中山佐知子 2018年9月23日「その馬は星を眺める (2018)」

その馬は星を眺める
            ストーリー 中山佐知子
               出演 遠藤守哉

その馬は星を眺めるのが好きだった。
たぶん故郷の草原を思い出すからだろう。
馬の故郷ははるか西のキルギスに近い草原で
遠い地平線を見渡すことができたし
西に沈む星に向かってどこまでも駆けることができた。

馬が連れて来られた洛陽の都には草原がなかった。
地平線がどこにあるのかもわからなかった。
星は大きな建物のてっぺんにぶら下がっていた。

その馬は一日千里を走った。
二世紀の中国で千里といえばおよそ400kmだ。
その能力の高さゆえに馬はときの権力者への贈りものにされたのだったが
馬としてはそんな人間を背中に乗せるつもりは毛頭なかった。
そこで最初の持ち主はこの言うことをきかない馬をある武将に与えた。

その武将は強かったが、義に疎く節操がなく裏切りを繰り返した。
ある意味ではとてつもなく自由でありその奔放さが馬と似ていた。
馬は呂布というその武将を乗せて戦場に出向くようになった。
壕(ほり)を飛び越え、城に攻め入って敵を蹴散らすのは面白い、と
馬は思った。

やがて呂布が死に、馬は呂布を殺した男の手に渡った。
男は知謀に優れていたが少々冷酷でもあった。
馬はその男を嫌って大暴れに暴れた。
それから馬は自分の首にあたたかい手が置かれているのに気づいた。
なるほど、自分はまた誰かに譲られたのだ、こんどはどんな奴だろう。
馬はしみるような笑顔で自分を撫でている髭面の武将を見返した。

そのあたたかい手をした髭の武将は名を関羽といった。
信義に厚く部下にやさしいと噂されていた。
また馬術にも秀で
混み合った戦場でも草原と同じように自在に馬を走らせた。
恐れを知らず勇猛に敵を攻めたが
そんなときでも馬をいたわり、危険な目に遭わせることがなかった。

馬はもう星を眺めなくなっていた。
馬はどこにでも草原をつくりだす関羽の手綱に喜んで従い
また、その日の戦いが終わってから自分を撫でる手のぬくもりが
待ち遠しいと思うようになった。

このとき関羽は曹操のもとにあり将軍として仕えていたが
一生の友情と忠誠を誓った相手はほかにいた。
馬が草原をなつかしんだように
関羽もまた慕わしく思う人がいたのだ。
そしてその日、関羽は馬とともに目指す人のもとへ走った。
もし追われても、この馬に追いつけるものはいない。
一日千里を走るこの馬に勝てる馬はいない。
叫びたいほどの開放感が全身を貫き、関羽は馬の背で何度も踊り上がった。

馬もうれしかった。
背中に乗せた人間の喜びが真実自分の喜びだと思えるのがうれしかった。
馬と人はひとつの生き物のように星空の下を走りに走った。

この馬の名前は赤い兎と書いて赤兎(せきと)といった。
やがて関羽が死んだあと、
赤兎は絶食し自ら命を絶ったと伝えられている。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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直川隆久 2018年8月19日

涼しい話

          ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

ええ、あたくし、こうみえてマゾでございやしてね。
さいきん、夏の辛さが大変ありがたい。
SMバーなんぞ行かずとも自宅で自分を虐めることができやすから。
温暖化万々歳でやすな。

朝目覚めますと8時にはもう熱が部屋にこもってやしてね。
うちの部屋は2階で、真上がトタン屋根ですんで。
部屋の内から天井むけて手をかざせば、焚火かと思う暑さ。
こりゃもう朝から、のたうちまわり日和じゃわいと思って、
わくわく、いそいそ。

で、さっそく取り出しますのがヒートテック。
ヒートテックはね、あぁた、冬に着るもんじゃございませんよ。
夏こそ、ヒートテックです。
これを、ま、2枚。上、下、それぞれ2枚重ねて着ますな。
着終わるともう、その時点でじんわりと汗がでますな。
首筋とか背中の毛穴に塩辛い汗が滲んで、ちくちく痒くなりますわな。
う~ん、不快!

大事なのは首筋でやすな。
敏感なところですからな。たっぷりと、不快な感触を用意いたしやす。
毛のマフラーを巻く。分厚いの。
毛足がちくちくと首の肌を刺します。
ああ!
そしてですな。このマフラーに、はちみつを塗る。
はい?
そう、はちみつでやす。
お、眉をしかめましたね。
これは、まあ、理由は後からわかります。
とりあえずはネトネトのはちみつでマフラーの毛が首筋に貼りついて
もう、鳥肌が立ちますな。

エアコンを32度の暖房に設定しやすな。
ごわーと、吹き出るものすごい熱風を浴びながら
ダウンジャケットとウールのニッカポッカと
スキー手袋と冬山登山用靴下を着こみまして、
ええい、ここは奮発して電気ストーブもスイッチオンにしちまいやしょう。

が、まだこれで終わりではありやせん。
これが肝心。
手錠。
これをですな、手を後ろにまわして、はめるんでやすな。
はめちゃうともう、自分でははずせやせん。
前にも手がまわせやせん。
その状態で、ごろんと寝転がるんですな。
簀巻き状態でやす。

しばらく、も、たたないうちに、頭がぼんやりしてまいりやすな。
苦しい。
うひひひひ。
汗、とまりません。
もう、ダウンジャケットの中はぐじゅぐじゅですな。
動悸が激しくなる。
うひひひ。
あや、すみませんな。思い出すとつい。

さあ、ここからがハイライトでございまして。
こそっ、と押し入れの方から音がする。
こそ。
こそっ。
…ネズミですな。
この、首筋のはちみつの匂いにつられるんですな。
見てると、2匹、3匹とこっちへちょろちょろと寄って来る。
爪が畳をひっかいてカリカリいう音が聞こえやすな。
あたしの首筋に取りついて、ふんふん匂いを嗅ぎまわる。
ちっこい爪があたしの首筋に食い込んで、むっひひひ、痛いのなんの。
そのうち、舐めだす。
で、だんだん激しくなってくる。
ときどき
むぢっ!
…とあたしの肉ごと噛みちぎったり。
むっひひひ。
あ~、もう!
思い出すだけで…もう、もう、もう!
あ~…

という具合にまあ、さんざんネズミちゃんにいたぶっていただいた頃合いで、
友人に来てもらことにしてやして。
ええ、もう長年の相棒でやして。
ドアと手錠の鍵を、預けてあるんですな。
脱水症状で意識不明になるぎりぎりのタイミング、
だいたいこれくらいかな、というのをあらかじめ伝えておくんでやすな。

死んじゃあ元も子もござんせんから。
明日も元気に自分を虐めるためには、ね。いいとこでとどまる。
それがこの道のコツというやつで。
まあ、ここまで来るにはだいぶトライアンドエラーがございやしたけどね。
救急病院に運ばれたのも一度や二度じゃござんぜんし、
あるときなんぞ頸動脈を食いちぎられかけて…
ま、その話はまた今度にいたしやしょう。

まあ、こういった具合でございますから、
あたくしぁ、まったく夏が好きでやすな。
たまらんでやす。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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三島邦彦 2018年8月12日

穴に住む 

    ストーリー 三島邦彦
       出演 遠藤守哉

あ、目が覚めましたか。

びっくりしましたよ。
川に水汲みに行ったら人が倒れてるもんだから。

ここですか。私が住んでる穴の中です。
私ね、穴の中に住んでるんですよ。この山で。

涼しいでしょう。

やっぱり空気が違いますよね。深い穴の中って。

奥に行けば行くほど冷えて来るんで、
ここまで来ると、もう冷蔵庫の中みたいですもんね。
外はあんなに暑いのに。あ、冷蔵庫は言い過ぎか。

とにかく、気温が安定してるんですよね。
夏は涼しいし、冬はあったかいし、
遠い昔の原始人たちも
こんな穴の中に住んでたんでしょうね。
よくわからないですけど。

すみませんいきなり喋り過ぎですね。
目が覚めたばかりなのに。
ちょっと、人と会話できるのが嬉しくて。

あなたが倒れてるのを見て、
最初はこりゃ大変だって思ったんですけど、
生きてることが分かってね。
必死でここまで連れて来ましたよ。
久しぶりに人と話せると思ってね。

あ、見えてますか。私のこと。
見えてませんよね。暗いですもんね。
しばらく目が慣れませんけど、
だんだんと目が慣れて来ますからね。

私ね、今とっても笑ってるんですよ。

見えないですよね。
私はあなたの表情がぼんやり見えてますよ。
そう怖がらないでください。ただのおしゃべりですから。

暗闇は慣れるんですけどね、
孤独は慣れないんですよ。
生まれつき一人で生きて来たら
慣れるのかもしれないですけどね。
人と会話した記憶があるとどうしても寂しくなってね。

ふとした時に、
暗闇の中で壁を見つめながら色々考えるんですよ。
この穴の中でもう誰とも会えないのかなって。
誰に強制されたわけでもなく、
自分で選んだ人生なんですけどね。

もちろん、人間関係のあれこれが嫌で
この穴の中にいるわけだから、
そもそもは一人でいるのが好きなんです。
穴の中で生活を始めてから心は穏やかになった気がしますし。
一人でいることと、孤独はちょっと違うんですよね。
難しいことはわかんないんですけど。

で、寂しい時はね、壁をひたすら見つめるんです。
壁をじっと見てるとね、
そのでこぼこなんかが人の顔に見えて来る瞬間があってね、
その顔の人がどういう人なのかを考えるんですよ。
そして浮かんで来た顔の人と会話をしてみるんです。

例えば、もし穴の外に出て、ふもとの川で人を見つけて、
穴に連れて来たらどういう会話をするとかね。

一人で壁を見つめながらでも、
おしゃべりする相手はいくらでもできるんですよ。

というわけで、今日は、あなたに会えました。

穴の中へようこそ。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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直川隆久 2018年7月15日

ひまわり男

         ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

 廊下のほうから、べたべたという靴音が響いてきて、
いつものベレー帽をかぶった菊池の顔が、
病室入り口からぬっとのぞきよった。
「お、ベーやん。こーこやったんかいな」
 やかましい声をはりあげて入ってくる。
「さがしたでえ。406号室!」
 いつものアロハ。片手にはギターケース。
片手にはなんやしらん、でかいスーパーのレジ袋。
俺は「おお、キィやんか」とだけいうと、
ベッドの脇のパイプ椅子を顎でしゃくった。
菊池は、べたべたと病室の中を横切ってくる。
 相部屋にいるほかの3人の患者たちはみなこちらに背をむけるか、
仕切りのカーテンを閉めるかしてるが、
注意の矢印が空気を突き破ってこちらに向けられてる。
 菊池は、どさりと荷物をおろすと、
 「あ、あらっ。あらっ」
 と、こっちの顔を覗き込みながら、わざとらしく明るい声をあげよる。
「元気そうやんか。元気そうやがな」
「そう見えるか」
「見える見える!」
 そう言うと菊池は、レジ袋の中から、
カップ入りの水ようかんを2つ取り出すと、
ベッド横のキャビネットに置いた。
「好きやろ」
「ああ」
 さらに菊池はガサガサと袋の底をまさぐる。
中からにゅっと取り出したのは、
茎を20センチほど残して切り取られたひまわりの花。
直径30センチもあるやろうか。重そうなその花を菊池は持って
「花瓶あるか?」
と訊いた。
「いや…ない」
というと、菊池は肩をおとした。
公園か小学校かに生えているのを無断で切り取ってきたんやろうか。
ばかでかいそのひまわりは、病室の中でなにやらえらい間抜けな感じがした。
「あれやで。入院する前より、顔色ようなってるんとちゃうか?」
 ほんまに、何をぬかしとんのか。
俺が入院したのは、おまえのせいやないか。と喉まででかけて、こらえた。

父親が倒れて家業のプレス工場をどうしても継がなならんようになった…
というのは事実ではあったけど、
正直おれは菊池とのバンド生活にほとほと嫌気がさしていたので、
工場の件は、半分はいい言い訳でもあった。
2人で行った天満の立ち飲み屋でそれを告げたときは、菊池は意外に素直やった。
 勘定を俺が済ませている横で、
「べーやんが決めたことやったらしゃあない」と何度も言っていた。
 本当は二軒目には行きたなかった。酒乱の菊池のことで、
行けば荒れるのは目に見えていた。しかし、行かんわけにいかなかった。
で、案の定荒れた。俺に馬乗りになり、首を締めあげ、
なめくさっとんのかわれ、と声を上げた。
今まで喧嘩になったことはあっても、俺から手をあげたときは一度もない。
でも、これが最後やと思ったから、俺は菊池の顔面におもいきりパンチをあびせた。
するとあいつがカウンターにあった焼酎のボトルで俺の顔面を殴りやがった。
俺はその日、歯を2本と我慢の理由とを、なくした。

「一曲やろか」
「なに?」
 菊池は嬉しそうに病室内に愛想を振りまいた。
「みなさん、すんまへん。こいつね、うちのバンドのベースですねん。
ちょっと事故で入院してるんですけど、元気づけてやろうと思いまして…
一曲だけ、すんまへん」
 と言いながらギターケースを開ける。
「おい、やめとけ」と俺は苦い顔をするが、菊池は
「練習してん」
と言いながら、ギターを抱える。
 練習。久々に菊池の口から出た言葉やった。
ピッキングハーモニクスでチューニングを整えると、菊池は演奏を始めた。
聞き覚えのあるコード進行やなと思うと、菊池の唄がかぶさってきた。

♪You are the sunshine of my life..

スティービー・ワンダーの名曲を、アレンジした曲やった。
今までステージではやったことがない。
自分の声の個性を少しおさえた歌い方で、そういうやり方は、
最近菊池が…自分の声の力によりかかって、
そこから一歩踏み出すことを邪魔くさがっていた菊池がやらんかったことやった。
ここから、もう少しあるかもしれない。そう思わせる演奏やった。
なんで今までやらんかったんか、と思った。

最後のコードをストロークで弾いたあと、弦が鳴りやむまで菊池はじっとしていた。
病室の全員がじっとその演奏をきいていたのがわかったが、
最後の音がやんで静寂が訪れた。拍手はおこらんかった。

「どうかな」と菊池が俺のほうを見た。
「よかった。あんたの声におうてる。レパートリーになるで」
俺も指が動いてもうたで、とは言わんでおいた。
菊池の顔が、「は」と笑う顔になった。
おれは続けた。
「けど、俺は、やらんで」
 菊池の顔はそのまま笑い声をあげることなく、硬い表情にかわっていく。
「すまんな」
おれは、水ようかんをパカリと開けて、黙って食べた。
様子をうかがうと、菊池は窓の外を見ている。震えていた。
俺は反射的に、ナースコールのボタンを握りしめた。菊池の様子次第では、
押すつもりやった。
そやけど、菊池は、それ以上何も言わんかった。
ギターケースにギターをしまい、立ち上がって、
「ほな」
とだけ言うと、またべたべたと足音をさせながら、病室を出ていった。
振り向くかな、と思ったが、振り向かなかった。

キャビネットの上で生首みたいに横たわってるひまわりを、
看護師さんに頼んで捨ててもらった



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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直川隆久 2018年6月17日

雨の来た方向

         ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

ぷつ、ぷつ、と窓をたたく音がするので
外光透過モードに切り替えると、
雨が見えた。窓辺に寄り空を見上げる。
風に軌道を曲げられながら遥かの高みから
きりもなく落ち続ける水滴の運動。
そういえば。地位、価値、評判。
そういったものがより望ましい状態であることを示すために、
地位が「高い」、価値が「高い」という表現をしていた時代があった。
考えてみれば不思議だ。
地面から垂直方向へより離れた状態をさす言葉がなぜ「よい」という意味を?
太古の時代には、雨や太陽の光といった農作物を育てる恵みが
「上」のほうから降ってきたからだろうか。
そこから「上」すなわち「よきもの」という感覚がうまれた、
というのはありそうな話だ。

人間にとって上空というものがとりたてて憧れを呼ぶものでなくなって久しい。
おそらくは、月や火星といった遥か我々の頭上にある場所が、
資源採掘の対象となり、
劣悪な労働環境の象徴とされるようになってからだろう。
現在地球上の人間は一般に「善い」「正しい」という意味をもつ言葉として
「screeny」という言葉を使うが、
その語源は「スクリーンでしばしば見られる、
スクリーン映えする」ということだったようだ。
それも、ある特定の価値観を反映した言葉である以上、
また変わっていくのかもしれない。

雨は、降り続く。おそらく、あと3週間はやまないだろう。
空気の中に湿りが充満していき、
肌との摩擦が少なくなる。自分と外との境界が少しだけ曖昧になる気がする。
これは、好きな気分だ。
とても、screenyだ。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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川野康之 2018年5月6日

鬼の刀~菖蒲湯伝説

    ストーリー 川野康之
      出演 遠藤守哉                          

もう桜も咲いたというのに雪が降った寒い日の晩。
嘉七の家の前で人の気配がした。
戸を開けて見ると見慣れない男が一人。
身なりはぼろぼろだが腰に刀をくくりつけている。
飯を食わせて欲しいという。
「ただでとは言わん」
といって腰の物に手をかけた。
嘉七の背中で妻のみつと息子の小太郎が悲鳴をあげた。
男は刀を鞘ごとはずして嘉七に手渡した。
「これをやる」
勝手に中に入って床にあぐらをかいた。
嘉七は刀など欲しくはなかったし、帰ってくれと言いたかったが、
機嫌を悪くして暴れられては困る。
ここは飯を一杯食わして穏便に去ってもらおうと決めた。

「ごちそうじゃった」
男は満足そうに茶碗を置いた。
それから不思議なことを語り始めたのだ。
「神隠しというものがあるだろう。
子どもが突然消えたりするあれだ。
あれは神隠しというがじつは山に棲む鬼の仕業だ。
春になると鬼は人間の子どもが食いたくなるのだ。
なぜかといってもわからぬがとにかく無性に食いたくなるのだ。
七つぐらいの男の子が一番うまいという。
子どもをさらってくると河原で火を焚いてな、
鍋で菖蒲の葉といっしょに煮て食う。
菖蒲を入れるのは人間の肉の臭みをとるためである。
・・・ところで 」
と今年七つになったばかりの小太郎をじっと見た。
「この子はいくつだ」
男の眼ににらまれて小太郎がぶるっとふるえた。
その体をみつが抱いて引き寄せた。
「七つか。ふん。せいぜい気をつけろ。
しかし、いったん鬼に目をつけられたら最後、ぜったいに逃れる方法はないぞ」
そう言って男は帰って行った。
朝になって外を見ると、雪の上に足跡が残っていたが、
10歩ばかり歩いたところで消えていた。

この話を村の衆にしたところ、
「それは鬼じゃないか」
と声をひそめて言う者があった。
今年はどの子を食おうかと鬼が下見に来たというのである。
「かわいそうに小太郎は鬼に見初められたんじゃ」
そう言われて嘉七はぞっとした。
あの男は鬼だったのだろうか。
小太郎をじっと見ておったな。
あの眼はそんな恐ろしいことを考えていたのか。
「ぜったいに逃れる方法はないぞ」
男の言葉がよみがえってきた。

その日から三日三晩、嘉七は田んぼにも出ないで家の中にこもった。
床下に隠しておいた刀を取り出して、じっと考え込んだ。
あの男はなぜこれを置いて行ったのか。
鞘を膝に乗せ、表面の漆を削って下の木材をむき出しにした。
そこにヨモギの葉をすりつぶして手のひらで丹念にこすり付け始めた。
「みつ、もっとヨモギを取ってこい」
手の皮がすりむけるまで何度も何度もヨモギの汁をすり込んだ。
嘉七の手が緑色に染まり、黒く血がこびりついたのを見て、
青鬼のようだとみつは思った。
草色に見事に染まった鞘は、まるで菖蒲の葉のように見えた。
この鞘に刀を収めて、小太郎の体にくくりつけた。
「寝る時も厠へ行く時もけっしてはずすな」
恐れていた日はすぐにやってきた。
とつぜん強い風が吹いた。
家が揺れ、屋根がめりめりとはがされるような音がした。
嘉七が屋根を見て戻ってくると、もう小太郎の姿はなかった。
風の音に混じって鬼の笑い声が聞こえてきた。

小太郎は暗い鍋の中で、菖蒲の葉と一緒に水に浮かんでいた。
下から熱い湯が沸いてくる。
菖蒲のうちの一本は自分の体にくくりつけて持ってきた刀である。
湯はどんどんと湧いてきて、どんな熱い風呂よりも熱くなった。
足の裏が焼けた。
菖蒲のにおいでむせびそうになる。
意識が遠くなってきた。
父の言葉をとぎれとぎれに思い出した。
「鬼は鍋の前にいる。煮えるのが待ちきれなくて、
蓋を持ち上げて中をのぞこうとするだろう。その機会を逃すな」
目の前が明るくなったので、小太郎ははっと意識を取り戻した。
天井が少し開いている。
もうもうとした湯けむりが消えて、その向こうからぎらぎらと大きな目玉が一個、
こっちをのぞきこんでいた。
小太郎は草色の鞘から刀を抜くと、全身の力を込めて跳び上がって、
湯気たてる刀身を目玉の中心に突き刺した。

恐ろしい叫び声が山中にこだました。
嘉七は山道を急いだ。
河原まで来た時、倒れていた小太郎を見つけた。
小太郎は足の裏にやけどを負っていた。
嘉七はわが子を背負って山道を降りはじめた。
「眼を見たか」
と背中の子どもに声をかけた。
雪の日に刀を置いて行ったあの男、
あれはほんとうに鬼だったのだろうかと、嘉七は考えていたのである。

出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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