中山佐知子 2019年11月24日「ポセイドンの馬」

ポセイドンの馬

    ストーリー 中山佐知子
       出演 大川泰樹

ポセイドンの馬をさがせ、という指令を
受け取った…ような気がしていた。
さがすつもりはまったくなかった。
正直、ポセイドンの馬がどんな馬か知らないし
さがす意味もわからない。

記憶にない場所にいた。居心地がよかった。
夜もなく昼もなく、太陽も月もない。
うっすらと明るく、うっすらと暗い。
暑くもないし寒くもない。腹も減らない。
あらゆるストレスから解放されていた。
まるで母の胎内のように平安な場所だった。
そして僕は自分が何者かを知らず、
思い出すたびに心が痛む記憶もなかった。

やがて想像もしなかったことが起こった。
ストレスがないことが「退屈」というストレスを生んだのだ。
僕は退屈し、退屈をもてあそび、楽しもうとしたが
とうとう飽きてしまって
ポセイドンの馬を探すことにした。

ポセイドンはギリシャ神話の海の神で、
その馬は海の馬だ。
海の馬、海の馬、海の馬……
何度も頭のなかに文字を描いた。

馬は海でもなく陸でもないところにいた。
絶えず波に洗われ、乾く暇のない浜辺だ。
見つけるのに苦労はなかったが
何頭もいることが問題だった。
どれが海の馬か、
どの馬が僕の海の馬かさっぱりわからない。
なかには大きく自信にあふれた馬が何頭もいて
僕はその馬が自分のものであればと願った。
なのに、どうしても違和感があった。

そのとき、少しくたびれた様子の馬が近づいてきた。
迷いのない足取りだった。
なんだか懐かしい目をしていた。

やめておけ、と心の声が叫んだ。
向こうに立派な馬がたくさんいるのに
なぜこの馬を選ぶのか。後悔するぞ。
しかし、すでに馬は僕の腕に首を預け
僕は馬の背を撫で、馬の体温に溺れていた。

それはあたたかかった。
それは僕のかつて流した汗や血や涙の温度だった。
それは僕の体液の温度だった。
それと同時に、かつて味わった幸福感や
叫びたくなるほど痛い思い出が流れ込んできた。
そうか、これがポセイドンの馬、海の馬、
人の脳の中で記憶をつかさどる僕の海馬だ。

僕はやがて記憶を取り戻し
どこかの病院のベッドで目覚めるのかもしれない…
と思った。

出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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佐倉康彦 2019年11月17日「機種変更」

機種変更 

   ストーリー 佐倉康彦
       出演 石橋けい

スマホを、壊してしまった。
もう少し正確に言えば、
建設途中のタワマンの仮囲い、防護壁に投げつけた。
亜鉛メッキされた厚さ数ミリの鋼板とスマホの相性は、
もちろん悪いに決まってる。
秒速5メートルほどの速さで _
鉄の壁と出会ってしまった淡いピンクのそれは、
小さくバウンドしながら _
アスファルトの上で派手に踊って、沈黙した。

その場に打ち捨てたまま、
一刻も早くその場から離れたかった。
部屋に逃げ帰りたかった。
粟立った気持ちのまま歩きかけかけたそのとき、
私の傍らを若いカップルが行き過ぎた。
ふたりとも会話もせず押し黙ったまま
スマホのディスプレイをにらみながら歩いている。
そんなふたりを見て、
その場を立ち去ることを思いとどまる。
鉄の壁とアスファルトに蹂躙されたそれには、
私の個人情報はもちろん、
実家や友人たちの連絡先、
キャッシュレス決済のための
ウォレットも保存されていた。

それにもまして
誰にも決して見せることのできない
私の画像が、
あのひとが、
このスマホで撮った
私の画像が、
ぐつぐつと蠢き息を潜めている。
このまま捨て置き、
この場を離れることは、
ぜったいにできなかった。
辺りを窺い慌てて拾い上げる。

ディスプレイのガラスパネルは、
右上から見事に放射状にひび割れていた。
その亀裂の集合は、
子供ころから忌み嫌っていた
女郎蜘蛛の巣を連想させた。
蜘蛛の糸を、恐る恐る指でなぞってみる。
不意に蜘蛛の巣に鋭い光がさす。
殺したはずの蜘蛛がピクリと動いたようで
今度は本当に意図せず、
思わずスマホを手から落とした。

沈黙したはずのそれは息を吹き返した。

壁に投げつける直前まで
あのひとと繋がっていた、
あのひとの声が漏れていた
淡いピンクのそれには、
誰にも見せることのできない画像の他に
あのひととのものが
これでもかと保存されていた。

あのひとに誘われて
はじめて行った店の料理。
あのひとのクルマの助手席におさまる私。
あのひとと一緒に行った街の風景。
その街を背景に微笑むあのひと。
あのひとの腕に絡みついて、
媚びた笑みを顔に貼り付けた私。
あのひとからの花や
不相応で不釣り合いな贈り物の数々。
あのひととの場所、時間…。
あのひとと、
あのひとの、
あのひとが、
あのひとに、
あのひとから、
あのひと…

そんな思い出すべてを、
蜘蛛の巣が張られてしまった
このスマホから、
今夜、ひとつひとつ削除しながら
あのひとに、
浸ろうか。
狂おうか。

そんなこと、できるわけもないのに。

女郎蜘蛛が棲み着いてしまった、
このスマホは、もう使わない。
だから、
トイレに水没させよう。
溺死させてあげよう。
それから、
つぎのスマホを買いに行こう。
機種変更をしよう。

あのひとを変更しよう。

淡いピンクから
漆黒の、
闇も吸い込むような _
光沢のない黒いものに変えよう。

思い出なんて、データ。

だから、
デリートなんて、しない。
バックアップなんて、しない。
復元なんて、しない。できない。
ただ、すべてを遺棄するだけ。
それで、また、
新しい私が出来上がるはず。

あのひととの思い出だけじゃなく
これまですべての思い出も、
移行しない。
引き繋がない。
そう決めた。

思い出なんて、ただの、
ただのデータ。

出演者情報:石橋けい 03-5827-0632 吉住モータース

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安藤隆 2019年11月10日「おかずパン」

おかずパン

   ストーリー 安藤隆
      出演 遠藤守哉

 太った中年男のヒグマさんは、その日、前
夜の飲みすぎで勤めを休み、多摩川べりの
「鯨いるか球場」で軟式野球を見ていた。

 昼ちかくに起きると、二日酔いの「吐き
気からくる悪い食欲」にとり憑かれてヤキソ
バパンが頭に浮かび、自転車でパン屋へ行っ
た。店内にならぶパンをみて「吐き気からく
る悪い食欲」を加速されたヒグマさんは、吐
く予感に駆られながらヤキソバパンに加えて
コロッケパン、カツパン、缶コーヒーにコー
ラ、最後にはカレーパンまで買ってダメな日
をダメ押しするようだった。その時、パン屋
近くの野球場から秋風にのって、アナウンス
の声がパン屋までとどいたのだ。

 そんなわけでネット裏の中段あたりに、
海老色のジャージーを着た太った中年男・ヒ
グマさんが座っている姿が見える。コッペパ
ンに挟んだヤキソバをこぼさぬよう下からア
グウとかぶりつく。食べるときはいつも大い
そぎのヒグマさんはアグ、アグ、アグとだい
たい三回咀嚼しただけで飲みこみながら、脂
肪で濁った目でグラウンドを眺める。きれい
なひろい空き地。いつもヒグマさんをドキド
キさせる。昔々からだ。野球場はヒグマさん
をまるごと過去へ連れてってくれる。いまだ
って目の前の野球を見ているのに、過去ので
きごとを見ているようだし、きっとほんとに
過去を見ているのだ。ほかの誰もとおなじよ
うにヒグマさんは思い出でできている。

 そろって腹のでた丸顔の中年男たちと、
おむつの小便の臭う恐い目をした老人たち全
部で十五人ほどの観客が、沈痛な面持ちで午
前の終りの光のそそぐグラウンドを眺めてい
る。新聞社の小さい旗が野球場をまばらに一
周している。ゲームは大学の軟式野球の秋季
大会のようで穏やかに進行する。片方の投手
は杉浦投手で美しい下手投げで投げる。ヒグ
マさんはヤキソバパンとカツパンを食べたあ
と、つぎカレーパンかコロッケパンか迷う。
あきらかにやってきそうな吐き気を待ってい
るのでもある。

 さっきミニスカートの娘が入りこんで野
球場に緊張が生じている。しかも娘はヒグマ
さんのすぐ斜め後の段に坐ったのだった。ネ
ット裏の下段に群がって陣どる中年男と老人
が代わる代わる振り向いて娘の足を覗きあげ
る。光がしだいに高く強くなっている。「鯨
いるか公園」のケヤキの色づいた葉が陽を受
けて金色に輝く。ヒグマさんは苦しげに汗ば
む。スタンドのまわりの柳が屈したように垂
れている。閉じこめられた箱庭のような軟式
野球。あかるくて完全無欠な秋の正午。午後
からはきっと冬に入るのだ。

 ヒグマさんはカレーパンにするかコロッ
ケパンにするか、永遠に出ない答に吸いつけ
られたままだ。視界が狭くかつ遠くなる感じ
に襲われて、あやうく顔をあげ世界を見まわ
す。その太った顔を見たミニスカートの娘が
アッと小さな悲鳴をあげる。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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川野康之 2019年11月4日「東口商店街の思い出」

東口商店街の思い出              

       ストーリー 川野康之
          出演 地曳豪

東口を出て踏切を渡ると商店街である。
駅の反対口にスーパーがあるが、家へ帰るのに遠回りになるので、
ちょっとした買い物はここですますことが多い。
食パンとか靴ひもとかオロナインとか、まあちょっとしたものである。
商店街と言っても、50メートルも歩けば店舗はまばらになり、
ありふれた住宅街の景色に紛れていく。
昔は銭湯や煙草屋、洋服屋とか、
もっといろんな店があったような気がするが、
いつの間にか店の数は減ってしまった。
そう言えば本屋もレコード屋もなくなってしまった。
また1軒、店が姿を消したようだ。
歯が抜けたように新しい更地ができていた。
左隣は金物屋、右隣にはクリーニング屋。
間口の広さは両隣と変わらないけれど、
ぽっかりと空いた空間が妙に広く見える。

貴子は足をとめた。
「ここ、何の店だったっけ」
しばらく立ち止まって考えたが、思い出せない。
すぐに思い出しそうなのに、どうしても出てこない。
歩いている人がみなよそよそしい顔をして通り過ぎていく。
何だっけ、何だっけと、貴子は自問しながら歩いた。
結局家に着くまで思い出せなかった。

この町に来てから30年になる。
東口商店街は毎日歩いたものである。
駅向こうにスーパーができるまでは何でもここで買っていた。
夫の浩一と駅で待ち合わせて一緒に夕飯の買い物をしながら帰った。
給料日には酒屋に寄ってワインを一本買った。
安売りのチラシを手に、
幼い和也の手を引いてあの店この店と見て回った。
和也の初めての自転車を買ったのもここだ。
思い出のつまった商店街。
わたしが生きていた場所。
知らない店などあるものか。
それなのに思い出せないのである。
金物屋とクリーニング屋の間にあったはずの店。

薄暗くなった台所で、貴子は明かりもつけずに座っていた。
テーブルの上には買い物かごが置いたままだ。
もうすぐ和也が予備校から帰ってくるはずだ。
そしたら和也に聞いてみよう。
しかし今日に限ってなかなか和也は帰ってこなかった。
夫の浩一の方が先かもしれない。
浩一はいつものように冷蔵庫を開けながら、
当たり前のように教えてくれるだろう。

12時を回っても浩一は帰ってこなかった。
貴子は不安になった。
目を閉じると昼間見た更地の風景が浮かんでくる。
胸の中にぽっかりと穴が空いて、だんだん広がってくるようだ。
その穴に貴子も東口商店街もこの町もみんな飲み込まれていくようだ。
浩一と和也はこのまま帰ってこないかもしれない。
テーブルの上には空っぽの買い物かごが置いてあった。
冷蔵庫の中にビールは1本も入っていない。
貴子は思った。
もしかしたら、
浩一も和也もはじめからいなかったんじゃないだろうか。
わたしはこの町で生きてなんかいなかったんじゃないだろうか。
そんな気がしてきたのである。



出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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