ナイフ
ストーリー 照井晶博
出演 遠藤守哉
彼は焦っていた。ものすごく焦っていた。
締切をとうに過ぎているからだ。
締切をとうに過ぎておきながら、連絡すらできずにいたからだ。
「ナイフ」というテーマで6月1日締切で、と彼は言われていた。
はい、やります。と返事をしたのは彼だ。
しかし、今日は何日だ。6月21日じゃないか。
1日2日というかわいい日数ではない。
ハツカだ。ニジュウニチだ。
あぁ、なんということをしてしまったんだろう。
いや……おれだって大変だったんだ。
毎日毎日、仕事でそれはもういろんなことが起きた。
寝る時間を削りそれに対応するので精一杯だったんだ。
いや、言い訳はするまい。というか、もうかなりしてしまった。
みっともない。
彼は深いため息をついた。
ナカヤマさん、怒ってるかな。怒ってるよな……。
なんかもうあわせる顔がないよなこれ……。
と思っていたら、ナカヤマさんからメールが届いた。
彼はおおいに焦った。
メールにはいったいなんて書いてあるのだろう。
怖くて開けない……。
彼は深い深いため息をついた。
あぁ、なんてことをしてしまったのだろう。
こんなとき、どうやってお詫びをしたらいいんだろう。
切腹……。
そうだ。切腹だ。
約束をたがえた責任は、昔の人なら腹を切って詫びたのではないだろうか。
彼はさっそくウィキペディアで「切腹」を調べてみた。
「切腹」とは、
平安時代末期の武士である源為朝が
最初に行なったと言われているそうだ。
時代劇の切腹シーンでは、首をはねる介錯人が描かれるが、
戦国時代や江戸時代初期には介錯人がつかず、
腹を十文字に裂いたり、内臓を自分で引きずり出すという、
想像しただけで倒れてしまいそうなほど痛そうな切腹もあったらしい。
しかし、江戸時代中期には切腹も形式化され、
短刀ではなく、扇子や木刀が使われたのだという。
扇子や木刀を短刀に見立て、扇子や木刀に手をかけようとした瞬間に、
介錯人に首を切られる…ということだったそうだ。
赤穂浪士の切腹も、身分が高かった大石内蔵助ら数人以外は、
扇子や木刀を使用したらしい。
自分で自分の腹に刀を突き立て、
尋常じゃない痛みに耐えながら切り裂かなくていいのは
ありがたい気もするのだが、
後ろから首を日本刀で切られるわけだからものすごく痛いに違いない。
ナイフで指先をちょっと切っただけでも痛いというのに、
自分で自分の腹をぐいぐい切らなきゃいけなかった昔の人は
なんて大変だったんだろう。
彼はため息をつく。しかし、そのため息は、さっきまでのものと違う。
あぁ、いまが昔じゃなくて本当によかった。
いまが2013年で本当によかった。
彼は、心からそう思う。
切腹をすることでけじめをつけていった昔の人々のことを思いながら、
でも、自分はこの時代でよかったと心から思う。
なんていい時代に生まれたんだろう。
なんていい時代に生きているんだろう。
ラジオをお聞きのみなさん、
わたしたちはいま、昔から見たらとてもしあわせな時代に
生きているんですよね。
出演者情報:遠藤守哉 青二プロダクション http://www.aoni.co.jp/