川野康之 2024年9月15日「アルプスのワイン」

アルプスのワイン       

    ストーリー 川野康之
       出演 大川泰樹

マッジョーレ湖から山に向かって2時間ほど走ると
あたりはアルプスらしい山岳風景になる。
急な斜面は短い草でおおわれ、
ところどころ荒々しい岩肌が剥き出しになっていた。
崖っぷちに張り出したテラスのような形の岩があった。
その上に立つと、くねくねと登ってきた道が一目で見渡せた。
はるか下の方で湖が光っている。
ここにカメラを据えた。
7月から8月にかけて、
まる一夏を費やしたCMの撮影がようやく終わろうとしていた。
これが最後のカットだった。
ミラノを拠点に北イタリアのあちこちを移動しながら、
一日も休まずロケハンと準備、撮影を続けてきた。
ヨーロッパの夏は日が長い。
早朝に出発して、夜遅くホテルに戻る。それから打合せ。
そんな日の連続だった。
毎日これでもかこれでもかと問題が起きた。
海外タレントとのコミュニケーションはすれ違いばかりで、胃が痛くなった。
イタリア料理はすぐに食べられなくなった。
隣の中華料理店に行って
ご飯にジャスミンティーをかけたお茶漬けを食べていた。
そのタレントが帰国し、スタッフだけが残って、あとは実景を撮るだけ。
精神的にも肉体的にも私はくたびれきっていたが、
この日で終わりだと思うと少しホッとしていた。
みんなの後ろに立ってぼんやりと撮影が進むのを見ていた。
できればもう美しいものしか見たくないという気持ちになっていた。
岩の上にいるカントクもカメラマンのクリタさんも
おそらく同じ気持ちだったと思う。

背後で人の気配を感じた。
振り向くと、石を積み上げただけの質素な小屋があって
中からモグラみたいなおっ母さんが顔を出していた。
日に焼けた顔をくしゃくしゃにして、おいでおいでと手を振っている。
小屋の中は涼しくて居心地が良さそうで、
テーブルの前にはマリオみたいな口ひげのお父っつぁんが座っていた。
お父っつぁんは一升瓶ぐらいの大きさの瓶を出してきて、コルクの栓を抜いた。
私のために分厚いガラスのコップを手渡し、濃い色の液体を注いでくれた。
口に入れると強いぶどうの味がした。
土の味、太陽が凝縮した甘さ、ミネラル、
アルプスの空気のような爽やかな酸味のワイン。
喉の渇きがさっと引いた。
ぶどうの滋味が胃の中にゆっくりとしみこんでいく。
ぶどうに救われた。
そう思った。
私の顔をお父っつぁんとおっ母さんが見ている。
「ベーネ!」
私が笑うと二人も笑った。
後でイタリアのスタッフから聞いた話によると、
ふだんは麓の村に住んでいるお父っつぁんたちだが
夏の数日だけ、この小屋で過ごすために家族でやってくる。
このワインはお父っつぁんが自分で育てたぶどうで作ったものだという。
山で飲むためにわざわざ重たいワインを運んで来たのだそうだ。
そんな貴重なワインとは知らず、私はおかわりしていた。
しばらくすると、カントクが
「ここにいたのか」
と言いながら入ってきた。
ワインの匂いをかぎつけたのだろう。
マリオのお父っつぁんはうれしそうにカントクにもワインを注いだ。
気がつくと私たちは大事な一升瓶をほぼ飲み尽くしてしまっていた。
そのうちに彼らの子どもたちが帰ってきた。
頬っぺたの赤い少女と男の子。
弟が大事そうにかかえていた空き缶の中には
二人が摘んできたエーデルワイスの花が入っていた。

別れる時、少女がエーデルワイスの花を私たち一人一人にくれた。
お父っつあんがワインの新しい一升瓶を持ってきて渡そうとする。
いやさすがにそれは、と固辞したのだが、持っていきなさいという。
ロケバスの中で私たちはワインを開けた。
バスはぶどうの香りを乗せて走った。
誰かが窓の外を指さした。
岩の上で子どもたちが手を振っていた。
つづら折りの道をカーブするたびに、右に左に岩は見え続け、
子どもたちが手を振っているのがいつまでも見えた。
私も手を振った。
やがて森の木立に隠れて岩が見えなくなった時、思った。
死ぬまでにもう一度ここに来ることはあるだろうか。
カントクが一升瓶を膝に抱いたまま言った。
「おれはいつかあの家族の映画を撮るよ、ここに帰ってきて」
あれから30年になる。
カントクは映画の約束を果たさないまま天国に行ってしまい、
今は神さまになってしまった。
私はこの地をまだ訪れていない。
死ぬまでに行けるだろうか。
いつか天国でカントクに会ったら、きっとこう言われるだろう。
「あのワイン持ってきたか」

出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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川野康之 2024年4月6日「ダンスする狐の末路について」

ダンスするキツネの末路について

ストーリー 川野康之
   出演 村上弘明

キツネはこの頃夜中に目が覚める。
気がつくとブルーなことばかり考えてしまう。
もう昔のように高くジャンプできなくなった。
最近は狩りに出ても失敗ばかりだ。
ウサギの肉は何日も食べていない。
空腹のあまりニワトリ小屋を襲って、人間に追いかけられた。
鉄砲の弾が耳をかすって死ぬほど怖かった。
まだある。
俺は年をとった。
歯は痛いし、尻尾はぼろぼろだ。
毛皮のつやはなくなった。
それにひとりぼっちだ。
俺は何のために生きているのだろうか。
「考えるな」
とキツネは自分に言った。
体に巻いたしっぽにくるまって眼を閉じた。
早く夜が明けるといいと思った。

昔の俺は何も考えなかった。
森を歩き、獲物を探し、本能のままに狩りをした。
ウサギを見つけたら、そっと近づいてジャンプして、
真上から鋭い爪で掴まえた。
うまかったなあ、あのウサギの肉。
俺は他のどのキツネよりも高く跳躍することができた。
仕留めた後は興奮がおさまらず、月に向かって何度もジャンプした。
森の動物たちは俺を「ダンスするキツネ」と呼んで恐れた。
あの頃、俺は何も考えなかった。
ただ生きていた。

キツネは眠れなかった。
朝までずっと考えごとをしていた。
眼が真っ赤になっていた。
夜明け近くに巣を出た。
まだ薄暗い森の中をキツネは歩き始めた。
ウサギたちが噂した。
「あれがダンスするキツネ?」
「ずいぶんみすぼらしくなったね」
かまわずにキツネは歩き続けた。
森を出て、斜面を下った。
川に沿って歩いた。
そしてキツネは森に帰ってこなかった。
ウサギたちは噂した。
「あのキツネは生きていけないね」
「生きていけないね」

キツネは旅に出た。
森の外はよそよそしく、荒野は危険がいっぱいだった。
腹が減るとヘビやカエルを食べた。
食べられる木の実があることも知った。
いくつかの山を越え、いくつかの川を渡った。
キツネは死ぬなんて考えてなかった。
ただ生きていた。生きようとしていた。
今日のねぐらに決めた草原で、キツネは月を見上げた。
ジャンプはできないが、下を見ると地面に自分の影があった。
首を振ったら先っぽの欠けた耳が揺れた。
それがおもしろくてキツネは何度も体を揺らした。
見ていたウサギの子どもが「キツネがダンスしているよ」と言った。
.


出演者情報:村上弘明  オスカープロモーション

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川野康之 2023年11月12日「水平線と臆病者」

水平線と臆病者

    ストーリー 川野康之
       出演 遠藤守哉

海というのは不思議なものだ。
一人で海と向かい合うのは、甘美であるけれど、危険でもある。
あの穏やかな水平線の下には何か得体の知れないものがある。

初めて沖縄ロケに行った時、海のあまりの美しさにじっとしていられず、
一人でこっそり海に入って、ガンガゼというウニに刺された。
ガラスの破片でアキレス腱を切ったかと思うほど、激烈な痛みだった。
おそるおそる海を出て、売店で電話を借りてタクシーを呼び、
近くの医者に連れて行ってもらった。
かかとにウニの針が刺さっていた。
ウニの針には返しがあって抜くことはできない。
これから徐々に毒が回って熱が出ます。
なるべく涼しいところで安静にするように、と医者は言った。
そっと海岸に引き返し、現場に戻った。
誰にも話せない。
高揚した気持ちはしぼんでいた。
その日は一日中、日陰にいた。
熱で朦朧となりながら、輝く水平線を眺めていた。

水平線の下には何かがある。
竜宮城の伝説はほんとのことなんじゃないかと私は思う。
インド洋の島に行った時のことである。
誰もいないビーチの海に入って、
鮮やかな青や黄色の魚たちを追いかけていた。
数メートル先に中型犬ぐらいの大きさの亀がいた。
じっと停まって、流し目で私を見ていた。
私が近づくと、ゆっくりと逃げる。
数メートル先で停まって、また流し目で見ている。
追いかけると、ゆっくりと逃げる。
そのうち海の底がふいに深くなった。
水の色が変わり、冷たくなった。
亀は私を誘っていた。
「行こうぜ」
あぶない。
目をそらして水面に上がった。岸が思ったよりも遠くにあった。
必死で泳いだ。
やっとビーチにたどり着いて、砂の上に倒れ込んだ。
「臆病者め」
波音に混じって亀が笑っているような気がした。

何度目かの沖縄ロケで、とある離島に来ていた。
私は一人で砂浜に座って水平線を眺めていた。
沖合を一艘のヨットが走っている。
ヨットではなくウィンドサーフィンだった。
風を受けて、というより風そのもののように軽やかに水面を滑っていた。
あんな風に自由に海を駆け回れたらどんなにいいだろうと思った。
気がつくと、私の隣に女の人が座っていた。
「撮影?」
私の後ろを目で示して彼女は聞いた。
「うん。でもまだ準備中なんです」
「このへんは撮影多いよ」
「きれいですからね、このへんは」
彼女はどこから現れたのだろうか。
鮮やかなビキニの下によく日に焼けた肌。
髪が濡れ、引きしまった体を伝って水滴がしたたっている。
たった今海から出てきたようだ。
波打ち際の近くにボードとセールが置いてあった。
あれに乗ると自由になれるだろうか。
「行ってみる?」
「いややめときます」
彼女は笑った。そして立ち上がった。
家に帰るという。
「近くの島なの。ここよりもっときれいなところ」
彼女は慣れた動作でボードに乗り、セールを引き上げた。
風を受けて沖に向かって進む。
その姿がぐんぐん小さくなって、水平線のあたりで点になって消えた。
「Kさーん」
誰かが私を呼んでいた。
振り向くとロケコーディネーターのN君だった。
「さっきからずっと呼んでたんですけど」
「ごめんごめん、ウィンドサーフィンの美人と話し込んじゃってさ」
「え、ホントっスか?」
「ずっとここにいた。見たでしょ?」
「気がつかなかったなあ」
N君は不思議そうである。
「時々こっち見てたんですけど。全然気がつかなかったなあ」
私はふと気になって聞いてみた。
「あの水平線の向こうにさ、島とかある?」
N君はこの島の人である。
「あっちスか?」
水平線を見てちょっと考えていたが、
「台湾スかね。でも300km以上あるかなあ」
と言った。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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川野康之 2023年4月9日「父さんの嘘」

父さんの嘘

    ストーリー 川野康之
       出演 遠藤守哉

父さんが病院にいて僕たちに会いたいと言っている。
その知らせは唐突にやってきた。
何年も会っていないので、病気だとは知らなかった。
とりあえずその日の仕事はぜんぶキャンセルして
いちばん早い飛行機に乗った。
東京に着いた時は夜だった。
タクシーに乗って病院に向かった。
病室に入ると、ベッドの側に姉がぽつんと座っていた。
父さんは眠っていた。
点滴やら電極やらいろんなものでつながれていた。
ベッドの横に置かれたモニターがピッピッと音を立てている。
僕は姉の隣に座った。
父さんと姉と僕は、この世に3人きりの家族である。

「わたし嘘ではないかと思った。」
「父さんは嘘つきだったもんな。」
「昔プロ野球の選手だったとか。」
「ハリウッドで映画俳優を目指したとか。」
「『ダイハード』にちょい役で出たとか。」
「僕も思ったよ。今度も嘘じゃないかって。」

父さんが目をあけた。
「二人とも来たのか。
すまないな、突然呼んで。
先生が家族に会うなら早いほうがいいと言うので
看護師さんに頼んで呼んでもらった。
最後にお前たちに言っておきたいことがある。
今まで嘘をついていてすまなかった。
俺は地球の人間ではない。
遠い宇宙の別の星で生まれた。
この星でたった一人、地球人のふりをして生きてきたのだ。
だがもう嘘をつくのは終わりにしたい。
すっきりした。
やっと自由になれる。」

それだけ言うと父さんは目を閉じた。
「何バカなこと言ってるの。」
「父さん、しっかりして。」
だがそれ以上語ろうとはしなかった。
そのまままた眠ってしまったようだった。
その夜、大変なことになった。
ピッピッの音が急に早くなったり遅くなったりし始めた。
看護師さんがドアを開けて飛び込んできた。
酸素マスクがかぶせられ、注射と点滴が打たれ、気がつくと何人もの人が父さんのベッドを取り囲んでいた。
僕と姉はなすすべもなく、ただ黙って不規則なピッピッの音を聞いていた。

父さんは死ななかった。
看護師さんの言い方を借りると「奇跡的に持ち直した」のだった。
三日後、僕と姉は先生に呼び出されて話を聞いた。
先生はパソコンの画像を見せた。
「これを見てください。
もう手術もできない状態でした。
ところが・・・信じられない話ですが、
きれいに修復されているんです。
あり得ないことです。
人間であれば。」

「父さんはほんとに宇宙人なのかな。」
「かもね。」
「姉さん、僕、あの夜思ったんだ。
もし父さんが死んだら僕たちはこの宇宙に二人だけになるのかなって。
この広い冷たい宇宙にぽつんっと取り残されるんだって。
そう思ったらなんだか急に恐ろしくなってきたのさ。」
「宇宙人であろうと、なかろうと、同じことよ。
生きるって孤独なことなのよ。」
僕たちは病院のロビーに並んで座っていた。
あの時もそうだった。
駅の待合室で、父さんはちょっと新聞を買ってくると言った。
ベンチには姉と僕が残された。
いつまで待っても父さんは戻ってこなかった。
「何がやっと自由になれる、よ。」
と姉が言った。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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川野康之 2022年11月13日「夕焼け病院」

夕焼け病院

    ストーリー 川野康之
       出演 遠藤守哉

30年ぐらい前のことである。
僕は急性盲腸炎になった。
入院したのは工場街の中にある古い病院だった。
大人の手術台があいてなくて、子供用の手術台に乗って、麻酔を注射された。
麻酔はなかなか効かなかった。
このままメスが入ったらいやだなと思った。
もう1本注射された。
覚えていたのはそこまでだ。
気がついた時、見知らぬじいさんたちが僕をのぞき込んでいた。
目が合うと「あ、起きた」と言った。
そこは病室だった。
麻酔が効きすぎたらしい。
視界に妻と看護婦さんが現れた。
手術は無事に終わったこと、切った盲腸を見せてもらったこと、
臭かったこと、麻酔が切れたら痛むということなどを僕は聞いた。
それはつまり生きているということだ。
「よかった、よかった」
じいさんたちが笑った。
彼らは僕の相部屋の人たちだった。

言われた通り、麻酔が切れた時は痛かった。
生まれて初めて座薬を入れられた。
尿瓶がうまく使えなくて夜中に泣きながらナースコールした時は、
尿道に管を入れられた。
それでも僕は生きていた。
一日ごとに僕は回復して行った。
待望のガスも出た。
まだお腹に力を入れると痛いが、その痛みは日に日に軽くなって行く。
病の根源を切り取った以上、後は良くなる一方である。
妻に持ってきてもらった宮本武蔵を読む余裕も出てきた。
隣のベッドの重田さんが病室の外に運ばれていった。
数時間後に重田さんは戻ってきた。
ぐったりとして顔色が青ざめていた。
まるで血が通っていないみたいだった。
こんな時はそっとしておくのが無言のルールだった。
この病室はガンの患者のための部屋だった。
なぜ盲腸の僕がここにいるのか。他に部屋があいてなかったからである。
手術台と同じだ。
窓際のベッドの島袋さんは、いつも僕らに背を向けて窓の外を見ていた。
島袋さんは誰ともあまり話をしない。誰かがお見舞いに来ることもなかった。
小針さんは最年長で、頭に髪の毛が一本もない。
冗談が好きでいつも人を笑わせていた。
奥さんが来た時だけなぜか無口になった。
重田さんのあの治療は一日おきに行われた。
戻ってくるたび顔色はさらに青くなり、衰弱していくようだった。
それぞれが自分の病気と静かにたたかっていた。
自分一人だけが毎日良くなっていく。それが申しわけないような気がした。
ある日の夕方、窓から見える工場の屋根に赤い日が反射していた。
「屋上行こうぜ」
小針さんが言った。
僕は喜んでついていくことにした。
珍しく島袋さんが一緒に来た。
エレベーターに乗って屋上に上がった。
並んだ洗濯物の白いシーツが夕日を受けてピンクに染まっていた。
西の空の雲の中に日が落ちようとしていた。
「やあ、夕日だ、夕日だ」
と小針さんがうれしそうに言った。
「夕日だ、夕日だ」
と僕もうれしそうに言った。
「久米島の夕日はもっときれいなんだがな」
と島袋さんがつぶやいた。
島袋さんの故郷は久米島であることを知った。
川崎に来て工場で働き始めてからもう何年も帰ってないそうだ。
故郷を遠く離れて病気になった島袋さんの気持ちを思った。
久米島の夕日、見たいだろうなあ。
「見ればいいよ」
と小針さんが言った。
「見ればいいよ。元気になって久米島に帰ってさ」
西の空の雲が次第に赤く染まりだした。
一秒ごとに色が深くなり、空が赤く燃え始めた。
僕らは黙って見とれていた。
世界の片隅の工場街のこんな古いきたない病院の屋上で
パジャマ姿の3人が夕焼けを見ていた。
生きているんだ。
そう叫びたい気分だった。
その時、後ろでドアが開く音がした。
重田さんが出てきた。看護婦さんに支えられて。
よろよろとした足取りでゆっくりと歩く。
たちどまって、空を眺めた。
重田さんの青い顔が夕焼けで赤く染まった。
血が駆け巡っているみたいだった。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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川野康之 2022年4月24日「『肉の長谷川』のコロッケパン」

『肉の長谷川』のコロッケパン

ストーリー 川野康之
   出演 阿部祥子

私の家は肉屋だった。
駅から社宅の並ぶ団地へと向かう道の途中に
『肉の長谷川』の看板はあった。
地味な場所だが、夕方には仕事帰りの人がぞろぞろと店の前を通る。
その時間を狙って父と母はコロッケを揚げた。
立ちのぼるコロッケの匂いに誘われてお客が入ってくると
すかさずカレー用の肉や、
給料日の頃だったらすき焼きの肉を売り込むのである。
夕方は稼ぎ時なので、私と弟はいつも二人きりで夕食を食べていた。
おかずは売れ残りのコロッケである。
私は毎日コロッケでもとくに不満はなかったが、
弟はたまに父と母には聞こえないように
「またコロッケかよ」とつぶやくことがあった。
家にはまだテレビがなかった。
食べ終わると二人はそれぞれ読みかけの本や漫画に戻った。
今からは想像もつかないが、
その頃の私は病弱で、時々熱を出して学校を休んでいた。
学校を休んだ日には、岡本くんがプリントと給食のパンを届けてくれる。
それを私は楽しみにしていた。
岡本くんが帰った後、
家の中には岡本くんが運んできた外の匂いとパンが残った。

グリム童話に出てくるヘンゼルとグレーテルのきょうだいは、
遠い森に連れて行かれる時、
ポケットの中に入れたパンをすこしずつちぎっては道に落として歩いた。
それは家に帰るための道しるべだったのだけど、
ぜんぶ小鳥たちに食べられてしまい、ヘンゼルたちは帰れなくなるのだ。
この話は怖いけど、なぜか私をわくわくさせるお気に入りの話だった。
いつかは私も、父や母に隠れてポケットにパンを入れて
遠くへ出かけるだろう。
その時いっしょに行くのは、弟よ、お前ではない。岡本くんだ。
その日が来るのを私は心の中で待ち望んでいた。

岡本くんのパンは父がぜんぶ食べた。
パンにコロッケをはさんで、
ビールを飲みながら食べているのを見た時には、
少し残念な気持ちがした。
毎日は何事もなく過ぎていった。
私と弟はコロッケを食べ続け、私は頑丈な娘に育った。
学校を休むことはめったになくなり、
岡本くんがパンを持ってきてくれることもなくなった。
『肉の長谷川』の棚にコロッケパンが並ぶようになったのは
いつ頃からだっただろうか。
たぶん家にテレビが来たのと同じ頃だったと思う。



出演者情報:阿部祥子  連絡先ヘリンボーン https://www.herringbone.co.jp/

録音:字引康太

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