直川隆久 2024年5月26日「川のある村からの使い」

川のある村からの使い

     ストーリー 直川隆久
        出演 遠藤守哉

雑居ビルにある事務所のガラス窓を、強い雨がしきりに叩いている。
近頃台風が多く、大雨の日が続く。

信頼していた経理の人間の裏切りのせいで、私の会社は窮地に立たされていた。
先々月次男の浩次郎(こうじろう)が生まれ、
これから踏ん張らねばならないと思っていた矢先だった。
土砂降りの中をずぶぬれになりながら資金繰りに奔走する日が続いた。

万策つきたかと思われたある日、
疲労困憊して事務所のソファに体を沈めていると、
ドアを開けて一人の男が入って来た。
80…いや、90近いだろうか。
ジャケットにループタイというスタイルに、ソフト帽。
ズボンの裾が、濡れて黒い。
男は名を名乗らず、ただ水落村の者だとだけ言った。

水落村? …どこかで聞いたことがある。
「ご存知ありませんかな。あなたのお祖父様、それと…
お父様がお生まれになった村です」
そう言って男は来客用デスクに座り、ジャケットの内ポケットをまさぐった。
分厚い茶封筒を取り出すと「不躾かもしれませんが…」と、こちらへ差し出した。
「もし何か今お困りなのでしたら、この金をお使いください」
「はい?」
「いえ、差し上げるのです。受領書も要りません」
私は呆気にとられた。そんなものをもらういわれがない、と突き返すと男は
「あなたのお祖父様と水落村の約束があるのです。
だから、このお金はあなたのものなのです」と答えた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
わたしは父方の祖父について多くを知らない。
わたしがごく幼い頃亡くなったし、
父が生家について話すこともあまりなかったからだ。

父は、青年期まで過ごした水落村を出た後、東京で就職した。
結婚を機に近郊の新興住宅地に家を買い、そこで私と弟の英二が生まれた。
そんな父に、一度故郷のことを尋ねたことがある。
父は、自分の弟を幼い頃なくした記憶があり、
その村のことはあまり思い出したくないのだと語った。
村の話を父としたのは、その一回きりだ。

父は、英二をとても可愛がっていた。
自分の弟を亡くした後悔がそうさせるのか、溺愛と言ってもよかった。
その英二が行方不明になったのは、わたしが小学3年生の頃だった。
ちょうど今年のように台風が全国的に猛威をふるう年だったのを覚えている。
父は半狂乱で町中を駆けまわったが、弟の姿は現れなかった。

その後、どうしたわけか我が家の家電製品がすべて新しくなり、
クルマも新車になった。
ぴかぴかと眩しく輝くモノが家の中に増えるのと相反するように
父はふさぎこみがちになり、数年後、病で亡くなった。
大学進学を機にわたしは家を出たが、父の残してくれた遺産は充分あり、
経済的には分不相応なほど恵まれた学生生活を送った。
その数年後、母は家を処分した。
弟をなくした記憶のしみつく家が消えたことで、
安堵に似た気持ちがわき起こったのを憶えている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「いったいどんな約束がうちの祖父とあったのです」
わたしが問うと、男は懐をまさぐってショートピースの箱を取り出した。
マッチでタバコに火をつけ、きつい匂いの煙をゆっくりと吐き出してから話し始めた。
「水落村は、昔から暴れ川に悩まされてまいりました。
開墾以来…何百年でしょうな。ひとたび川の水が溢れますと、
赤くて酸のきつい泥を田畑がかぶってしまい…難渋します。
ですから、手立てを打つ必要があった。川の神を鎮めるために、犠牲を払う必要が」
「犠牲?」
「ええ。誰かがそれをやらなくてはいけないのだが、手を挙げる者はない。
しかしその中で唯一…」
男はタバコに口をつけ、もう一度煙を吐いた。
「唯一あなたのお祖父様が、
末代にまで渡ってその犠牲を払うという約束をしてくださいました。
本当に貴い申し出だった。私はまだその頃小僧でしたが、
あなたのお祖父様のご勇断を家の者から伺い、大変感銘を受けたのを憶えております」
男は、煙をすかして遠い景色を見るような目つきをした。
「ですから我々は、あなたのおうちを代々…村を挙げてお助けする義務があるのです。
取引だなどと言いたてる者もおりましたが、
そういう口さがない連中に限って、何もしないものです」
そう言って、男は茶封筒に手を添えると、こちら側へ押してよこした。
その仕草には何か有無を言わせぬ力があった。
男はタバコをもみ消し「そろそろお暇(いとま)しましょう」と立ち上がった。
「おそらく、伺うのもこれで最後になるでしょう。
 水落村の暴れ川も来年あたりようやく護岸工事が始まりそうでして…
 捧げものの必要も、ようやっとなくなりそうなのです」
男は帽子を取ると深々と一礼した。
「本当に、感謝いたしております」
男が去ったあと、茶色い封筒の横の灰皿から薄く煙が上っていた。

 そのとき、携帯が鳴った。
出ると、妻の震える声が耳に切りこんできた。
「こうちゃんがいないの。窓際のベビーベットに寝かせていたら…
 窓が割れてて……こうちゃんが…こうちゃんが…」
窓ガラスをさらに猛烈な雨が叩き始め、轟音が電話のむこうの妻の声をかき消した。

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出演者情報:遠藤守哉

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佐藤義浩 2024年4月14日「うれしいことがあったら」

うれしいことがあったら

   ストーリー 佐藤義浩
      出演 遠藤守哉

スーがうちに来たのは金曜日だった。
いつものように飲んで帰ってきた僕は
いきなりうちに犬がいて驚いた。
連れてきたのは娘だった。
動物病院でバイトしていた彼女が
引き取り手のないトイプードルをもらってきたのだ。
僕はそこそこ酔っ払っていて、
お、可愛いじゃないか、などと言いながら
そのトイプードルを撫でようとして、
いきなり手を噛まれた。
娘の話では、スーは元の飼い主から
かなり辛い扱いを受けていたらしい。
そのせいか、人には全く心を開かず
何匹かいた保護犬の中で最後の一匹になっていた。
そのときはすでに9歳で、このままだと処分される。
たまらず娘が引き取ってきたということだった。
誰が面倒見るのか、お決まりのやり取りの末、
スーはうちで暮らすことになった。
そしてこれもお決まりのごとく、
頑張って世話すると誓った娘ではなく、
結局は妻が面倒を見ていた。
僕はと言えばたまに散歩に連れて行くくらいで
初めのうちはなかなか言うことを聞いてくれず苦労した。
それでも数ヶ月、一年、二年と経つうちに
自分からリードを引っ張って散歩を急かすようになった。
スーは家の中でも走り回るようになった。
床にカチャカチャと爪の音を響かせて、
ソファに飛び乗ったり飛び降りたり、
少しは楽しいと思えるようになったのかなと思った。
それでも心の底から気を許してるというわけでもなく、
向こうから膝に乗ってくるようなことは決してなかった。
そんな毎日が続いて、いつの間にかスーも年を取り、
一日のほとんどを寝て過ごすようになっていた。
起きているのか、眠っているのか。
たまに寝たままで足だけ動かしていた。
野原を思いっきり駆け回ってる夢でも見てるのかもしれない。
それはまるでステップを踏んでいるようだった。
走りたいんだなと思った。
人がうれしい時に思わず踊り出しちゃうような
そんな気分なんじゃないかと思った。
結局スーは21歳まで生きた。
後日、スーが元いた動物病院の院長先生が 
「長生きさせてくれて本当にありがとう」と、
言ってくれた。
スーの一生が幸せだったのかどうか、
本当のところはわからない。
ただ今はずっとステップを踏むように
走り回ってるといいなと思うだけだ。



出演者情報:遠藤守哉

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安藝哲朗 2024年2月4日「流れ星」

流れ星 

   ストーリー 安藝哲朗
      出演 遠藤守哉

リビングで映画を見ていると、
ベランダから流れ星が入ってきた。
「こんばんは。流れ星です」と流れ星は言った。
「映画をお楽しみのところ申し訳ございません。
あ、小津安二郎の『秋日和』ですか。
いいですね。司葉子さん、美しいです」
僕はテレビを消して、部屋の明かりをつけた。
ビールがいいか、それともコーヒーか。流れ星に訊ねた。 
「どうぞどうぞお構いなく!そんなに長居はしません。
いかんせん流れ星なものですから。でもせっかくなのでコーヒーを」

我々はダイニングテーブルで向かい合った。
僕は流れ星の話の続きを待った。
「突然のご訪問で驚かれたでしょう。
いやね、私あなたの願いを叶えにやってきたもので。
と言いますのも、ミエコさん、ご存知ですね?
あなたの姪っ子さん。私が双子座の界隈を
ヒューンと走っている時に
ミエコさんからお願いされたんですよ。
あなたの願いを叶えてやってくれ!って。
ミエコさんまだ小学3年生なのに、
自分の欲しいものとか差し置いて
あなたの幸福を願ったのですよ。
それでね、私は、よしわかった!と
その足で今、こちらにお邪魔しているというわけです」
流れ星はそこまで話し終えると、
コーヒーを音を立てて啜った。
ミエコから見て僕は不幸に見えるのだろうか?
独身だから?それとも先日会った時に
着ていたセーターが毛玉だらけでみすぼらしかったから?
僕を心配するミエコの気持ちはありがたいけれど、
姪っ子の願い事をひとつ奪ったようで
なんだか申し訳ない気持ちになった。
ミエコは僕の姉に似て自己犠牲の傾向が強い。
ちょっと心配になるぐらいだ。

流れ星は本題に入る。
「それで、あなた様のお願いごとというのは
どういうものでしょうかね。いやね、突然
願い事は?って訊かれても困る!という人多いんですよ。
とてもよくわかります。私だって同じです。
流れ星さん、あなたのお願い事は?って訊かれても、ねぇ」

僕はちょっと考えて、
シャトレーゼのロールケーキをワンホール、
ミエコにあげてくれと流れ星に伝えた。それが僕の願いだ、と。
彼女はシャトレーゼのロールケーキに目がないのだ。
今の季節だと、中にイチゴが入っているかもしれない。
ラッピングはいかがいたしましょう?と流れ星が訊いた。
何もしなくていい、と僕は言った。
別に誕生日でもなんでもないしね。



出演者情報:遠藤守哉

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福里真一 2023年1月7日「新年といえば樹木希林」

新年といえば樹木希林 

     ストーリー 福里真一
        出演 遠藤守哉

新年といえば、私にとっては樹木希林だ。

毎年、お正月に放送するための、
テレビコマーシャルに出演してもらっていたので、
たこあげとか、
はねつきとか、
こままわしとか、
カルタとりとか、
樹木希林さんには、お正月っぽいあらゆることを、
やってもらった。

正確には、お正月に放送するためのCMを撮影するのは、
年末なので、
その制作スタッフである私にとっては、
年末といえば樹木希林、
が正しいはずなのだが、
でもやっぱり、
新年といえば樹木希林だ。

ある日、撮影現場の端っこの方で、
目立たないように立っていた私にはじめて気づいて、
樹木さんは、
「あの、冬彦さんみたいな人は誰なの?」
とまわりに聞いたそうだ。

ちなみに冬彦さんというのは、
当時の人気ドラマで、
佐野史郎さんが演じていたマザコンキャラ。
メガネをかけてなよなよっとしている私の姿が、
冬彦さんと重なったらしい。

それ以来、しばらくは、
冬彦さん、冬彦さん、
と呼ばれていたが、
数年たつと、私の名前を認識したらしく、
福ちゃん、福ちゃん、
と呼ばれるようになった。

私がいつものように、
撮影現場の端っこで目立たないようにしていると、
福ちゃんはどこ?
あらまたそんな隅っこにいたの?
と探しにくる。
そしてなにかと、話しかけてくれる。

その仕事はけっこう長い年月つづいたので、
樹木さんと私は、
それなりに親しくなっていった。

あるとき、
樹木さんが言ってくれたことがある。

私が、福ちゃんに興味をもったのは、
ちゃんと見てる人だったからなの。

私はすぐには、よく意味がわからなかった。

役者にとっても、
何かをつくる人にとっても、
「見る」
ということが一番大事だと私は思う。

いろんな人の行動や、
いろんな人の表情を、
見て、観察して、覚えておく。

福ちゃんは、撮影現場のはしっこの方にいたけど、
いろんなことを、じっと見てたから、
興味をもったのよ、と。

私の、ひっこみ思案な性格を、
そんな風に肯定的に言ってくれた人は、
はじめてだったかもしれない。

2024年がはじまった。
やっぱり私にとって、新年といえば、樹木希林。

樹木さんが神様としてまつられている神社があったら、
間違いなく、初詣はそこに行きたい。(おわり)
.


出演者情報:遠藤守哉

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佐藤充 2023年12月24日「ほっとけない男」

ほっとけない男

  ストーリー 佐藤充
     出演 遠藤守哉

ある日、ラーメン屋で遅い昼食を食べていると、
懐かしい歌が流れてきた。
Janne Da Arc(ジャンヌダルク)だった。
Janne Da Arcとは日本のビジュアル系ロックバンドである。

ラーメンとジャンヌ。
中野でシェアハウスをしていた頃を思い出す。

シェアハウスには、いろんな人間が暮らしていた。

実家に霊の通る道があることから霊道と呼ばれる男。
歌舞伎町でホストをしているから歌舞伎町と呼ばれる男。
歌舞伎町が連れ込んだキャバ嬢と呼ばれる女。
歌舞伎町の彼女でリストカットをすることからリスカと呼ばれる女。
研究でいつもバングラデシュにいるからバングラと呼ばれる女。
北海道から就活で東京に来ていたはずが、
なぜかいつまでも帰らない就活生と呼ばれる男。
オーストラリアのファームでワーホリするはずが、
悪い大人に騙されてダムの建設をやらされていたダムと呼ばれる男。

そんなシェアハウスというより、
動物園と呼んだほうがよさそうな場所にくる前、
歌舞伎町は旭川の梅光軒というラーメン屋で働いていた。

あるとき、
このままラーメンを一生作り続ける人生はつまらない、
とラーメン屋をやめた。

そして広い世界を自分の目で見るために
ラーメン屋の厨房を飛び出し、
ママチャリにまたがり日本一周の旅に出て、
帰ってきてホストになったのが歌舞伎町だった。

歌舞伎町はJanne Da Arcが好きで、
よく部屋で曲を流していた。

みんなが寝静まりゆっくり読書をしていた深夜3時だった。
誰かが帰ってきた。そこには顔面真っ青な歌舞伎町がいた。

「どうした?仕事は?」と聞くと、
「いや、気絶したから早上がりしてきた」と答える。

歌舞伎町はお酒が飲めないうえに
体調が悪い状態でお酒を飲むと気絶する体質だった。

ホストとして致命的だった。
だからこそ、ほっとけない男だった。

シェアハウスの仲間たちで
月に1度の食事会をしているときだった。
歌舞伎町にもっと広い世界を見てほしいと
ひとりで初めての海外旅行に行ってみてはどうかと提案してみた。

「でも普通に行くんじゃつまらなくない?」と誰かが言うので、
関口宏のフレンドパークのようにルーレットで決めて
その場で航空券を買うことになった。

ルーレットには30カ国ほどの候補地の都市が書かれていた。
歌舞伎町の初海外は楽しい思い出になってほしい。
僕らも関口宏のフレンドパーク的に言えばタワシぐらい
バンコクやハワイやニューヨークなどを多く面積広めに、
パジェロぐらい小さめに大変そうな都市を入れて作った。

そしてルーレットを回す。

「パジェロ、パジェロ」と盛り上がる。
ルーレットがゆっくりとゆっくりと止まる。

止まった先はタワシのように広く大きく作ったところではなく、
パジェロのように狭く小さいところだった。

小さすぎて文字が認識できないので、
誰かが近づき書かれた国名を読む。

パキスタンだった。

さっきまでの「パジェロパジェロ」との盛り上がりが
嘘みたいに静かになる。

「本当に航空券取るよね?」と誰かが沈黙を破る。
調べてみるとパキスタンへの直通の便はなく、
インドのデリーへ行き、そこからパキスタンへ行くことになった。

歌舞伎町がパキスタンへ行っている3週間は、
ほっとけない男を、さらにほっとけない男にした。
全員がLINEに既読がつかないか、SNSに更新がないかを常に見ていた。

予定より1週間早く帰国した歌舞伎町にパキスタンの感想を聞いた。
何を聞いても「あの花」の感想しか返ってこなかった。
「あの花」とは「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」という
秩父を舞台にしたアニメのことである。

歌舞伎町はパキスタンが怖いので宿にこもり
ずっとアニメを見るという日本でもできることをしていたらしい。

ラーメン屋のBGMがJanne Da Arcで、
僕は久しぶりに歌舞伎町に会いたくなり
「今度飲もう」とLINEをした。

1ヶ月くらいして
「2年後だったら会える」と返信があった。

歌舞伎町は、どこで何をしているのだろう。
本当にほっとけない。
.


出演者情報:遠藤守哉

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川野康之 2023年11月12日「水平線と臆病者」

水平線と臆病者

    ストーリー 川野康之
       出演 遠藤守哉

海というのは不思議なものだ。
一人で海と向かい合うのは、甘美であるけれど、危険でもある。
あの穏やかな水平線の下には何か得体の知れないものがある。

初めて沖縄ロケに行った時、海のあまりの美しさにじっとしていられず、
一人でこっそり海に入って、ガンガゼというウニに刺された。
ガラスの破片でアキレス腱を切ったかと思うほど、激烈な痛みだった。
おそるおそる海を出て、売店で電話を借りてタクシーを呼び、
近くの医者に連れて行ってもらった。
かかとにウニの針が刺さっていた。
ウニの針には返しがあって抜くことはできない。
これから徐々に毒が回って熱が出ます。
なるべく涼しいところで安静にするように、と医者は言った。
そっと海岸に引き返し、現場に戻った。
誰にも話せない。
高揚した気持ちはしぼんでいた。
その日は一日中、日陰にいた。
熱で朦朧となりながら、輝く水平線を眺めていた。

水平線の下には何かがある。
竜宮城の伝説はほんとのことなんじゃないかと私は思う。
インド洋の島に行った時のことである。
誰もいないビーチの海に入って、
鮮やかな青や黄色の魚たちを追いかけていた。
数メートル先に中型犬ぐらいの大きさの亀がいた。
じっと停まって、流し目で私を見ていた。
私が近づくと、ゆっくりと逃げる。
数メートル先で停まって、また流し目で見ている。
追いかけると、ゆっくりと逃げる。
そのうち海の底がふいに深くなった。
水の色が変わり、冷たくなった。
亀は私を誘っていた。
「行こうぜ」
あぶない。
目をそらして水面に上がった。岸が思ったよりも遠くにあった。
必死で泳いだ。
やっとビーチにたどり着いて、砂の上に倒れ込んだ。
「臆病者め」
波音に混じって亀が笑っているような気がした。

何度目かの沖縄ロケで、とある離島に来ていた。
私は一人で砂浜に座って水平線を眺めていた。
沖合を一艘のヨットが走っている。
ヨットではなくウィンドサーフィンだった。
風を受けて、というより風そのもののように軽やかに水面を滑っていた。
あんな風に自由に海を駆け回れたらどんなにいいだろうと思った。
気がつくと、私の隣に女の人が座っていた。
「撮影?」
私の後ろを目で示して彼女は聞いた。
「うん。でもまだ準備中なんです」
「このへんは撮影多いよ」
「きれいですからね、このへんは」
彼女はどこから現れたのだろうか。
鮮やかなビキニの下によく日に焼けた肌。
髪が濡れ、引きしまった体を伝って水滴がしたたっている。
たった今海から出てきたようだ。
波打ち際の近くにボードとセールが置いてあった。
あれに乗ると自由になれるだろうか。
「行ってみる?」
「いややめときます」
彼女は笑った。そして立ち上がった。
家に帰るという。
「近くの島なの。ここよりもっときれいなところ」
彼女は慣れた動作でボードに乗り、セールを引き上げた。
風を受けて沖に向かって進む。
その姿がぐんぐん小さくなって、水平線のあたりで点になって消えた。
「Kさーん」
誰かが私を呼んでいた。
振り向くとロケコーディネーターのN君だった。
「さっきからずっと呼んでたんですけど」
「ごめんごめん、ウィンドサーフィンの美人と話し込んじゃってさ」
「え、ホントっスか?」
「ずっとここにいた。見たでしょ?」
「気がつかなかったなあ」
N君は不思議そうである。
「時々こっち見てたんですけど。全然気がつかなかったなあ」
私はふと気になって聞いてみた。
「あの水平線の向こうにさ、島とかある?」
N君はこの島の人である。
「あっちスか?」
水平線を見てちょっと考えていたが、
「台湾スかね。でも300km以上あるかなあ」
と言った。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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