帳尻
こと。
という音がして、目の前に、豆の入った小皿が置かれた。
炒った黒豆のようだ。
取材で初めて訪れた街のバー。
70くらいのママが一人でやっている。
カウンターにはわたし一人だ。
中途半端な時間に大阪を出ることになって、
町についた頃にはほとんど店が開いてなかった。
とりあえずアルコールが入れられればいいやと開き直って、飛び込んだ店。
タラモアデューがあることに喜んで、水割りを注文した。
ママは、豆を置くと、氷を冷蔵庫から取り出した。
黒いセーターにつつまれた体の線はシャープで、
ショートボブの頭には白いものがまじっているが、生えるに任せる、
というその風情がさばさばした印象を与える。
なかなかいい感じの店じゃないの?
今回はB級グルメが取材目的だから少しずれるけど、
ここは覚えておいて損はないかもしれない。
水割りを待ちながら、豆を噛む。
あ。
おいしい。
なんというか、黒豆の香りが、いい姿勢で立ち上がってくる感じ。
「あの、このお豆、おいしいですね」
「あら、そうですか?よかった」
「ふつうのと違うんですか」
「わたしの知人がね、篠山の方で畑をやっていて。
農薬はむろん、肥料も使わない農法で育てた豆を、
時季になると送ってくれるんです」
「へえ」
「お口にあいましたか」
「すごく」
うん。なかなかの「趣味のよさ」…
しかも、おしつけがましくなく、さらりと言うところが
また上級者という感じだ。
と。
と音がして、革製のコースターの上に水割のグラスが置かれる。
お。
黒の江戸切子のグラスだ。淡い水色と透明なガラスのパターンが楽しい。
一口飲む。
うん。少しだけ濃いめ。好みの感じだ。
当たりだわ。
と、メールの着信音が鳴った。
見ると編集部からで、記事広告の修正案を大至急送れという。
タイアップ先のガス会社の担当者が明日から休暇なので、
今日中にOKを貰わないと、というのだ。
わたしは、心の中で盛大な舌打ちをして、鞄からパソコンを取り出した。
「すみません」とママに一礼してから、急いでワードのファイルと格闘をする。
アルコールが頭に回りきる前でよかった。
30分ほども使ってしまっただろうか。ようやく形が整ったので、
メールに添付する。
メール本文には「お疲れ様です」の一言を入れず、要件だけ。
あなたに気遣いしている余裕はこちとらありませんよ。
という無言のアピール。
送信ボタンを押したとき、ママの声が聞こえた。
「氷が融けちゃいましたよ」
あ、と気づき、すみませんと言いながらグラスに手を伸ばしたその瞬間。
ママの手がすっとわたしの視界に入ったかと思うと、グラスを取り上げ、
そのまま流しにじゃっと中身をあけてしまった。
え、ええっ?
わたしが目を丸くしていると、ママはグラスを洗いながら早口に言う。
「ごめんなさいね。でも、氷で薄まった水割りって、まずいから…」
いや、そうかもしれないんですが…あの、怒ってません?怒ってますよね。
「つくりなおしますからね」
「あ、いや、でも」
「いいの、サービス」
そうか。たしかに、サービスなら、いいのかもしれない。
ん?いい…のか?
わたしは妙な気分だった。怒ったほうがいいのか、喜んだほうがいいのか。
これは、人によって反応が違うだろうなと思った。
勝手にグラスの中身を捨てられて激怒する客もいれば、
新しい酒がただで飲めて嬉しいという人もいるだろう。
確かなことは、わたしが水割を放置したことを、
彼女は「失礼」だと思っている。
それは確かだ。
でも、そこまでしなくてもいいのではと思っているわたしがいる。
と、ふと、いつも考えていたこととつながった気がした。
(わたし含めて)小さい人間は、いつも心の中で「期待」と「見返り」の
帳尻を合わせながら生きている。と思う。
おはよう、という。これは、相手があとで「おはよう」という返事を
返してくれることを期待している。
で、実際に相手から「おはよう」と返ってくる。
気分がいい。なぜなら、帳尻があうからだ。
逆に、ラインでメッセージをだしても、返事がないようなとき。
これは、期待にみあった見返りがない。帳尻があわない。だから怒る。
この帳尻合わせを、頻繁にしないと気がすまない人と、
わりと長いスパンの最後の最後に合っていればいいや、という人がいる。
この時間感覚はみんなバラバラで、
かつ、各々が自分の感覚をスタンダードだと思っている。
人間どうしの齟齬とか行き違いって、
ほとんどこれが原因で起こっているんじゃないかと思うくらいだ。
(ついでに言うと、この帳尻をあまり頻繁に考えない人のほうが、幸せそうだ。)
脇道が長くなったけど…要するに、このママは帳尻合わせをものすごく
頻繁にしないと気がすまないタイプなのでは、と思ったのだった。
ケチなわけではない。
相手への投げかけは、ちゃんとした品質のものを差し出す。手はぬかない。
そこには「これだけの投げかけにはきちんと反応してよ」という高い期待も込みだ。
だから、というべきか。
その期待が裏切られたかどうかという判断も、すごく早い。
ある、理想の店主、という役を演じたからには、客も理想の客であって当然だ。
と考えるタイプの人なのだろう。でも、わたしはそうでなかった。
だから、見切りをつけ、グラスの中身を捨てたのだ。
「恩知らず」と言わんばかりに。
と。
と音がして、目の前に次のグラスが置かれた。
これを飲んで帰るべきか。
それともグラスには口をつけないまま席を立ち、
ママに「貸し」をつくるべきか。
わたしは、しばし答えを出しあぐねた。
ママが、カウンターにこぼれた豆の粉を布巾で拭くのが見える。