『ウルグアイの犬』
ストーリー 勝浦雅彦
出演 地曵豪
「断尾って知ってる?犬の尻尾を、小さいうちに切り落としてしまうの。」
「生憎うちは妹にアレルギーがあってペットは飼えなかったから。詳しくないんだ。
なぜそんなことを?」
「ヨーロッパで生まれた風習らしいんだけど、予防医学や衛生面でのメリットもあるらしいの。
でも、本当の理由は、人間が定めた理想的な犬の姿にただ近づけたい、
ってことみたい。そして子犬のうちに麻酔もかけずに取ってしまうんだって。
幼犬は痛覚が発達していないから麻酔など要らない、って。ひどい話よね」
取り留めない会話が続いていた。
この店に呼び出された真意をはかりかねていた僕に、
「母がいなくなったの」と彼女はだしぬけに切り出した。
「おばさんが?」
彼女は頷いた。僕たちは5歳の頃からの幼馴染みだった。
とは言っても、もう彼女の母親の印象はおぼろげで、
母娘二人はよく似ている、という記憶だけが残っていた。
先々週の金曜日のことだった。
彼女は二年間付き合った恋人と結婚しようと考えている、
と母親に伝えた。多くの場合、娘の結婚という事実を深刻かつ重大に受け止めるのは、父親だ。
だから、彼女は極めてフランクに、当然こちら側の味方として母親にその意思を伝えたつもりだった。
母親はいつもと変わらずに、あらそうなの、とか、忙しくなるわね、と応じていた。
父親は出張で不在だった。
翌朝、彼女が少し遅めに目を覚ますと、もう母親はいなかった。
極めて最小限のものが持ち出された形跡があった。
翌日に父親が帰宅しても、母親からは一切連絡がなかった。三日目には親戚に電話をかけ、
四日目には知りうる限りの友人に連絡を試みた。しかし、誰も母親とここ数か月連絡をとっていなかったし、
みな一様に「あの人のことだから心配ない」という口調で応じた。彼女は戸惑った。
専業主婦だった母が一人で出かけることはまれだったし、むろん無断外泊をした記憶などない。
父親の態度も不思議だった。最初は戸惑いを見せていたが、
解決には時間がかかるだろう、といった趣旨の発言をした後は本来の機械のように
規則的で几帳面な生活リズムの中へ戻って行った。
まるでコンピューターが母の不在、という不規則なプログラムを克服したように。
二杯目のコーヒーが運ばれてくると、彼女はその位置を修正し、テーブルの
中央に茶色い封筒を置いた。
「母がいなくなって思う以上に私は慌てていたのね、
自分の部屋の鏡台にこれがあることに気づくまでずいぶんかかった」
「これは?読んでいいの?」
「ええ。ただ、読めば私や、私の家族をこれまでと少し違った目で見る事になるかもしれない」
封筒を開けると、「誓約書」の文字があらわれた。
日付は28年前。男性のものらしき、硬く筆圧の高い文字が並んでいる。
目で追うと彼女の言ってる意味が少しづつわかってきた。
それは彼女の父親と母親の間で、結婚前に取り交わされた文字通りの誓約書だった。
ひとつ、夫は妻を愛し、妻は夫を愛すること
ひとつ、夫は生涯勤労し、妻は専業主婦として家庭を取り纏めること。
ひとつ、夫と妻は、お互いの尊敬において夜の営みを怠らないこと。
ひとつ、夫の年収と妻の就労予定がないことを考慮し、子はひとりに留めること・・・。
具体的な夜の営みの回数から、年に何回家族旅行をすべきか。
何年後に住宅を買い、どのタイプの車を買うべきか、
飼い犬の犬種にいたるまで具体的な条文が何十条もならんでいた。
読み進めながら、少し手に汗が滲んだ。
そこに書かれていることは、僕が知りうる限りの彼女の家の事情そのものだった。
「私の家族は、その28年前に定められた航路を寸分たがわず飛び続けていた」
「でも、君のお母さんはいなくなった」
「最後のページを見て」
最後の条文にはこう書かれていた。
ひとつ、この誓約書の内容は、子の家庭からの独立をもって終了する。
「なぜ、父と母がこんな契約を結んだのかはわからない。
そしてどうして、この事を私に明らかにしたのかも」
「心当たりはないの?おばさんがどこに行ったのか」
「ないわ。あの人は家族にとって理想的な母だった。
父のことを支え、私にも愛情を注ぎ、決して我を出すこともなかった。
家族にとって不可欠な人だった。
でも、母がこの先、どこへ行って、何を見ようとしているのか、
私にはひとつも思い浮かばなかった」
去り際、立ち上がった彼女の携帯に着信があった。
どうやら婚約者からのようだった。その頬にかすかな震えが見て取れた。
何か言葉をかけようと思ったが、
少し開いたドアの向こうからうねるような雨の音がやってきた。
「ひとつだけ聞いていい?女性を殴ったことはある?」
「ん、ないよ」
「そう。普通そうよね」
「もしかして、婚約者がそういう人だと?」
「その逆。そんなことしたら後悔して自殺しちゃいそうな人。
とりあえず彼にはできるだけ早く、機械みたいに生きてる父親と、
どこにいるのかわからない母親が私の家族の本当の姿だと知ってもらわないと」
「健闘を祈るよ」
「時々、思うわ。あなたと付き合わなくて、よかった、と。
死ぬほど好きになることはなくても、死ぬほど憎むこともないものね」
どう答えていいかわからず、
「君にもし何かあったとき、このクッションくらいの弾力で
受け止めることはできると思う」
座ったままソファを手で弾きながら、僕は言った。
振り返る彼女の唇がかすかに動いた、
たぶん「ありがとう」、と言ったのだろうけど、
もう確かめる術はなかった。
後日、彼女からメールが送られてきた。
母親から1通の絵葉書が届いたという。
メッセージは無く、
裏面にどこかの草原に落ちる巨大な夕日の写真が印刷されていたという。
「どうやらそこは、ウルグアイのパンパという草原のようです」
ウルグアイ?パンパ?
「・・・仮に母が意志をもってその場所に辿り着いたのだとしたら、
そこに至る道程は見当もつきません。
ただ、ウルグアイ、という言葉を目にして思い出したことが一つあります。
かつて二人でこんな話をしたのです。
『東京からいちばん遠い、地球の裏側は、どこなのか』、と。
そのとき母は炊事の手を止め、しばらくぼんやりと宙をみつめて考え込んでいました。私がからかうと、母は我に返り、ころころと笑ったのでした。
もし、地球の裏側で母があるべき自分の姿を見つけたのだとしたら、
私は母の帰還を望むべくもありません。
そうやって私も、家族も、ようやく自然な姿に戻っていくのだと考えています。
結婚式は3月に行いますが、幼馴染とはいえ異性の招待は控えようと思います。
ごめんなさいね、またいつか」
文章はそう終わっていた。
東京からいちばん遠い、地球の裏側。
僕は想像する。
ウルグアイの草原に、一人の女性が立っている。
娘によく似た、二重の濃いまつ毛が揺れている。
それはもしかしたら、
よく似た風土に属した草原を混同して想像しているのかもしれないが、
そんなことはどうでもいい。最果ての地、僕の中のパンパはここだ。
彼女は僕の遠い記憶にあるような、
ツイードやシルクの七分袖など着ない。
もうあんな品のいい恰好をする必要はない。
大胆にカットされた麻のワンピースを身にまとっている。
彼女は失ったものを取り戻している、
あるいは、本当は何も失っていなかったことに気づく。
彼女は歩き続ける。
吹き抜ける強い風に歩調を緩め、
バランスを崩しながら、その姿は茜差す夕日に消えていく。
誰もその人から、何かを奪うことなどできないのだ。
出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html