月のコロナ
新型コロナでまっすぐ帰る口実ができてよ
かった。太る男は会社帰り、そう思った。電
車は混んでいた。みんなまっすぐ帰れてうれ
しいんだとなんとなく感じる。
地元駅の改札を出る。商店街もない線路沿
いにコンビニがある。弁当を買おうと向かっ
たら隣の食堂の立て看板が目についた。こと
しの年明けにいっぺん入ったことがある店だ。
うすら寒くだだっ広かった。事務所みたいだ
った。その店に寄る気になったのは、そのと
きのがら空きの印象が強かったせいだ。コロ
ナの心配がなさそうだった。
名前はパナマ食堂。そうだった。パナマ料
理? と思ったら焼き魚とかカキフライの店
だった。聞いてみると四十代くらいの店主が
ブラジルへ行ったことがあると言った。パナ
マの答えになってないと思ったけどべつによ
い。料理はどちらかといえばうまくなかった。
それも入る気になった理由だ。太る男は清潔
で料理がふつうの店を信用する。
扉をあけると思いがけずうるさい笑い声。
左隅の四人席からだった。コロナ対策のカー
テンの衝立がしてあった。家族らしい。この
ままきびすを返すべきと思ったが太る男は入
った。二人席には中年と不美人な女のアベッ
クがいてこちらもすこぶる笑ったりしている。
家族に対抗しているのだろうか。太る男は調
理場前のちいさいカウンターへ向かった。主
人のほかに女店員がきょうはいてカウンター
へ座らせたい気配をみせたから。三つの真ん
なかの椅子にバッテンを書いた紙が置いてあ
る。奥の椅子で日本酒を飲んでいた男が嫌な
目つきをした。座って後ろを見たら、もうひ
とつあるついたての陰の四人席が空いていた。
そっちへ移ろうと思ったが太る男は動かなか
った。四人席にズルして移るなよと目つきの
嫌な男が監視している気がした。
太る男は鯖の味噌煮定食を注文した。飲む
気はなかったが、お飲み物はと店の女に言わ
れてビールを頼んだ。カウンターに座るなら
酒飲めよと目つきの嫌な男が観察している気
がした。
「このオヤジさあ、ま〜だ飲む気だよ」「お
い、ケーキはごはん食べてからだろ」おばさ
んの声が傍若無人におおきい。太る男は一度
外したマスクをした。四人席に四人以上いる
のはまちがいない。目つきの嫌な男が「マス
クはむだだよ」と主人に喋っていた。「ほん
とは何十万人いるかわかんねえよ」「そうな
んですかね」と主人が答えていた。「だった
ら外しちゃお」太る男が唐突に会話に入った。
目つきの嫌な男はちょっとびっくりしたよう
だった。
そこへ料理がきた。ここは鯖の味噌煮がい
ちばんうめえ、と目つきの嫌な男がぼそっと
言っていた。ビールどうします? 店の女に
きかれてビールはいいやと太る男は妙に明る
く答えた。日本酒にするかな。
「おんなじ医者が毎日おんなじこと言いに出
てきやがって」「いいアルバイトですよね」
目つきの嫌な男は主人とコロナの話をしてい
た。太る男もときどきそこへ入った。「話し
てもうつらないけど、笑うとうつるっていう
ね」そう言うと目つきの嫌な男がはじめて太
る男を見た。二人ともあわてて目線をはずし
た。家族は変わらず大声で話している。おば
さんは二人いたんだ。「先生にもう一本、常
温で」と主人が言っていた。先生? と太る
男は思ったがべつによい。
帰り、病院まで出るとあとは一本道。右手
は広い原っぱで向こうに国営公園の森が鬱蒼
とこもっている。大きな月が浮かんでいる。
八月の満月の月曜日。みていたら月の輪郭が
ふと揺れた。うつったんだと太る男はわかっ
た。原っぱの先のラブホテルの前をゆっくり
走る車がいる。入るのかなと見張っていたら
入った。
出演者情報:大川泰樹(フリー)