踊子草(おどりこそう)
ストーリー 小野田隆雄
出演 久世星佳
木下淑子(よしこ)は天城湯ヶ島町の
ちいさな旅館に下宿している。
狩野川(かのがわ)に面した二階の、
八畳ほどの部屋で、彼女はそこから
門野原(かどのはら)にある小学校に通っている。
先生になって、この春でちょうど
三年目を迎えた。
いまは四月の中頃で、
伊豆は若葉でうずまるようだ。
淑子の部屋の窓の下から、
絶え間なく狩野川のせせらぎが、
ビバルディの春みたいに聞え、
晴れた日には、空気がぜんぶ、
さわやかな香りに包まれているみたいに
思えるほどである。
ところで、木下淑子は、いつかは
小説家になりたいと思っている。
黙ってひっそりと書き続けている。
ある文芸誌の新人賞で、
最終選考まで残ったこともある。
けれど、そのことは
ほんとうに、少しの友人しか知らない。
世田谷生れの彼女が、
静岡県の小学校の先生になったとき、
実は、だれも驚かなかった。
明るくて、子供が好きで、
どこかいつまでも高校生みたいな、
淑子がそういう女性だったからである。
彼女は、川端康成が好きだった。
「雪国」と「伊豆の踊子」。
だから、湯ヶ島で小学校の先生に
なれたとき、あまりうれしくて
そっと、自分のほおに
触れてみたほどだった。
淑子は、この小学校に赴任してきた年、
三年生のクラスの担任になった。
そしてこの春、そのクラスが
六年生になる。三十五人の生徒みんなと
仲良く、ここまでやってきた。
「弱いものいじめは止そうね。誰でも、
自分が弱いものになることだって、
あるんだよ」
いままで、いつも、一生けん命、
そう言いながら、先生をやってきた。
初めて学校に来た日、
近所の小川で、彼女は初めて
メダカを見た。きれいな水の中を、
メダカがいっぱい泳いでいた。
「メダカの学校は 川の中、
誰が生徒か先生か、誰が生徒か先生か」
そうか、と、あのとき彼女は思った。
先生と生徒じゃなくて、人間同士で
やってみようと。
天城峠でバスを降りて、
五キロほどの山道を、八丁池まで歩く。
この頃、晴れた日曜日の、
淑子の習慣になっている。
彼女は、小説のことを考えている。
SKDで踊って、恋をして、くたびれて、
いまは、ひっそり生きている、
ひとりの女性の話である。
淑子が「伊豆の踊子」を初めて読んだのは
中学三年の頃だったけれど、
恋のときめきよりも、なぜか、
女性であることの透明な悲しみの色が
心に広がるのを感じた。
それから、いつのまにか、淑子の胸に
ひとりの踊子が生き続けている。
その彼女へのレクイエムを書きたいと、
思うようになっていた。
「書けるの、淑子?まだ、恋もしてないよ。
それとも、書くのを止めて
ずっと、先生のままでいる?」
八丁池への道を、ゆっくり歩きながら、
今日も淑子はひとりつぶやく。
道端のヤマザクラの根本に、
白いかわいい花が、
淑子を迎えるように咲いて
ゆっくり風にゆれている。
けれど、淑子は気づかないで通り過ぎる。
咲く花の形が踊る少女に似ている春の花、
踊子草の花だった。