中山佐知子 2020年9月27日「水月」

水月

   ストーリー 中山佐知子
      出演 地曵豪

その夏借りた下宿は川の土手に面した二階の部屋で
東の窓から月が昇るのが見えた。
土手の向こうを流れる川はゆらゆらと月を映していた。
僕は夜になると明かりを消して窓を開け、
川風に涼みながら空の月と川の月を眺めた。

あんまり月を見ると、と下宿のおばさんが心配をする。
狐に化かされますよ。

この土地には狐の伝説が多い。
子供がとんでもない山奥に連れて行かれたとか、
同じ道をぐるぐるまわって帰れなくなったとか。
昔は山がもっと間近にあって、ここは村というより小さな山里だった。
そんなころに狐を殺した人がいて、
村はずれから自分の家まで、その狐をひきずって持ち帰った。
するとその晩、火事が起きて
狐をひきずって通った道筋の家がぜんぶ燃えてしまった。
それ以来、狐を殺す人がいなくなったという。

「いまはもう狐もたまに人を化かすくらいで
 たいして悪さはしませんから」
おばさんは狐の友だちのようなことを言う。
おばさんの爺ちゃんが若かったころ、
月がふたつ見えたと言って騒いだ人がいた。
いまなら火球とか、科学的な説明ができそうだが
そのときは狐のいたずらということで
みんなで大笑いしてお稲荷さんに酒をお供えしたそうだ。

そんな話を聞いてから、
僕の月を見る目には一抹の疑いが宿るようになった。
まさかとは思うけど、これは本物の月なのだろうか?
空に浮かぶ月は本物だとしても、川の月はどうなのだろう。
いや、もともと水に映る月は本物ではない。
本物ではないが、偽物ともいえない。
田圃の一枚一枚に映る月、池に映る月、海の月。
ひと粒の水滴だって月を宿すことがある。
月を宿した水は月でもあり水でもあり、
そして月でもなく水でもない…

水に映る月には水月という名前がついている。
そして水月は禅の教えであり、剣道の極意でもある。
悟りや高度な技の習得は
たぶん日常から離脱する精神のジャンプ力を必要とする。
それにはもしかしたら、狐…
いや、狐に象徴される超自然のパワーを借りるのかもしれない。

そんなことを思いながら、あの夏は月を見た。



出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

Tagged: , , ,   |  コメントを書く ページトップへ

直川隆久 2020年9月20日「蛙と月」

蛙と月

         ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

真夜中、深い穴の底の水面に白い光が忽然と現れ、
蛙はまぶしげに眼をほそめる。
取り囲む岩壁に前足をつき、一年前にしたのと同じように見上げる。
はるか頭上、もうひとつの光があった。
北回帰線上にあるこの地では、年に一度、満月が天頂で南中する。
その夜にだけは、垂直上方からの光が穴の底部にまで届くのだ。

記憶の限り、蛙は生まれてよりずっと、
この細長い穴の底、溜水のほとりに棲んでいる。
よどんだ水に潜れば虫の卵やら藻やら、食うものには事欠かない。

以前には、一匹の仲間がいた。
一年前、頭上にあの光があらわれた夜、仲間は、
ああ、ああ、と嘆息を重ねた末に、もう耐えきれぬ、と声を漏らした。
――見たか、あの光を。
――ああ。
――ああ?あれを見てなにも感じないのか。ここまで来いと誘うあの光を見て。
ここにあるのと同じだろう、なにが違う、と蛙は水面の光をさしていう。
仲間の蛙はかぶりを振り、おまえはわかっていない、と言った。
――これは、幻にすぎない。
――幻?
――おれは外にでる。導きの光に従って。
蛙には、相手の言葉の意味は皆目わからなかった。
ただ、そうか、とだけ言い、岩をよじのぼる仲間を見送った。
夜を徹して遂行された慎重な登攀のすえ、仲間は穴の淵にたどりついた。
いよいよ外へでようというとき、舞い降りた一羽の黒い鳥が、
仲間をかぎ爪で捕らえた。
鉤爪に握りつぶされた仲間の腸の内容物が降り落ち、
水面の丸い光が小刻みに揺れ、じきに元に戻った。
蛙は、1年前のその夜のことを思い出しながら、目の前の水をぺろりと舐めた。

日が過ぎた。
穴の底の空気の温度も、徐々に高まっていく。
蛙はある日水に潜り、おや、と思った。足がやけに頻繁に底の砂に触れる。
水が浅くなっているのだ。
そういえば、以前なら毎夕のように頭上から降り注いだ雨がここしばらくなく、
岩壁に生える苔も、徐々に生気を失っている。
今までなかったことだ。
空気が乾き、蛙は、ひりつく表皮を冷まそうと頻繁に水の中で過ごすようになったが、かつては縦横に泳ぎ回れるほどに豊かだった水が、
今は、蛙の鼻先あたりをようやく隠すほどの深さしかない。
じりじりと皮膚が乾いていく感触に意識をむけず、
ひたすら眼を瞑(つむ)り、時が過ぎゆくのを待った。

どれだけの日夜が繰り返されたろうか。
体が届く範囲の苔も虫の卵もとうに食いつくしていた。
食い物を求めるなら、動かねばならない。だが、動けば、消耗する。
動けぬまま、さらに、幾十という昼と夜が過ぎた。
雨への期待が裏切られた数を数えることにも、もはや蛙は倦み疲れてしまった。

ある夜、森の鳥たちの声を遠くに聞きながら、
蛙は、年に一度だけ現れるあの丸い光を思い出していた。
この穴の底には存在しえない完璧な輪郭をもった光。
どんな鳥も、虫も、あの光の向こう側を飛んだのを見たことがないほどの、
遠く、遠く、からの光。けして触れることのできない、
手をかざしても温度を感じない、冷たい光。

記憶の中のその光を、蛙は初めて「美しい」と思った。
それはただ遠いだけでなく、「美しい」ものだった。
その感慨は、蛙をある洞察に導いた。
鳥に食われた「仲間」にとって、あの光をめざすことは、
重力に逆らう方向へと身を動かすこと以上の意味があったのだ。
外にしかないものが、ある。
外にでれば、あの美しい光はひょっとすると、年に1度だけでなく、
もっと頻繁に下界を照らしているのかもしれない。
いや、ひょっとすると、あの光以上に美しいものが、
外にはあるのかもしれなかった。そのことに、蛙は初めて思い至った。

不意に、蛙は、今まで感じたことのない恐怖を覚えた。
自分はこの穴の底以外の場所を知らぬままに死ぬ。
この世界の何も。知らない。ままに。
その事実が、圧倒的な重みをもって蛙の意識にのしかかってきた。

蛙は、岩壁にとりつこうとした。
しかしもはや前足は萎え切っており、自分の体をもちあげることは叶わない。
蛙は、観念した。
そして、乾いた砂の上に、身を横たえた。

また幾日か過ぎた。
蛙の表皮はすっかり水分を失い、
身動きすればぱりぱりと音をたてて剥落しそうであった。
混濁した意識の中で、蛙は、音を聞いた。
ぶぶ、ぶぶ。という断続的な空気の振動が蛙の顔をなぜる。
蠅だ。蠅が、蛙の頭上をさきほどから旋回している。
蛙が死んだら、その肉に卵をうみつけてやろうと、
機会をうかがっているのだろう。

思えば、つまらぬ一生であった。
穴の底で、食い、排泄しただけの一生。
そこに思いが至らぬうちに死んでいれば、むしろよかったのかもしれない。
蛙は、自分を余計な洞察へと導いたあの光を、呪った。

だが、と蛙は思った。
たとえば、自分の肉を、他の命に与えれば。
今、頭上を物欲しげな顔で旋回する蠅に、自らを提供すれば、
蛙の命は、別の形で受け継がれていくともいえる。
蠅の命と同化して、蛙は、この穴の外へと飛び出、
世界を見ることができるのかもしれない。

それも、よい。

そう思い、蛙は、瞑目した。
ぐったりと体の力が抜けた。
その様子を隔たった空間から見ていた蠅が、蛙の体にむけて降下する。

と、そのとき、蛙の身がばねのように跳ね上がり、蠅をぱくりと口で捕らえた。
ぐび、と喉の筋肉が動き、蠅は、断末魔の羽音をたてる暇もなく
胃袋の中へひきずりこまれる。
蛙の内臓はそれ自体が一個の生き物のように、消化液を噴き出しながら
蠅の体をしめあげ、粉砕する。
溶かされた蠅が、蛙の肉体にゆっくりとしみこんでいく。

ああ、勝手に体が生きたがっている。
蛙はうずくまり、荒い息をしながら、自嘲の笑いを漏らす。
かすかな命が、蛙の中でともる。
だが、いつまでその火がもつものか、蛙には見当がつかなかった。
ただ、このまま時をすごせば、いずれ消える火であることは確かであった。
蛙は、頭上を見た。
頭上にあいた穴が、青い空を切り取っていた。

蛙は、意を決して、弱々しく前足を持ち上げる。
ひからびた水かきが、乾いた岩壁を掴もうと震え、さまよう。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

Tagged: , , ,   |  2 Comments ページトップへ

一倉宏 2020年9月13日「月と恐竜」

月と恐竜

ストーリー 一倉宏
出演 西尾まり 

すっかり忘れていたんだ
青い空に 白い月が浮かぶ
そんな日が あることも
ああ そうだった 
小学校の 校庭の鉄棒で
はじめて 逆上がりができた日の
あの放課後の あの空にも

こんな日々だから
よく散歩をする 近頃は
ほんとに 忘れてしまっていたんだ
青い空に 白い月 
そして 鳥たちが 飛び交いながら 
小言をいう 地上の人間たちに 
そんな夕暮れが あることも

あの鳥たちは 恐竜の子孫 なんだぜ
文句も言いたくなるだろう
そうだよな 
僕ら人間どもよりも ずっと
息ながく 巧みに やりくりしながら
この地上を 生きながらえたものとして

小学生だった僕らは まだ知らなかった
恐竜たちが絶滅したのは
恐竜たちのせいではない
彼らが デカすぎて ノロマすぎて
アタマが弱かったから 
ではないってことも

この日々は いろいろなことを
気付かせてくれるだろう きっと

散歩は 気持ちいい
という 当たり前のことも 
それはなぜ と 考えることも

善福寺川沿いの 遊歩道を歩いて
大宮夕日が丘広場へ
それから 武蔵野の自然林を残した
小さな山を越えて 済美山(せいびやま)運動場へ
渡るには 水道道路を越える

世田谷から杉並まで 一直線に
延びている 遠近法は
ある意味で 美しく 
けれど 人工的過ぎて
不安になる

その時
いま流行りの 大型SUVが
疾走してきたんだ 
550馬力の エンジン音を吹き鳴らし
地層から汲んだ 液体の化石を燃やしながら
通り過ぎた その横断歩道には

立ちすくんでいる 怯えながら 
120センチくらいの か細い手足の
オレンジ色の服を着た 小さな歩行者が

夕暮れの空に 飛び立てず
震えている 小鳥のように

ごめんね バカだね 人間て
なに 考えてるんだろうね
わかったような 顔をして

地球も 月も 宇宙に浮かぶ
星のひとつだと知ったのは
つい 数百年前のことで

恐竜たちが 逃げ遅れた 
マヌケな オオトカゲではない
ことを知ったのは ほんとうに 
最近のことで

僕は なんだか 
とても情けなく 
とても申し訳ないような 
気持ちになって

引き返しはじめた 帰り道の
その光は すでに 色を変えつつあり

なま暖かい 海水のようなものが
頬をつたうのを ぬぐいながら
握りしめた拳の やり場もなく

ふと立ち止まり 振り返ったとき
僕は見たのだ

夕空に傾く 大きな月と

銀色の羽毛に 魔法の光を浴びて
燃えるような オレンジ色に輝きながら
翼竜 プテラノドンが
西の空へと 
飛び去ってゆくのを

出演者情報:西尾まり 03-5423-5904 シスカンパニー

Tagged: , , ,   |  1 Comment ページトップへ

安藤隆 2020年9月6日「月とコロナ」

月のコロナ

   ストーリー 安藤隆
     出演 大川泰樹

 新型コロナでまっすぐ帰る口実ができてよ
かった。太る男は会社帰り、そう思った。電
車は混んでいた。みんなまっすぐ帰れてうれ
しいんだとなんとなく感じる。
 地元駅の改札を出る。商店街もない線路沿
いにコンビニがある。弁当を買おうと向かっ
たら隣の食堂の立て看板が目についた。こと
しの年明けにいっぺん入ったことがある店だ。
うすら寒くだだっ広かった。事務所みたいだ
った。その店に寄る気になったのは、そのと
きのがら空きの印象が強かったせいだ。コロ
ナの心配がなさそうだった。
 名前はパナマ食堂。そうだった。パナマ料
理? と思ったら焼き魚とかカキフライの店
だった。聞いてみると四十代くらいの店主が
ブラジルへ行ったことがあると言った。パナ
マの答えになってないと思ったけどべつによ
い。料理はどちらかといえばうまくなかった。
それも入る気になった理由だ。太る男は清潔
で料理がふつうの店を信用する。
 扉をあけると思いがけずうるさい笑い声。
左隅の四人席からだった。コロナ対策のカー
テンの衝立がしてあった。家族らしい。この
ままきびすを返すべきと思ったが太る男は入
った。二人席には中年と不美人な女のアベッ
クがいてこちらもすこぶる笑ったりしている。
家族に対抗しているのだろうか。太る男は調
理場前のちいさいカウンターへ向かった。主
人のほかに女店員がきょうはいてカウンター
へ座らせたい気配をみせたから。三つの真ん
なかの椅子にバッテンを書いた紙が置いてあ
る。奥の椅子で日本酒を飲んでいた男が嫌な
目つきをした。座って後ろを見たら、もうひ
とつあるついたての陰の四人席が空いていた。
そっちへ移ろうと思ったが太る男は動かなか
った。四人席にズルして移るなよと目つきの
嫌な男が監視している気がした。
 太る男は鯖の味噌煮定食を注文した。飲む
気はなかったが、お飲み物はと店の女に言わ
れてビールを頼んだ。カウンターに座るなら
酒飲めよと目つきの嫌な男が観察している気
がした。
「このオヤジさあ、ま〜だ飲む気だよ」「お
い、ケーキはごはん食べてからだろ」おばさ
んの声が傍若無人におおきい。太る男は一度
外したマスクをした。四人席に四人以上いる
のはまちがいない。目つきの嫌な男が「マス
クはむだだよ」と主人に喋っていた。「ほん
とは何十万人いるかわかんねえよ」「そうな
んですかね」と主人が答えていた。「だった
ら外しちゃお」太る男が唐突に会話に入った。
目つきの嫌な男はちょっとびっくりしたよう
だった。
 そこへ料理がきた。ここは鯖の味噌煮がい
ちばんうめえ、と目つきの嫌な男がぼそっと
言っていた。ビールどうします? 店の女に
きかれてビールはいいやと太る男は妙に明る
く答えた。日本酒にするかな。
「おんなじ医者が毎日おんなじこと言いに出
てきやがって」「いいアルバイトですよね」
目つきの嫌な男は主人とコロナの話をしてい
た。太る男もときどきそこへ入った。「話し
てもうつらないけど、笑うとうつるっていう
ね」そう言うと目つきの嫌な男がはじめて太
る男を見た。二人ともあわてて目線をはずし
た。家族は変わらず大声で話している。おば
さんは二人いたんだ。「先生にもう一本、常
温で」と主人が言っていた。先生? と太る
男は思ったがべつによい。
 帰り、病院まで出るとあとは一本道。右手
は広い原っぱで向こうに国営公園の森が鬱蒼
とこもっている。大きな月が浮かんでいる。
八月の満月の月曜日。みていたら月の輪郭が
ふと揺れた。うつったんだと太る男はわかっ
た。原っぱの先のラブホテルの前をゆっくり
走る車がいる。入るのかなと見張っていたら
入った。

出演者情報:大川泰樹(フリー)

Tagged: , , ,   |  コメントを書く ページトップへ

中山佐知子 2009年9月24日



蜘蛛の巣に
                

ストーリー 中山佐知子
出演 大川泰樹              

                
蜘蛛の巣につかまってしまった。
蜘蛛はやさしくたおやかで美しくさえあった。

蜘蛛は朝起きたときから眠りにつくまで
甲斐甲斐しく私の世話をした。

冷たい山の水を汲んでは私に飲ませ
珍しい木の実やキノコで食膳をいろどった。
いつも私の顔色をうかがい
機嫌を取るような笑顔を見せた。

私は真綿でくるまれるように甘やかされて暮らし
おかげで相手が蜘蛛だということを
すっかり忘れてしまっていた。

ある夕暮れどき、
白い手を動かして
団扇の風を私に送っている蜘蛛にたずねた。
どうしてこんなに尽くしてくれるのか。

私は蜘蛛ですから、と蜘蛛は答えた。
そのうちあなたを食べてしまいます。
それはいつなのかと私はたずねた。
あなたが弱ったとき、と蜘蛛は小さな声で返事をかえした。

私はそれを信じなかった。
けれどもある晩、月からぽたんと落ちたしずくが
私の目をさました。
月のしずくは
私を案じて泣く女の涙のように思え
私は飛び起きるとそのまま何も言わずに立ち去った。

空にはふっくらとした三日月が上(あが)っていた。
下草の陰には白い糸のような水の流れがあり
それを頼りに暗い山を駆け下りたが
白い水は私を右や左に走らせるだけで
逃れる道を教えようとはしなかった。

私は薄や茅(かや)をかき分ける気力もなくし
弱り果てた自分を思い知らされていた。

やがて月が山の端に沈み
足元も見えない暗闇が訪れると
その闇の底にぼうっと光るものがあった。
青い小さな花の群れだった。
花の光を追うようにして山を下っているうちに
空が明るんできて、村里に通じる道が見えた。
道の両側はきれいに草を刈ってあり
青い花がところどころ露を置いて咲いていた。

その花をこのあたりでは月草と呼ぶのだと
後になって教えられた。
月草は月の光を食べて明るく咲き
山で迷った人をときどき助けることがあるそうだ。

出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/ 03-3478-3780 MMP

Tagged: , ,   |  コメントを書く ページトップへ

小野田隆雄 2009年9月17日



月見草の記憶

            
ストーリー 小野田隆雄
出演  久世星佳

十二の星座と十二の花言葉を組み合わせて、
私が、人生占いを始めたのは、
三十年ほど、昔のことでした。
最近は、歌舞伎座(かぶきざ)に近い木挽町で
お客さまの運命を見ています。
私は群馬県の赤城山に近い
桐生という街の
ふつうの公務員の家庭で育ち、
東京の私立大学を出て
ある出版社につとめました。
でも、そこを二年で退社して
占(うらな)い師の勉強を始めました。
私は、私の心のなかに、
ほかのひとには、わからないことが、
見えたり、聞えたりする力のあることを、
気づいていたからです。
そのきっかけになったことを、
お話したいと思います。

桐生の街の西側を、北から南へ、
渡良瀬川が流れています。
私の家は、その川の土手の、
すぐ近くにありました。
四歳か五歳の頃、ある秋の夕暮れに、
私は、土手の上から河原を見て
突然そこにお花畑が出来たかのように、
黄色い花がいっぱい咲いているのを、
みつけました。私は土手を駆けおり、
河原を走り、咲いている花のなかに
飛び込みました。花には四まいの
黄色い花びらがあり、その背丈は
高く、花が、私の胸もとに触れました。
花の中を歩いていると、
うっとりしてきました。
かすかに、甘い香りもするようです。
そのとき、せせらぎの音に気づきました。
ひと筋の流れが、乱れ咲く花のあいだに
くねくねと続き、川のまんなかあたりの
深くて速い、大きな流れに向かって、
走っているのでした。
ふと、見あげると、黄色い丸い月も
出ています。きれいだなと思いました。
そのとたん、石ころにつまづいて、
はいていた赤いサンダルが
片一方(かたいっぽう)だけ脱げて、
水の流れに落ちました。私はあわてて
サンダルに手をのばそうとして、
流れのなかに、ころびました。
私の右足のサンダルは、ゆらゆら流れて、
深くて速い川の中央部に、
飲み込まれていくのです。
私は、悲しくなって、
しゃがんで泣きだしました。
しばらく泣いていると、
私の肩に、温かい手が触れました。
私の家の隣の、かよこさんでした。
かよこさんは、高校生でした。
美しいひとで私は大好きでした。
きっと、泣いている私を、
土手の上から見つけてくれたのでしょう。

かよこさんは、私をおんぶしてくれました。
白いブラウスの背中から、水に濡れた私の
空色のTシャツの胸に、かよこさんの
肌のぬくもりが伝わってきます。
私は、ほっとした気持で、眼を閉じました。
そのとき、突然、半鐘の音が、私の耳に、
聞えてきました。あの時代の町や村で、
火事を知らせて打ち鳴らす鐘です。
「かよこねえちゃん。
 半鐘が鳴っているよ。
 境野(さかいの)が火事になるよ」
でも、かよこさんには、半鐘は
聞えないらしく、私に別のことを
聞きました。
「よしこちゃんは、あの黄色い花が
 なんの花だか、知っていたの?」
「月見草」。私はすぐに答えました。
でも、なぜ、そう言ったのか、私にも
不思議でした。誰にも教わった記憶など
なかったからです。

次の日の朝、私は両親が
話しているのを聞きました。昨夜、遅く、
桐生市のすぐ東隣の境野の町で、
大きな火災があり、
十数軒が燃えてしまっていたのです。

*出演者情報久世星佳 03-5423-5904シスカンパニー 所属

Tagged: , ,   |  コメントを書く ページトップへ