やっぱり犬にはかなわない、とヒトミは思った。
朝、学校に行く途中で、うしろ足が一本ない犬に出会った。
道の端を、人に連れられ歩いていた。
歩くたび、からだが上下に揺れる。他の犬に比べれば、
あきらかに歩みは遅く、歩調もなめらかではない。
しかし、犬に卑屈の影は見えない。
自分ののろのろとした歩みに焦れるでもなく、
気おくれするでもない。
顔に憂いもなく、目にはおびえもない。
自分ならどうだろう、とヒトミは思った。
とてもあんなふうにはふるまえない。
泣きわめき、物を投げ、親にあたるだろう。
あるいは心を折り、ふさぎこみ、死ぬことも考えるだろう。
だが、犬は悲運を嘆くことはない。
身の不幸を言い募ることも、自暴自棄に陥ることもない。
そうか、とヒトミは思う。
犬は絶望しないのだ。
犬はもともと、「人生に」望外な期待など抱かないのだ。
犬は、ただ生きている。
目の前のものを食べ、与えられた足で歩き、
眠くなれば目を閉じ、一日に二回外の空気を吸い、
うれしければ尾をふり、解き放たれれば走る。
飼ってくれる人を選ばず、
飼ってくれている人が嫌いになって逃げ出すこともない。
あるがままの運命を受け入れ、ただ淡々と生きている。
犬は先生だ、とヒトミは思った。
ヒトミはもともと、じっとしていることが平気な、
犬という生きものに敬意を抱いていた。
近所にずっと、庭につながれている柴犬がいる。
通学の行き帰りに顔をあわせれば、「やあ」と声をかける。
犬は寝そべったまま、ピクリと耳を動かし、一瞥をくれる。
朝も、夕方戻ってきた時も、同じ場所、同じ恰好で寝そべっている。
ずっと何時間もそのままなのだろうか。
もし私がそうなら、気が狂ってしまう。
なぜ犬は平気なんだろう、といつも考えてしまう。
一度だけ散歩途中の「動く彼」に会って、
なんだかほっとしたことを覚えている。
ヒトミは、一年前、犬に死なれた。
自分より少しあとに生まれたサクラというメスの柴は、
15歳で亡くなった。
最後の一年は病気勝ちで、もう長くはないと医者に言われた時、
ヒトミは涙がとまらなかった。なんて短い一生だろうと思った。
私と同じ時に生まれ、私が大人になる前に死ぬ。
これっぽっちの時間しか生きられないなんておかしいよ。
そう言って、ヒトミは泣きじゃくった。
その時、父が言った言葉が忘れられない。
「ヒトミ、人間のいのちが長過ぎるんだよ。」
犬のいのちは、人間の目から見れば短いだろうが、
なあに、犬はそのことに不満は感じていない。
これくらいでちょうどいいと思ってるよ、きっと。
バイバイ。さよなら。お先です。
かわいそうなのは、あなたたちだよ。
つらい思いばかりして、
私たちの何倍もの長い人生を送らなければならない人間たちだよ。
父の話を聞いて、そう言えば人間も大変だ、と
ヒトミはちょっと泣き笑いになった。
静かに散歩する三本足の犬に出会った日、
ヒトミは学校の帰りに花屋に寄った。
サクラが死んで初めて、
居間のサクラの肖像画の前に飾る花を買った。
出演者情報:高田聖子 Village所属 http://www.village-artist.jp/