデアを思いついた。
冬至の日をキリストの誕生日にしよう。
その日に赤いワインを飲み
パンを食べて、キリストの愛に感謝し、
幸福を祈る聖歌を歌おう。
こうしてクリスマスが始まったそうだ。
クリスマスとは古代ギリシャ語で
キリストの祭日の意味である。
けれどその日が12月25日になったのは、
4世紀のことで、それまでは何日だったのか、
いまはもう、わからない。

このような話を、私の友人が話してくれた。
彼はローマ・カトリック教会の信者である。
なんだか照れくさそうな声だった。
私たちは軽井沢のホテルのバーの
カウンターで飲んでいた。
彼はカメラマンである。
葉を落としたカラマツの林を撮るために、
12月の20日(はつか)過ぎ、軽井沢に来たのである。
けれど着いた日から静かに雪が降り続き、
その日も仕事にならず、
夜はゆっくりと、2人でお酒を飲んでいた。
このホテルのバーは別館にあって、
本館から廊下でつながっている。
バーにくるとき、廊下の窓から、
本館の玄関の前の、
大きなクリスマス・ツリーが見えた。
雪で白くおおわれたモミノキに
赤や黄色や青の豆電球の光が
天使のまばたきみたいに、キラキラしていた。
その光景が、頭に浮かんできて
私は彼に聞いてみた。
「ベツレヘムでも雪はふるのかい?」
「さあ、どうなんだろう」と彼は言った。
柱時計が10時を打った。
バーのカウンターにいるのは、
私と彼だけになった。
私たちがクリスマスの話を
していたからだろうか。
バーのマスターがクリスマスソングの
レコードをかけてくれた。
「ホワイト・クリスマス」が聴こえてきた。
私の田舎はカラッ風が吹く北関東だった。
幼い頃のクリスマス・イヴには
町役場につとめていた父が
小さなクリスマスケーキを買ってきた。
母は煮込みうどんを作ってくれた。
変な組み合せだったが、おいしかった。
雨戸をカラッ風がコトコト鳴らす。
誰かがたたくように。
その音をサンタクロースが来たのかなと、
小さな妹が言ったこともあった。
そんな思い出を、私は彼に話した。
彼が、思いついたように言った。
「赤ワインとパンを注文しないか?」
もちろん私も賛成した。
赤ワインのグラスと黒パンをひと切れ。
それを前にして、ふたりはしばらく眼を閉じた。
彼が小さくアーメンとつぶやいた。
その声を、いまでもときおり思い出す。
昭和時代が終る頃のことだった。
彼はもういない。イエスに呼ばれてしまった。

出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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小野田隆雄 2018年12月9日「雑木林の思い出」

雑木林の思い出

     ストーリー 小野田隆雄
       出演 大川泰樹

20年ほど昔のことである。
調布市の深大寺に近い植物園に行った。
そこのバラ園で白いバラを撮影し、
化粧品の広告に使用するためである。
五月の中旬、よく晴れた日だった。
撮影が終わったとき、カメラマンが言った。
「雑木林を通って帰りませんか」
私とデザイナーの彼は、
カメラマンの彼女について歩き始めた。
広いバラ園の隣りは、
ちょっと奥深い雑木林になっている。
その中を細い道が続いている。
静かだった。若葉をゆらして風が吹く。
彼女は私の前を、ゆっくりと歩いていく。
ときおり、何かを捜すように、林の中を見る。
細い道は植物園の裏門で終っていた。
バラの撮影をしてから10日ほどあと、
私は彼女と、別の仕事のことで、
バーボンソーダを飲みながら、
新宿三丁目のバーで打ち合わせをした。
そのとき、私は彼女に聞いてみた。
雑木林で何か捜していたのか、と。
すると彼女は次のような思い出を話した。
彼女は小学生時代を調布ですごした。
父は大学の農学部の先生だった。
父は休日になると、ひとり娘の彼女を
あの植物園に連れていった。
そして草花や樹木の名前を教えてくれた。
五月の中旬、やはり、よく晴れた日曜日、
父と彼女は雑木林の中で、ひっそりと咲く、
かわいい黄色い花を見つけた。
「キンランの花だよ」と父がいった。
「黄色く咲くのがキンラン。
白く咲くのがギンラン。
数少ない野生のラン。
こんなところで、この花に会えるなんて」
少女だった彼女の記憶に、
珍しく興奮している父の言葉と
あざやかな花の姿が焼きついた。
そんなことがあったので、撮影の帰り道、
思わず林の中を見てしまったのだ。
と、彼女は言った。
キンランの花について、私にも思い出がある。
あれは30代の始めの頃。
ひとりの女性と別れた。
私はひとりで京都方面へ旅に出た。
スケッチブックを持って行った。
寂しさから逃れるために、
風景や自分の気持をスケッチしたかったのだ。
バーボンソーダを飲んで帰った夜、
その古いスケッチブックを出してみた。
そこに短い文章が、乱暴に書いてあった。
山陰本線で北に行き、保津川の駅から
歩いたときの記録である。

「洛北西、雨(らくほくせい、あめ)
保津川峡を越える雑木林の道で、
ふいに雨が激しくふり出した。
ネムノキ、カツラ、ヤマボウシ、
ホオ、イタビカズラ、シラフジ、
タカオカエデ、コナラ、クヌギ。
緑の匂いが濡れた全身をつつみ込む。
ひとにひとりも合わず、
あだし野の念仏寺まで歩いた。
無縁仏の石塔がつきるあたり、
おぼろに明るく、たった一輪、
キンランの花を見た。
雨のまま、夕闇がせまっていた」

念仏寺から帰った翌日、
京都の図書館で野草図鑑を調べた。
それから落葉樹の図鑑も見た。
そして図書館の机で、あの文章を書いたのだった。
古いスケッチをながめながら私は思った。
ひとつのことや、ひとりのひとを、
思い出にしてくれるのは時間である。
そうやって思い出の雑木林を胸に抱いて、
私たちは歩いていくのだろうな。
北原白秋の詩が聞えてくる。
「からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。」

出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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小野田隆雄 2018年1月14日

 平成時代の終りに

     ストーリー 小野田隆雄
       出演 大川泰樹

平成二九年の十二月上旬のある日、
北島三郎のキタサンブラックは
有馬記念に勝てるだろうか、
そんなことを思いながら
カラオケのマイクを握っていた。
歌っていたのはもちろん
「函館のひと」である。
次に歌う曲も決まっていた。
千晶夫のヒットナンバー「北国の春」である。
その次に予約しているのは、
小林旭の二曲、「北帰行」と「北へ」。
そこでひと休みして
バーボンソーダを飲む予定となっている。
今日もまた午後のサービスタイムに
ひとりでカラオケボックスにやって来た。
そして北の歌を、ひっそり歌う。
いつのまにか、好きな歌は、
タイトルに北が入っているか、
北国の匂いがするものばかりになっていた。

昭和時代に生れて、人生の大半を
その時代の中を泳いできた。
浮いたり沈んだりしているうち、
平成という時代になっていた。
それどころか、二一世紀にもなった。
だんだん時の流れが、
見知らぬ国を走る列車から眺める
風景のように、見知らぬものになってくる。
そして、その平成も終るそうだ。

北という言葉を聞くと、
振り返るという行為が浮んでくる。
南という言葉を聞くと
前に行くというイメージが浮んでくる。
太平洋戦争が終ったあとの日本を、
復興させたいちばんの力は、
東北地方の中学校を卒業して、
東京を始めとする都会に就職した、
金の卵と呼ばれた少年少女の働きだった。
彼はみんな南に向かう夜汽車に乗った。
そして彼らがふるさとを思うとき
北を振り返って生きてきた。
そういうイメージが昭和時代には
あったように思う。

「俺は今日もまた北へ流れる」
小林旭の「北へ」を歌い終えて、
阿久悠さんが作詞した
「津軽海峡冬景色」を予約する。
昔、仕事で南の島に行き、
日本の歌謡曲について
阿久さんの話を聞いた。
そのとき、阿久さんが言った。
「日本人の心を打つ歌は、ほとんど
北が舞台になっています。なぜか、
みんな北に向かうと、やさしくなるんです」
彼は津軽海峡冬景色を作詞したとき、
青函連絡船の船着き場に出入りする人々を
一日中見ていたそうだ。
船着場には行かなかった。
なぜなのか。それはわからない。
この歌を歌っているとき、
突然、中原中也の詩のフレーズが浮んできた。
「北の海」という詩である。
「海にいるのは
あれは人魚ではないのです。
海にいるのは、
あれは波ばかり。」
北の海はとてつもなく寒い。
それでも人は北へ行く。
心の底に触れる何かを求めて。
きっと平成の世が終っても、
いつの世になっても。



出演者情報:大川泰樹(フリー)

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小野田隆雄 2017年1月8日

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行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って

     ストーリー 小野田隆雄
       出演 大川泰樹

紀元前6世紀。メソポタミアとシリアを制圧したバビロニア王国は、
さらに軍を進めてユダヤ人の国、イスラエル王国も滅ぼした。
ところが戦いに敗れたユダヤ人たちは、
バビロニア王国に対して反抗的だった。
これに怒ったバビロニアの王様は、
反抗する数千人のユダヤ人を、
自分たちのバビロンに強制移住させた。
反抗するなら殺してしまえ、という論理は鉄砲のない時代には
無理があった。
数千人の人間を、鉄砲なしに殺すことは
たいへんな重労働となるのである。
むしろ全員まとめて、
監視できる場所に強制移住させたほうが安あがりなのだ。
かくてイスラエルを追われたユダヤ人たちは
シリア砂漠を越えて、メソポタミアのティグリス川のほとりにある
バビロンの都まで、兵士のムチに追われて歩き続けたのであった。
このときからユダヤ人の国は地球上から消えた。
そして祖国を失なったユダヤ人が
もういちど自分たちの国イスラエルを勝ち取ったのは、
2,000年以上も過ぎた、1948年のことであった。
このユダヤ人の事件は、「バビロンの捕囚」という名前で、
日本の世界史の教科書にも登場する。

イタリアの作曲家ヴェルディが、
1842年にミラノで発表したオペラ「ナブッコ」は、
この「バビロンの捕囚」をテーマとしたものである。
「ナブッコ」とは、バビロニアの王様のことである。
このオペラの第三幕で歌われる、
「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」は、
捕らわれの身となったユダヤ人たちが、
ティグリス川のを見つめながら、
祖国を流れるヨルダン川を思って歌う大コーラスである。
この歌は、当時のイタリア人に熱狂的に支持された。
イタリアは、その頃、
オーストリアとの独立戦争のまっただなかにあった。
祖国を想うユダヤ人の気持が、
独立をめざすイタリア人の心を打ったのである。
この歌は、現代でも、イタリアの第二の国家として、愛されている。

「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」
もしも、いま、私に、黄金の翼があたえられたら、
若い日の写真が一枚も残っていない亡き母の、
青春時代の一日を、翼の上から見つめたいと思う。

出演者情報:大川泰樹(フリー)

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小野田隆雄 2016年1月10日

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舞踏会の手帖はもったことがないけれど

ストーリー 小野田隆雄
出演 大川泰樹

池波正太郎の『鬼平犯科帳』の中に、次のような話があった。
なんというタイトルだったか、
その話がストーリー全体とどのようにかかわっていたか、
それは憶えていない。
若い頃に居酒屋で働いていた女がいた。
仮にお光としておこう。
酒を売るだけではなく、
ときおりは好みの客に、自分の体も売っていた。

そんな彼女が六〇歳の坂も越えて、水商売もままならず、
わびしく裏長屋で暮らすようになった。
そんなある日、彼女は表通りの人混みで、
若い頃になじみの客だった、呉服屋のせがれに、
ばったりと会った。
呉服屋のせがれも、いまは立派な大旦那になっていた。
お光は、なつかしさから思わず彼に声をかけた。
ところが、呉服屋の旦那は、なつかしいどころではなかった。
なにしろ若い頃に、遊び気分で抱いた女である。
しかもその女が、みすぼらしい、
しわだらけのおばあさんになっている。
こんなばばあに、こんな人混みで声をかけられたところを
知っている人に見られたら、たいへんである。
彼はお光を横町に連れ込むと、小判を二枚、
押しつけるように渡しながら言った。
「これからは、私に会っても、決して声などかけないでおくれ」
お光は逃げるように去っていく旦那と
二両の金を見つめていたが、そのうちニヤリとした。
これは、いい商売になるじゃないか、と思ったのである。
それからは金に困ると、昔の遊び相手を捜し出して、
道でそっと声をかけた。
商店の旦那や番頭、旗本の次男坊や三男坊。
ほぼ七割の確率で金になった。
そのお光がある日、長谷川平蔵に会った。
若い頃の平蔵は、「ほんじょのテツ」などと呼ばれた、
腕っぷしのいいやくざ旗本だった。
その頃にひと晩、お光を抱いたことがあった。
お光はいまをときめく火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)の長官に、
声をかけたのである。
平蔵は立ち停り、女がお光だとわかると、
心にしみるような優しい笑顔になった。
それから三両の金をお光の手に渡しながら言った。
「お光、昔は世話になった。ありがとうよ。
 俺はな、いまは火付盗賊改方にいる。
 困ったことがあったら、やってきておくれ」

この鬼平の話について、
池波正太郎があるエッセイに書いていた。
ヒントになった映画があったのだと。
それは「舞踏会の手帖」というフランス映画で、
若い頃、貴族の舞踏会に出入りしていた女が、
年をとってから、そこで知り合った男たちを訪ねていく、
というストーリーだった。
彼女は、彼らのことを自分の手帖にメモしておいたのである。

私は、この古いフランス映画を観ていない。
けれど、「舞踏会の手帖」という言葉に魅力を感じた。
タイトルだけで、男と女の人生のドラマを感じたからである。
私の手帖は、毎年、毎年、ほとんど日程表のままで終っていく。
平凡で単調である。
ただ、いつの頃からか、12月31日のページに
「こぞことし、つらぬく、ぼうのごときもの」という
高浜虚子(きょし)の俳句を書く。
年は変るけれど人生そのものが変るわけじゃない。
ただ、こうやって、年々歳々、一年が終ってゆきながら、
自分というものが続いていくのだな。
そんなことを考えながら、年越しそばを食べ日本酒を飲み、
この俳句を手帖の最後のページに書きこむのである。

出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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