「アキレスと亀」
男は、今、まさに死の淵にいた。
観光地の崖からの転落。
その落下の途中であった。
まさか、こんなカタチで自分が死ぬなんて。
景色がゆっくりとスローモーションになっていくって、
本当なんだな。
あまりの事態に、現実感がなく、男はどこか冷静だった。
人生で1度しかない死の瞬間を観察しはじめていた。
人が死に直面したとき。
脳は極限まで集中力を高め、
少しでも生き残る可能性がないかを探しはじめる。
その際、
不必要と判断された五感はひとつずつシャットダウンされていくという。
まず味覚がシャットダウンされた。
続いて触覚と嗅覚が、そしてほどなくして聴覚がシャットダウンされた。
男に静寂が訪れた。
いまや脳は五感に割いていた力を、視覚だけに注いでいた。
単純計算で5倍。
その極限の動体視力で景色がスローモーションで見えてくるのだ。
昔、映画で見たことがあるぞ。
「ここぞ」という大事な場面を迎えたスポーツ選手。
歓声が消え、すべてがスローモーションになり…
あれか。
状況は極めて悪い。
そう判断した脳が、
視覚からさらに色彩を消した。
男にモノクロの世界が訪れた。
まわりの景色は、より一層スローになった。
それでもゆっくりと地面は近づいて来る。
そのタイミングで脳はさらなる稼働をはじめた。
この瞬間にすべてをかけた、
なりふり構わないフル稼働。
この死を逃れる方法がないか、
日常生活を送るうえで、普段は使っていない部分も含めて
すべての脳細胞が一斉に情報処理をはじめた。
0.1秒が、何倍にも膨れ上がった。
さらに次の瞬間、何万倍にも膨れ上がった。
あくまで男から見た世界ではあるが、
すべての時間が止まったようであった。
男が数mm落下するその刹那を、
脳は持てる力の限りを使って、
何万倍、何百万倍もの時間にひき延ばしはじめた。
男は、すべてを理解した。
俺はこのまま死ねないかもしれない。
死の瞬間を、こうして脳は永遠に延ばし続けていくのだな。
外から見ると、たった一瞬の出来事だった。
だが、男は、永遠に地面に激突する刹那の中にいる。