ある助監督
ストーリー 直川隆久
出演 遠藤守哉
冬の日。
大岩和道は、通い慣れた本屋の映画関連書コーナーで、真新しい「シネマ芸
術」増刊号を手にとる。表紙にはタバコをくわえた精悍な男の顔と、「野口征太
郎・没後10年記念特集」の文字。
校了前にゲラを送ると編集者は言っていたが、そういえば連絡がなかったこ
とを大岩は思い出す。
口絵部分に、大岩が提供した写真が使用されている。大岩が初めて野口の現
場に助監督としてついた作品、そのクランクアップ時の記念写真だった。画面中央、
髭面の野口がディレクターズチェアに身を沈めている。端っこに、ぎこちなくたたず
む若い大岩の姿があった。髪は、まだ豊かで黒い。
ページを手繰り、自分のインタビュー記事を探す。だが、数日かけておこなわれ
たその内容は随分と簡略化され、1ページにまとめられていた。そのかわり、野口
の遺作の主演女優のインタビューが8ページにわたり掲載されている。大岩が編集
者に語った「いまだ評論家が指摘しない野口作品に通底するテーマ」が、寸分たが
わずその女優の言葉として収録されていた。
大岩は、並んでいるだけの「シネマ芸術」を買い込み、本屋を後にした。冷たい風
にさらされた手は、紙袋の重みで、なお痺れた。
大岩は助監督として、野口征太郎のキャリア後期の代表作をささえ続けた。撮影
の段取り、気難しい俳優のケア、撮影部・照明部・美術部との折衝…そのすべて。野
口が好んだ無許可のゲリラ撮影のあと、警察にしょっぴかれるのはいつも大岩の役
目だった。ブタ箱を喰らいこんだ翌日撮影現場に戻っても、野口からは一度も労い
の言葉はなかった。「そういうものだ」と大岩も思っていた。
仕事は、映画の現場に止まらなかった。ある時期は、野口の愛人を車で迎えにい
くのが、大岩の役目だった。撮影用の車両を一台借り出し、渋谷のマンション前で女
を拾い、野口が投宿している新宿のホテルまで運ぶ。「なんでもするのねえ、助監督
さんって」窓の外を見ながら女がつぶやいたことを、大岩は今でも思い出す。
大岩が野口のもとでの5度目の現場を終えた年、野口が肺ガンの診断を受けた。
ソメイヨシノの花びらが風に舞う時季、野口は身を隠すように療養生活に入った。そ
のときも世話を名乗り出たのは大岩だった。病状は急速に進んだ。大岩は病院に泊
まりこみ、介護を行った。監督にはご家族がいませんから、と、撮影所の人間が見舞
いに訪れるたび大岩は繰り返した。床ずれができないように野口の体をさすり、排便
の処理をした。まるで、ほかの誰かに触らせまいとするかのように。
夏の終わり、最後の作品の公開を待たず、野口は息をひきとった。
葬儀の日は、折しも接近する台風のせいで雨であった。大岩は傘もささず、葬儀会場
入り口から動こうとしなかった。次々に乗り付けるハイヤーから姿を現す大物俳優に、
報道陣が群がる。それをよそに、大岩は弔問客に頭を下げ続けた。
ほどなくして、撮影所は人員整理を行い、大岩は現場から総務セクションへと異動
になったのだった。
※ ※ ※
大岩は、撮影所に戻り、デスクに雑誌の入った紙袋をどさりと置く。
「大岩」
背後で声がした。同期の島田だった。
「話しておきたいことが、あって」
「なに。役員じきじきに」と笑いながら大岩は、隣のデスクの椅子を勧めた。
「野口監督の没後10年てことで、ちょいとした企画があってね。野口監督の伝記映画
を撮ろうっていう…公開先は劇場じゃなくて、衛星テレビなんだけど」
「ふうん」
「で、それの監督を…誰にやってもらおうか、という話になって」
大岩は、島田のほうを見ず、タバコをくわえた。火がうまくつかない。
「おれは、君を推したんだ。君は監督作こそないけれど、なんといっても、野口監督をい
ちばん知ってるのは君だし…」
島田は、次の言葉が固形物でもあるかのように口をもぐもぐとさせてから、ようやくそ
れを吐き出した。「でも、取締役連中は、森山に、やらせたほうが…と…」
「だれって?」大岩ははじめて島田の目を覗き込んだ。
「…森山。森山順」
「ああ。森山くん」
と大岩は大きくうなずき、まばらになった髪をかきあげた。頼りなげな感触が指を伝う。
「適任だ。去年のホラーものは30億いったんだろ?構成力も確かで…なにより若い」
「いやあ、おれは反対だ。彼は経験が少ないし」
と言う島田の顔に安堵の色が広がるのを大岩は見逃さなかった。
「森山くんが、適任だ」
大岩はそう言って、椅子を回しパソコンに向かった。
「すまない」と頭を下げる島田に大岩が「こちらこそすまなかったな」と付け加えた。
「失笑買ったろう。助監督経験しかない、おれの名前なぞだして」
一瞬の間の後、そんなことはないさ、と言いながら島田は席を立った。
大岩の脳裏に、ある夏の日の光景が浮かんだ。野口のガンが発見されるよりも何
年も前のことだ。冷房の壊れた会議室で大汗をかきながらロケハン資料を整理し
ているところへ、野口がいきなりドアを開けた。
「こんどやる原作ものの監督を、さがしてるらしい。やらんか」
そういいながら、刷りたての台本を投げてよこした。
大岩は、あやうく落としそうになりながらそれを受け取る。
「監督…ですか」
「うん」
「…公開はいつですか」
「…?」野口は意外だという表情を見せ「スケジュールによって変わるのか?返事が」
「今準備してるシャシンと、ぶつからないかなと思いまして」
「正月」
「来年の?」
「ああ」
「それじゃあ…」
大岩は一呼吸おいて続ける。
「完全に、重なるじゃないですか」
「だから?」
「監督の現場は…だれが助監やるんですか」
その質問に野口はこたえず
「おまえ何歳になった」
と訊いた。
「34です」
「やれるときにやっておけよ監督は」
「…」
何秒かの沈黙ののち、大岩が口を開く。
「いえ、俺…まだ演出のほう力不足なんで…監督の現場でもうすこし勉強させ
てください」
「やりたくないのか」と野口がさらに訊いた。
大岩は驚いた。野口が、ここまで大岩と言葉のやりとりを重ねることは珍し
かったからだ。
「そんな。やりたくないなんてことは…」
「こわいのか」
図星ではあった。ただ、大岩が恐れたのは、「野口監督の優秀な右腕」とい
う自分の地位を失うことだった。さらにいうなら、ほかの誰かがその地位に滑り
こんでくることだった。
「…」
野口はやや脱力したように、そうか、とだけ言って踵を返し部屋を出た。それ
以来、この映画の話題が二人の間にのぼることはなかった。
後年、大岩に監督をさせようと発案したのはほかならぬ野口であり、プロデュ
ーサーを強引に説き伏せた上で台本を持ってきたことを、大岩は知った。
※ ※ ※
大岩は、積み上がった「シネマ芸術」の一冊を手にとり、デスクの上に広げると、
野口の顔のアップが載った表紙以外、すべてのページをカッターで切り裂いていっ
た。一冊、また一冊。ゆっくりとその作業は続き、2時間ほどたったころ、大岩のデス
クの上には、紙片のうず高い山ができた。
感情の炎が大岩を焼いていた。
島田が監督候補として自分の名をあげるのではと一瞬期待したことへの羞恥。
森山への嫉妬。そして何より、定年を間近に控えたこの年になって、いまだこのよう
な自意識を捨てきれぬ情けなさ。
大岩は考えた。
映画人なら、こんなときには映画から答えを導くべきだ。映画の登場人物、あるいは
映画作者−−−本当に映画を愛しているなら、ほかならぬその映画が、大岩を答えへ
と導いてくれるはずだ。そう思い、大岩はこれまでの人生で見てきた膨大な映画達
を、次々と頭の中で再生してみた。だが、野口と現場を共にした映画達以外は、どれ
も、大岩の心を素通りした。なんらの切迫感ももたらさない、スクリーンの表面を漂う
光の明滅だった。
結局、確認したにすぎなかった。大岩が愛していたのは、映画などではなく、野口
いう男だけだったことを。
すると…なぜか、笑いめいたものが大岩の顔の表面を伝った。
灰皿の向こうからこちらを見る野口と、目が合った。
大岩は、携帯で島田の番号を表示した。
−−−−さっきの映画の助監、もう決まってるのか。
口の中でこれから言う言葉を反芻し、携帯の発信ボタンを押した。
(終)
出演者情報:遠藤守哉 青二プロダクション http://www.aoni.co.jp/