蛭田瑞穂 2023年10月8日「ミステリーブラックの雨」

「ミステリーブラックの雨」

ストーリー 蛭田瑞穂
出演 遠藤守哉

シャーロック・ホームズと友人の医師ジョン・ワトスンは
ベーカー街221Bの下宿を出て、
オックスフォードストリートに向かっていた。

目的は、新たに出版された科学論文を書店で手に入れることで、
その論文にはホームズが関心を寄せている、
毒物の識別手法についての記述が含まれていた。

ふたりの足元にはロンドン特有の石畳が広がり、
通りにはヴィクトリア朝時代の優雅な建築物が並んでいた。
平凡だが穏やかな、秋の午後だった。

しかし、平穏は長くは続かなかった。
空が不自然な速さで暗くなると、突如として黒い雨が降り出した。

「何だろう?この黒い雨は」
ワトスンが驚きと不安が入り混じった表情でつぶやいた。
ホームズは手のひらで雨粒を受けると、注意深くそれを観察した。
「ワトスン、これはインクだよ。この独特の色調と香りから察するに、
 モンブラン社の高級インク、ミステリーブラックといったところだろう」

大量のインクが街頭に打ちつけ、石畳は瞬く間に黒く染まった。
それはまるで闇夜を流れる川のようだった。

ホームズは深く考え込んでいる。
複雑な推論や仮説が頭の中で組み立てられているようだった。
「ホームズ、君は何か考えがあるようだね」
ワトスンは尋ねた。
「これが通常の理論で説明がつかない状況なのは確かだ。
 インクが降ってくるという現象は、僕らが何らかの枠組み、
 おそらく、物語の中で操られている可能性を示唆している」

「物語だって?」
ワトスンの声には明らかな疑念が滲んでいた。
「確かに、これはにわかに信じがたい事態だ。
 僕らが現実だと認識しているこの世界が、
 すべてつくりものということだからね。
 馬鹿げているようだが、それ以外にこのような
 奇怪な現象を説明する方法を僕は知らない」

先ほどまで商人や物乞いが声を上げていた通りは、
今や幽霊が出現してもおかしくないほどの不気味な静寂に包まれている。

「だったら我々はどうすればいい?」
ワトスンは上ずった声をあげた。
「なに、案ずることはないよ、ワトスン。
 僕の推察では、この現象は作者の創作上の苦悩か、
 執筆の焦りから生じたもの。
 だが、そんな状態が永遠に続くわけがない。
 コーヒーでも飲んでこの雨を遣り過ごすとしよう」

時計台の鐘が鳴った。

アーサー・コナン・ドイルは執筆の手を止め、万年筆を置いた。
手元のカップにコーヒーを注ぎ、熱い液体をゆっくりと口に運びながら考える。
物語の中でホームズとワトスンが事件に困惑する姿を思い浮かべ、
この先どう進めるべきかを模索した。

しばらく考えた後、新たなアイデアが浮かび、
ドイルの顔に小さな笑みがこぼれた。
物語が動き出そうとしている。
ドイルは再び、万年筆を手に取った。
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出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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山中貴裕 2023年10月1日「取調室」

取調室

    ストーリー 山中貴裕
       出演  遠藤守哉

刑事さん、何度も言いますけど。
私はやってませんから。
さっきも言いましたけど、
昨日は近所のドトールコーヒーで
モンブラン食べながらコピーを書いてたんです。
はい。コピーライターだからコピーを書くのが仕事です。
もう一度、昨日の朝からの行動を説明しますね。
昨日は土曜日だったけど
締め切りが迫ってるコピーがあったんで
8時に起きてすぐにいつものドトールに行ったんです。
え?土曜なのに働くのかって?
「フリーランスは休日働いてなんぼだろ」って、
なにかの映画でリリー・フランキーが言ってましたけど、
そうなんです。
フリーの人間には土曜も日曜もないんです。
盆も正月もないんです。
頼まれた仕事を締め切りまでに確実に納品しないと
食っていけないですから。
もうこういう生活を10年以上やってますからね、
慣れましたよ。
で、結局、モンブラン食べてコーヒーを2杯おかわりして
2時間ぐらい粘ったけどいいコピーが書けなくて、
気分を変えようと思って店を替えたんですよ。
どこの店だって?
駅の反対側にあるドトールです。
いやいやいや!不自然じゃないですって!
いつもそうなんですって!
私は、ドトールじゃないと仕事できないんですって。
スタバとかコメダとかじゃなくて、
ドトールじゃないと落ち着かないんですよ。まじで。
そこでまたモンブランを頼んで、コピーを。
いやいやいや。ルーティンなんですよ、
ドトールのモンブランが。
甘いモンブランを食べながら苦いコーヒーを飲むと、
いいコピーが書けるんです。
いや、書けないことも多いけど。。。
あそこの店員さんに聞いてみてくださいよ。
ほぼ毎日通ってるから、
絶対、私の顔を覚えてるはずですよ。
いつもモンブラン頼んで、
テーブルにノートをひろげて
鉛筆にぎりしめながら
暗い顔で考え込んでる無精ひげの男なんて、
絶対、気持ち悪いと思うんですよ。
「あのおっさん、なんの仕事してるんだろう?」って、
きっとそう思われてるから。
昨日もお昼過ぎまで店に居たからきっと覚えてますよ。
これでアリバイ成立でしょ?
え?殺されたのも同じコピーライター?
いや、あいつはでっかい広告代理店の
コピーライターだから、
ほんとはコピーなんか書いてませんよ!
ぜんぶ、私らみたいな人間に外注して、
土日はのんびり家族とバーベキューでもしてますよ。
殺されて当然のヤツですよ。
って、いやいやいや!
今のは口が滑ったんです!
刑事さん、そんな怖い顔しないでくださいよ!
ほんとうに、私はただの
しがないフリーのコピーライターなんですから。
はい?被害者はクリエイティブディレクターという肩書きも持ってた?
はいはいはい。
代理店の連中は、
そういう何となくエラソーな肩書きを名乗るんですが、
さっきも言いましたけど、
あいつら実際はなんにも仕事してないですからね。
最近じゃ、
「デジタルなんちゃら」とか
「なんとかトランスフォーメーション」とか
横文字並べて誤魔化してますけど、
実態は何も無い
「空気」みたいなもんですから。
殺されたあいつも、
ほんと、昔から口だけは達者な
詐欺師みたいな人間でしたからね。
きっと騙した誰かに、刺されたんでしょ。
。。。え?
なんで、刺されたって、知ってるんだって?
。。。も、もう帰っていいですか?
今夜もコピーの締め切りがあるんです!
警察に捕まったって言えば、
クライアントも許してくれるかなぁ。。。
はぁ。。。モンブラン食べたい。。。
.


出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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牛人

 

牛人

 作:中島敦
 朗読:遠藤守哉

魯の叔孫豹《しゅくそんひょう》がまだ若かった頃、
乱を避けて一時|斉《せい》に奔《はし》ったことがある。
途《みち》に魯の北境|庚宗《こうそう》の地で一美婦を見た。
俄《にわ》かに懇《ねんご》ろとなり、一夜を共に過して、
さて翌朝別れて斉に入った。
斉に落着き大夫《たいふ》国氏《こくし》の娘を娶って二児を挙げるに及んで、
かつての路傍一夜の契《ちぎり》などはすっかり忘れ果ててしまった。

 或夜、夢を見た。四辺《あたり》の空気が重苦しく立罩《たちこ》め
不吉な予感が静かな部屋の中を領している。
突然、音も無く室の天井が下降し始める。
極めて徐々に、しかし極めて確実に、それは少しずつ降りてくる。
一刻ごとに部屋の空気が濃く淀《よど》み、呼吸が困難になってくる。
逃げようともがくのだが、身体は寝床の上に仰向いたままどうしても動けない。
見えるはずはないのに、
天井の上を真黒な天が盤石《ばんじゃく》の重さで押しつけているのが、
はっきり判る。
いよいよ天井が近づき、堪え難い重みが胸を圧した時、
ふと横を見ると、一人の男が立っている。
恐ろしく色の黒い傴僂で、眼が深く凹《くぼ》み、獣のように突出た口をしている。
全体が、真黒な牛に良く似た感じである。
牛! 余《われ》を助けよ、と思わず救を求めると、その黒い男が手を差伸べて、
上からのし掛かる無限の重みを支えてくれる。
それからもう一方の手で胸の上を軽く撫《な》でてくれると、
急に今までの圧迫感が失《なくな》ってしまった。
ああ、良かった、と思わず口に出したとき、目が醒《さ》めた。

 翌朝、従者下僕らを集めて一々|検《しら》べて見たが、
夢の中の牛男《うしおとこ》に似た者は誰もいない。
その後も斉の都に出入する人々について、それとなく気を付けて見るが、
それらしい人相の男には絶えて出会わない。

 数年後、再び故国に政変が起り、叔孫豹は家族を斉に残して急遽帰国した。
後、大夫として魯の朝《ちょう》に立つに及んで、初めて妻子を呼ぼうとしたが、
妻は既に斉の大夫某と通じていて、一向夫の許に来ようとはしない。
結局、二子|孟丙《もうへい》・仲壬《ちゅうじん》だけが父の所へ来た。

 或朝、一人の女が雉《きじ》を手土産に訪ねて来た。
始め叔孫の方ではすっかり見忘れていたが、話して行く中にすぐ判った。
十数年前斉へ逃れる道すがら庚宗の地で契った女である。
独りかと尋ねると、倅《せがれ》を連れて来ているという。
しかも、あの時の叔孫の子だというのだ。
とにかく、前に連れてこさせると、叔孫はアッと声に出した。
色の黒い・目の凹んだ・傴僂なのだ。
夢の中で己を助けた黒い牛男にそっくりである。
思わず口の中で「牛!」と言ってしまった。
するとその黒い少年が驚いた顔をして返辞をする。
叔孫は一層驚いて、少年の名を問えば、「牛と申します」と答えた。

 母子ともに即刻引取られ、少年は豎《じゅ》(小姓)の一人に加えられた。
それ故、長じて後もこの牛に似た男は豎牛《じゅぎゅう》と呼ばれるのである。
容貌に似合わず小才の利く男で、すこぶる役には立つが、
いつも陰鬱《いんうつ》な顔をして少年仲間の戯れにも加わらぬ。
主人以外の者には笑顔一つ見せない。
叔孫にはひどく可愛がられ、長じては叔孫家の家政一切の切廻しをするようになった。

 眼の凹んだ・口の突出た・黒い顔は、
ごく偶《たま》に笑うとひどく滑稽な愛嬌《あいきょう》に富んだものに見える。
こんな剽軽《ひょうきん》な顔付の男に悪企《わるだくみ》など出来そうもない
という印象を与える。目上の者に見せるのはこの顔だ。
仏頂面をして考え込む時の顔は、ちょっと人間離れのした怪奇な残忍さを呈する。
儕輩《さいはい》の誰彼が恐れるのはこの顔だ。
意識しないでも自然にこの二つの顔の使い分けが出来るらしい。

 叔孫豹の信任は無限であったが、後嗣《あとつぎ》に直そうとは思っていない。
秘事ないし執事としては無類と考えていたが、
魯の名家の当主とは、その人品からしてもちょっと考えにくいのである。
豎牛ももちろんそれは心得ている。
叔孫の息子たち、殊に斉から迎えられた孟丙・仲壬の二人に向かっては、
常に慇懃《いんぎん》を極めた態度をとっている。
彼らの方では、幾分の不気味さと多分の軽蔑とをこの男に感じているだけだ。
父の寵《ちょう》の厚いのに大して嫉妬《しっと》を覚えないのは、
人柄の相違というものに自信をもっているからであろう。

 魯の襄公《じょうこう》が死んで若い昭公の代となる頃から、
叔孫の健康が衰え始めた。
丘蕕《きゅうゆう》という所へ狩りに行った帰りに悪寒を覚えて寝付いてからは、
ようやく足腰が立たなくなって来る。
病中の身の廻りの世話から、病床よりの命令の伝達に至るまで、
一切は豎牛一人に任せられることになった。
豎牛の孟丙らに対する態度は、しかし、いよいよ遜《へりくだ》ってくる一方である。

 叔孫が寝付く以前に、長子の孟丙のために鐘を鋳させることに決め、
その時に言った。
お前はまだこの国の諸大夫と近附になっていないから、
この鐘が出来上ったら、その祝を兼ねて諸大夫を饗応するが宜《よ》かろうと。
明らかに孟丙を相続者と決めての話である。
叔孫が病に伏してから、ようやく鐘が出来上った。
孟丙は、かねて話のあった宴会の日取の都合を父に聞こうとして、
豎牛にその旨を通じてもらった。
特別の事情が無い限り、豎牛の外は誰一人病室に出入出来なかったのである。
豎牛は、孟丙の頼を受けて病室に入ったが、叔孫には何も取次がない。
すぐ外へ出て来て孟丙に向かい、
主君の言葉として出鱈目《でたらめ》な日にちを指定する。
指定された日に孟丙は賓客を招き盛んに饗応して、その座で始めて新しい鐘を打った。
病室でその音を聞いた叔孫が怪しんで、あれは何だと聞く。
孟丙の家で鐘の完成を祝う宴が催され多数の客が来ている旨を、豎牛が答える。
俺の許も得ないで勝手に相続人面《づら》をするとは何事だ、と病人が顔色を変える。
それに、客の中には斉にいる孟丙殿の母上の関係の方々も遥々見えているようです、と
豎牛が附加える。
不義を働いたかつての妻の話を持出すといつも叔孫の機嫌が見る見る悪くなることを、
良く承知しているのだ。
病人は怒って立上がろうとするが、豎牛に抱きとめられる。
身体に障ってはいけないというのである。
俺がこの病でてっきり死ぬものと決めて掛かって、
もう勝手な真似を始めたのだなと歯咬《はが》みをしながら、叔孫は豎牛に命ずる。
構わぬ。引捕らえて牢《ろう》に入れろ。抵抗するようなら打殺しても宜《よ》い。

 宴が終り、若い叔孫家の後嗣は快く諸賓客を送り出したが、
翌朝は既に屍体《したい》となって家の裏藪《うらやぶ》に棄てられていた。

 孟丙の弟仲壬は昭公の近侍《きんじ》某と親しくしていたが、
一日友を公宮に訪ねた時、たまたま公の目に留《とま》った。
二言《ふたこと》三言《みこと》、その下問に答えている中に、気に入られたと見え、
帰りには親しく玉環《ぎょっかん》を賜わった。
大人しい青年で、親にも告げずに身に佩《お》びては悪かろうと、
豎牛を通じて病父にその名誉の事情を告げ玉環を見せようとした。
牛は玉環を受取って内に入ったが、叔孫には示さない。
仲壬が来たということさえ話さぬ。再び外に出て来て言った。
父上には大変御喜びですぐにも身に着けるようにとのことでした、と。
仲壬はそこで始めてそれを身に佩びた。数日後、豎牛が叔孫に勧める。
既に孟丙が亡い以上、仲壬を後嗣に立てることは決まっている故、
今から主君昭公に御目通りさせては如何。叔孫がいう。
いや、まだそれと決めた訳ではないから、今からそんな必要はない。
しかし、と牛が言葉を返す。
父上の思召《おぼしめし》はどうあろうと、息子の方では勝手にそう決め込んで、
もはや直接君公に御目通りしていますよ。
そんな莫迦《ばか》な事があるはずは無いという叔孫に、
それでも近頃仲壬が君公から拝領したという玉環を佩びていることは確かですと
牛が請け合う。
早速仲壬が呼ばれる。果たして玉環を佩びている。公からの戴きものだという。
父は利かぬ身体を床の上に起こして怒った。
息子の弁解は何一つ聞かれず、すぐにその場を退いて謹慎せよという。
 その夜、仲壬はひそかに斉に奔《はし》った。

 病が次第に篤《あつ》くなり、
焦眉《しょうび》の問題として真剣に後嗣のことを考えねばならなくなった時、
叔孫豹はやはり仲壬を呼ぼうと思った。豎牛にそれを命ずる。
命を受けて出ては行ったが、もちろん斉にいる仲壬に使を出しはしない。
さっそく仲壬の許へ使を遣わしたが
非道なる父の所へは二度と戻らぬという返辞だったと復命する。
この頃になってようやく叔孫にも、この近臣に対する疑いが湧《わ》いて来た。
汝《なんじ》の言葉は真実か? と吃《きつ》として聞き返したのはそのためである。
どうして私が偽《いつわり》など申しましょう、と答える豎牛の唇の端が、
その時|嘲《あざけ》るように歪《ゆが》んだのを病人は見た。
こんな事はこの男が邸に来てから全く始めてであった。
カッとして病人は起上ろうとしたが、力が無い。すぐ打倒れる。
その姿を、上から、黒い牛のような顔が、
今度こそ明瞭な侮蔑《ぶべつ》を浮かべて、冷然と見下す。
儕輩や部下にしか見せなかったあの残忍な顔である。
家人や他の近臣を呼ぼうにも、
今までの習慣でこの男の手を経ないでは誰一人呼べないことになっている。
その夜病大夫は殺した孟丙のことを思って口惜し泣きに泣いた。

 次の日から残酷な所作が始まる。
病人が人に接するのを嫌うからとて、食事は膳部の者が次室まで運んで置き、
それを豎牛が病人の枕頭に持って来るのが慣わしであったのを、
今やこの侍者が病人に食を進めなくなったのである。
差出される食事はことごとく自分が喰ってしまい、からだけをまた出して置く。
膳部の者は叔孫が喰べたことと思っている。
病人が餓を訴えても、牛男は黙って冷笑するばかり。返辞さえもはやしなくなった。
誰に助を求めようにも、叔孫には絶えて手段が無いのである。

 たまたまこの家の宰《さい》たる杜洩《とせつ》が見舞に来た。
病人は杜洩に向って豎牛の仕打を訴えるが、
日頃の信任を承知している杜洩は冗談と考えててんで取合わない。
叔孫がなおも余り真剣に訴えると、
今度は熱病のため心神が錯乱したのではないかと、いぶかる風である。
豎牛もまた横から杜洩に目配《めくばせ》して、
頭の惑乱した病者にはつくづく困り果てたという表情を見せる。
しまいに、病人はいら立って涙を流しながら、痩せ衰えた手で傍の剣を指し、
杜洩に「これであの男を殺せ。殺せ、早く!」と叫ぶ。
叔孫は衰え切った身体を顫わせて号泣する。
杜洩は牛と目を見合せ、眉をしかめながら、そっと室を出る。
客が去ってから始めて、牛男の顔に会体の知れぬ笑が微《かす》かに浮かぶ。

どうしても自分が狂者としてしか扱われないことを知ると
 餓と疲れの中に泣きながら、いつか病人はうとうとして夢を見た。
いや、眠ったのではなく、幻覚を見ただけかも知れぬ。
重苦しく淀んだ・不吉な予感に充ちた部屋の空気の中に、
ただ一つ灯が音も無く燃えている。
輝きの無い・いやに白っぽい光である。
じっとそれを見ている中に、ひどく遠方に——十里も二十里も彼方にあるもののように感じられて来る。
寝ている真上の天井が、いつかの夢の時と同じように、徐々に下降を始める。
ゆっくりと、しかし確実に、上からの圧迫は加わる。逃れようにも足一つ動かせない。
傍を見ると黒い牛男が立っている。救を求めても、今度は手を伸べてくれない。
黙ってつッ立ったままにやりと笑う。
絶望的な哀願をもう一度繰返すと、急に、慍《おこ》ったような固い表情に変り、
眉一つ動かさず凝乎《じっ》と見下す。
今や胸の真上に蔽いかぶさって来る真黒な重みに、最後の悲鳴を挙げた途端に、
正気に返った。……

 いつか夜に入ったと見え、暗い部屋の隅に白っぽい灯が一つともっている。
今まで夢の中で見ていたのはやはりこの灯だったのかも知れない。
傍を見上げると、これまた夢の中とそっくり[#「そっくり」に傍点]な豎牛の顔が、
人間離れのした冷酷さを湛えて、静かに見下している。
その貌《かお》はもはや人間ではなく、真黒な原始の混沌《こんとん》に根を生やした
一個の物のように思われる。
叔孫は骨の髄まで凍る思いがした。己を殺そうとする一人の男に対する恐怖ではない。
むしろ、世界のきびしい悪意といったようなものへの、
遜《へりくだ》った懼《おそ》れに近い。
もはや先刻までの怒は運命的な畏怖《いふ》感に圧倒されてしまった。
今はこの男に刃向《はむか》おうとする気力も失せたのである。

 三日の後、魯の名大夫、叔孫豹は餓えて死んだ。

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名雪祐平 2023年6月18日「滝の奥」

滝の奥

ストーリー 名雪祐平
   出演 遠藤守哉

俺はくたくただ。重力よ、倍になったか? ダルい。
飛行機を3回乗り継ぎ28時間、車で熱帯雨林の奥へ3時間、
そこから初めて乗る馬に揺られ、ようやっと、たどり着いた。
チリ南部、パタゴニア地域にあるウィロウィロの滝が
いま目の前に聳り立つ。これが見たかった。

滝はあくまで白く、美しく、ウエディングドレスのようだ。
でもね、永遠に新郎が現れず、立ち尽くす新婦にも見えた。
腹の底からの女の本音か、水音はドドドドと唸る。

疲れ切って、じーっと滝を見つめちゃダメだった。
滝が俺なのか、俺が滝なのか、感覚がバカになってきた。
いつのまにか世界が逆再生してて、水は滝壺から上へ向かって
“堕ちる”。

半年前。璃子の結婚披露宴で、事は起こった。
璃子が男にモテていたのか、あまり知らない。
男っ気のある話を軽々しくするタイプではなかった。
俺たちはよく二人で飲みに行ったが、男と女ではなかった。
すごく信頼できる仕事仲間だった。

フレンチレストランでの披露宴は、
80人ほどの招待客がそれぞれの丸テーブルに陣取っていた。
宴の中ごろ、テーブルごとに記念写真を撮影するために、
新郎新婦がこっちに近づく。
まばゆく揺らぐAラインのウエディングドレス。
璃子が白い滝を着ているようだった。
立ち上がった俺の隣りに、璃子がぴったり寄り添った。
ドレスのふわふわに、俺の右手が埋まった。
その時。璃子の左手の指がからんできて、ぎゅっと強く握られた。
白い死角の中で、俺も握り返した。
だって、そうするしかないだろうよ。
そのまま璃子のやつ、新郎と腕を組みながら、
何事もないようにカメラに向かって笑っていた。

つぎのテーブルへ去る璃子。ほどける指と指。
あれはなんだったんだろ?
おたがい、あの日の出来事について確かめることはしていない。
ふれてはいけない予感があって。
記念写真もどんな感情で見ればいいかわからなかった。

ふと我にかえると、西陽になっていた。
ほんのちょっと橙色がかったウィロウィロの滝が、
ドドドドと唸っていた。

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出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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川田琢磨 2023年6月4日「乾燥と蒸発」

乾燥と蒸発

   ストーリー 川田琢磨
      出演 遠藤守哉

「雲はどうやって生まれるの?」
小学生になった息子に、そんな質問をされた。

「なんでだろう、一緒に考えてみよう」
とでも言えば、賢い子に育ったかもしれない。

「神様が、わたあめ作ってるんだよ」
とでも言えば、想像力を伸ばせたかもしれない。

理系脳の私は、反射的に答えてしまった。

暖かい空気と、冷たい空気が混ざると、
暖かい空気から水滴が絞り出されます。
寒い日に息が白くなるのと一緒。
あの白いのは、小さな水滴の集まりで、それが雲の正体だ、と。

ポカーンとする息子を見て、すぐ我に返った。
また彼から考える機会を奪ってしまった。
なんと大人げないことをしてしまったのだろう。
わかったのかわかってないのか、
息子は「ふーん」とだけ返事をして、その会話は終わった。

それからしばらく経ったある日の夕方。
息子が空を見上げながら、こんなことをつぶやいた。
「飛行機雲が短いから、明日は晴れだね」

衝撃だった。
彼はもう、雲のメカニズムを理解しているではないか。

短い飛行機雲、つまり、すぐに消える飛行機雲とは、
雲を構成する小さな水滴が簡単に蒸発してしまうほど、
空が乾いている証拠。
だから天候にも恵まれやすい。

それを理解していなければ、飛行機雲の長さと天気の関係に、
どうして気付けようか。

私は「その通り!」と叫びたい気持ちをグッと堪え、
一拍置いてから、「どうしてそう思ったの?」と水を向けてみた。
原理を説明するのは、今度は君の役目。
私も父として成長し、君も成長した。
いよいよ、自然現象に対するうんちく語り、世代交代の瞬間である。

胸を張って、堂々と、君は答えた。
「ネットで言ってた。なんでかは知らない」

私が君に向けた水は、私の乾いた笑いとともに、
空の彼方へ蒸発していった。

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出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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ポンヌフ関 2023年5月21日「猫の墓」

猫の墓

  ストーリーと絵 ポンヌフ関
     出演 遠藤守哉

散歩の途中夕立にあって急いで帰宅したとき
引き出しがあいて、妙な物が出てきた
お、おまえは?
「吾輩は 猫   型ロボットである
名前はまだない」
猫が、、、しゃべった!
私はその頃大学の教師をしていたが
教師というものがほとほといやになっていた
「気晴らしに
小説なんか書いてみたら どうかな?」

いや私もね、
英国に留学して英文学を研究したんだが
いざ自分で書こうとすると全然ダメなんじゃ
猫は腹にカンガルーのような袋を持っていて
そこから何かを取りだした

「なりきり文豪ペン!
これを使えば100年後にも残るような素敵な文章が書けるんだ」

私はその晩一気に書き上げた
この不思議な猫を主人公にした話を
友人の正岡子規に褒められて 世に問うと 大喝采を受けた
このペン最高だね
かくして彼は流行作家となった
小説の最後ではビールにおぼれさせて猫を殺してしまったが
その後も猫とペンと私は快進撃
しかし、三四郎を書いているときであった

「諸般の事情でもう帰らなきゃいけなくなったんだ
このペンも返してもらうよ」
それは困る

バキッ

な、なんということを

「大丈夫、これはただのおもちゃのペン
あんたは最初から自分で書いたんだよ
もう一人でやっていけるさ」
待ってくれ ね、ねこー!猫型ロボットー

名前を 
付けておけばよかった

私は偽の猫の死亡通知を知り合いに送り
庭に墓を作った

この下に
稲妻起こる  
宵あらん

夏目漱石が猫の死に添えた句といわれている
散歩の途中夕立にあうと あやつ どうしておるかと 思い出す
夏目漱石享年49歳
猫との出会いが無かりせば
名もなき英語教師で終わっていたであろう

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出演者情報:遠藤守哉(フリー)


shoji.jpg  動画制作:庄司輝秋

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