「盆踊り」
仮面神で知られる南の島を訪れたのは
もう20年以上も前の夏のことである。
有名な仮面神が登場するお祭りの日には、
人口100人にも満たないその島に多くの人が訪れ、
島が何倍にも膨れ上がると聞いていた。
私が訪れたのはそのお祭りが行われる数日前だった。
前日夜中に都会の港を出航し、
太陽が真上にくるころ島に着いた船を降りた観光客は私ひとりであった。
港で船を待ち受けていた人々は、船から大量の荷物を下ろした。
食料や日用品は週に二便しかやってないこの船でしか届かないのだという。
地元の子供がひとり船に乗り込み、ソフトクリームを片手にすぐ降りてきた。
島にも小さな売店はあるが、ソフトクリームは船の売店でしか買えないのだ。
ものの10分ほどで船は次の島に向けて出航した。
港の作業をしていた人々は荷物を車に乗せて去っていった。
静寂。
そこに宿の方がやってきて、
名前も聞かずに私を軽バンに乗せて島の中心部の宿へ連れて行った。
観光といっても特別に見たい何かがあったわけではなかった。
特別な島の特別でない時にただ滞在してみたかっただけだった。
私を迎えにきた軽バンは自由に使って良いよということだったので
島の道へ出た。
水平線。
青空。
牧場。
港で船の世話をしていた人が今度は牛の世話をしているのが遠くに見える。
ときどき車を止めながら、外周の道路を20分ほどで周った。
中の細い道や気になる枝道も回る。
慣れないマニュアル車に何度もエンストした。
日がまだ高いうちに宿に戻ると、
新鮮な魚がついた普通の家庭の夕食が待っていた。
役場や学校で働く以外の大人は、牧畜か漁師かをしているのだという。
宿の主人は漁師であった。
釣った魚は島に持ち帰るのではなく、
海の上で都会の港から来た漁船に売ってしまうらしい。
サワラの刺身にサワラの塩焼きを食べていると、
今日は盆踊りだから小学校のグラウンドに行ってみるといいよ、と言う。
数日続く盆踊りの最終日には仮面神が登場するが
今日は初日で踊りのみとのこと。
地元の伝統行事に他所から踏み込むことに些かの迷いはあったが、
お誘いを受けたので行ってみることにした。
日が沈むころ、たくさんの島民が高台にある小学校に集まってきた。
グラウンドには櫓はなかった。提灯もなかった。出店もない。
集まってきた人々は妙な熱気はあるがはしゃぐ様子はない。
私の知っている盆踊りとはずいぶんと違うらしい。
とっぷりと暗くなった空間に篝火だけが焚かれた。
男たちだけがグラウンドの中央に集まり、円を描いてゆっくりと歩き始めた。
そして先頭のひとりが鉦を静かに鳴らし始めた。
りーん。
りーん。
りーん。
夏の空気の中に、冷たい風が通り過ぎる。
グラウンドの端のフェンスにもたれていた私の中を何かが通り抜けた。
りーん。
りーん。
りーん。
男たちの輪はゆっくりと回転している。物静かな踊りが始まる。
誰かを手招きしているような、先導しているような、踊り。
りーん。
りーん。
りーん。
皆じっとだまって男たちの踊りの輪を見つめている。
昼間港で見た顔、牧場で見た顔。
篝火の陰影にまた別の顔に見える。
りーん。
りーん。
りーん。
唐突に踊りは終わり輪は消えた。
長老らしき人がひとり中央に残り、ぼそぼそと翌日以降の段取りを述べ、
その日の盆踊りは終わった。
みな黙って高台から降りていく。
薄暮に登った道を月明かりで下る。
月明かり。
虫の声。
足元がふわふわとするのは、見えないせいだけだろうか。
翌々日、私は島を離れた。
二度目の盆踊りはその晩にあり、結局私が参加したのは一晩だけであった。
だから、フェンス際で立っている時に通り抜けていった何かは
通り抜けたままである。
その後、その島は訪れていない。
もうすぐまた夏がやってくる。
日が沈んだあと暗い道を歩いていると、
今でもふと鉦の音が聞こえることがある。
出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属