井田万樹子 2022年5月8日「だんご3おじさん」

だんご3おじさん

     ストーリー 井田万樹子
            出演 遠藤守哉

僕の家の近くには、とても広い公園がある。
都会の真ん中にあるのに、自然の森が残っていて 大きな池もあって、
週末はバーベキューをする人や
スケートボードをする人なんかで賑わっている。
僕はその公園に行って、誰もこない静かな場所を見つけるのが好きだ。
一面に緑が広がって、気持ちのいい風がずっと吹いている。
でも誰もいない。
そんな場所を見つけると、僕は嬉しくなる。
今日見つけた場所は、最高だった。
寝転がると新緑の青もみじに包まれる。
風が吹くたびに青もみじの葉っぱがさわさわと揺れる。
僕はその場所で、のんびり読書をはじめた。

突然、足元から小さな甲高い声がした。
「ちょっと兄さん、ここ!ここ空いてるわよ!」
草の陰から、小さな丸いものが顔を出した。
「あら、先客がいるわ!」
「あら、ほんと!」
同じような顔が3つ並んでいる。
だんごである。
1本の串に刺さった、3つのだんごなのである。
「仕方ないわよ、弟。
だってこの場所、この公園で1番いい場所だもん」
「そうね、兄さん」
「よいしょ、よいしょ」
だんご達は横一列に並んで、こちらに向かって歩いてくる。
だんごの頭の下には小さな体があって、ちゃんと靴も履いているのだ。

クリッとしたつぶらな瞳。
くるんとカールした立派なヒゲ。太い眉毛。
3人とも、なかなか濃い顔立ちだ。
醤油のタレで焼かれたおでこがツルッと光っていて、
炭火で炙られ香ばしく焦げ目のついた頭は、
今どき珍しいバーコードヘアだ。
3人ともお揃いのブルーのジーンズにすみれ色のシャツを着て、
シャツのお腹はぽっこり出ている。
つまり、なんて言うか、おじさんなのである。
そっくりの顔をした3人の、おじさんの、だんごなのである。
兄さんと呼んでいるところを見ると、兄弟なのだろうか。

「よいしょ、よいしょ」
おじさん達は串にささったまま、せっせとこっちに向かって行進する。
そして僕のすぐ横までやって来ると、
「よっこらしょ!」と、3人同時に小さな石の上に腰をかけた。
「ちょっと…狭いわ!兄さん」
「大丈夫よ、弟!詰めたら座れるわ」「あたし、落っこちちゃう!」
「ねぇ、大兄さん!もうちょっと詰めてよ!」「あんたが詰めなさいよ!」
3つのだんごが、ぎゅうぎゅうに押し合っている。
串の先っぽが僕の足に当たったので、
「いてっ」と思わず僕が声を上げると、
だんご達は一斉に僕を見た。

「こんにちは」
と僕が言うと、だんご達はにっこり笑って、そして、
「ねぇ見て、あたし達、座れたの!」と言った。
こんなに広い公園なのに、どうして僕のすぐ横に座るのだろう。

「ねぇ、兄さん、あの野球選手の名前なんだったかしら?」
「誰よ、あの野球選手って?」
だんごおじさん達は僕のことなんか気にしないで、
ぺちゃくちゃペチャクチャ喋り続けている。
「ほら、友達のお母さんと結婚した〜…」
「何よそれ?」「ほら、なんとかちゃんって呼ばれてて」
「なんとかちゃん?」
「ラミレスじゃなくてマルチーニじゃなくて〜」
「思い出した!ペタジーニよ!」
「だからペタジーニがどうしたのよ?!」
キャッキャっと笑うたびに、
だんごおじさん達のまわりの草がサワサワと揺れる。

しばらくすると、目隠しあそびが始まった。
「だーれだ!」
1番後ろの兄さんだんごが、一生懸命に手を伸ばして、
1番先頭の弟の目を塞いでいる。
真ん中のだんごは間に挟まれて窮屈そうだ。
「だ〜れだ!」
「えーっと…ちい兄さんよね?この手は?! …あれ?やっぱり大兄さんかなぁ?」
「どーっちだ!」
「ちい兄さん!」
「はずれーっ」「あ〜っ」
おじさん達はとても仲がいい。

真ん中のだんごが、肩にかけていた小さなカバンを開けると、
中から小さな水筒とポップコーンを取り出した。
兄さんだんごは右から、弟だんごは左から手を伸ばして、
それぞれポップコーンを食べはじめる。
ぱくぱくぱく
「ねぇ、ちょっと!」ぱくぱく
「ねぇ、ねぇ、あたしが食べれないじゃない!」ぱくぱく
「どうしてあたしがいつもポップコーン持つ係なのよ?!」
「だって、それが…1番食べやすいんだもん」ぱくぱく
「あたしは食べやすくないのっ!」
真ん中ってのは、いつも少し大変そうだ。

気がつくと、だんごおじさん達は昼寝をはじめた。
新緑の風がそっと、おじさん達のヒゲを揺らす。

だんごおじさん達は、いつからこの公園にいるのだろう。
広場の団子屋で焼かれていたのだろうか。
兄弟でこっそり逃げ出してきたのだろうか。
若葉の香りに包まれて、すやすやと寝息が聞こえてくる。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

Tagged: , , ,   |  コメントを書く ページトップへ

窓の向こうには(2022版)

窓の向こうには

      ストーリー 中山佐知子
       出演 遠藤守哉

窓の向こうには薄青い空があった。
食卓にはキリストと12人の弟子たちがいた。
それはダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の絵だ。
キリストはその夜自分が逮捕されて
十字架にかけられることを知っていた。
それでもダ・ヴィンチは窓の向こうに晴れた空を描いた。
見るたびに、
ああ、いい天気だ、とつい思ってしまう。

そういえば、十字架にかけられたキリストの背景が
目も覚めるような青空という絵を見たことがある。
あの絵はどう見ても青空と雲が主役だ。
ラファエロもそうだ。
なんだか牧歌的な十字架のキリストを描いている。
いいお天気で空が美しい。
どうしても空と風景を眺めてしまう。

もしかして、画家が絵を描き始める前の最初の仕事は
天気を決めることではないだろうかと
思ったりする。
晴れの日にするか、曇りにするか、
それとも雨を降らせるかで
全体のトーンが決まるからだ。

神話や伝説にも空があり、天気がある。
黄泉の国から森を抜けて妻を連れ帰るオルフェウスの向こうには
明るい空が見えている。
我が子を殺した王女メディアの絵に
ドラクロワはわずかに青空をのぞかせている。
アーサー王がエクスカリバーを授けられた湖は
白い霧が立ち込めている。
最後の戦いで重傷を負ったアーサーは再びそこに戻り
湖の乙女たちに身を委ねた。

ジークフリートが殺された日も晴れた日だった。
この英雄は森で狩りをしているときに
妻の兄とその家臣の計略で背中に槍を突き立てられるが、
そこは全身不死身のジークフリートの唯一の弱点だった。
槍が刺さったジークフリートが最後に見上げている空は
夕焼けの薄赤い色で、
見ていると赤は悲しい色だなと思えてくる。

神々も英雄もその物語には必ず空がある。
ミケランジェロの「最後の審判」の空は
変化ののない重い青い空で、
やがて世界はこんな空で蓋をされるのかと思う。

出演者情報:遠藤守哉(フリー)

録音:字引康太

Tagged: , , ,   |  コメントを書く ページトップへ

直川隆久「ベンチで笑う人」

ベンチで笑うひと

    ストーリー 直川隆久
       出演 遠藤守哉

真っ白に塗られた顔。真っ赤な口紅。口紅と同じ色の、赤い髪。
彼は、国道沿いのファーストフードチェーンの店先におかれたベンチ、
その中央にゆったりと身をくつろげ、背もたれに腕をかけている。
夏も、冬も。
晴れた日も、雨の日も。
彼は、その色褪せたベンチに座って、じっと笑っている。

その人形…いや、彼は、いつからここに座っているんだろうか。
10年前。いや、20年前からか。
「おいでよ。一緒に写真を撮ろう」とさそいかけるように、
こちらに笑顔をむけ続けている。
たしかに、隣に座れば、
彼に肩を抱かれているように見える写真が撮れるのだろう。
だが、彼の両側はいつも空席のままだ。

昔は、そのチェーンのマスコットとして、
コマ―シャルにもでていて、「人気者」というキャラ設定だったそうだ。
正直、それが納得できない。
彼の、ピエロを模した風貌。
はっきり言って…怖すぎないか?
江戸川乱歩の「地獄の道化師」からスティーブン・キングの「IT」まで、
ピエロは現代においてはむしろ恐怖のアイコンのはずだ。

ベンチに座っている「彼」を見ていると…
脚を不意に組み替えるのではないか、
腕を背もたれから離すのじゃないか…
そんな妄想がうかんで、皮膚の下をなにか冷たいものが走る気がする。
そして、そういう目で見ると、その口を真っ赤に濡らしているものは、
口紅でも、ケチャップでもないもののように見えてくるのだ。

きょう、最終バスを逃した。
タクシー乗り場で待ったが、いつまでたってもクルマはこない。
家まで歩けば30分ほどだが—-ひとつ、問題がある。
家に戻るには、あのファストフードの店の前を通らなければいけない。
だがこの時間、店は閉まっており、灯りは消えているはずだ。
つまり、暗闇の中「彼」の前を…微笑む「彼」の前を、通らなくてはならない。
それは、どうにか避けたかった。
だが、クルマはこない。
さらに30分待ったところでわたしはあきらめ、家に向かって歩き出した。

駅前の閑散とした商店街をぬけ、橋をわたって区をまたぎ、国道に出る。
しばらく歩くと、右前方にあの店の看板のシルエットが見える。
近づく。
看板も、店内も、すべての電灯が落とされている。
わたしは、視界の右端にその店を感じながら、なるべく前だけを見て歩く。
店の前を通り過ぎる。
そのとき、わたしの目が反射的に…普段とちがうなにかを感じとって、
店のほうを見やった。
視線の先にはベンチがある。
いつもの、あのベンチだ。
だが…なにかがちがう。
そうだ。
「彼」がいないのだ。
誰も座っていないベンチが、そこにある。

どこへ行ったのだ。
…歩いていったのか?
まさか。
おそらく撤去されたのだ。
長年の雨ざらしで、傷んでいたのだろう。

そのとき…足音がきこえてくる。
店の前の駐車場のほうから、
とっと、とん。
とっと、とん。
…と、軽やかなステップの音。
タップダンスを踏むような。
わたしは、視線を、その足音の方向からそらすことができない。
駐車場に植えられた樹の陰からその音は聞こえてくるようだ。
そして、一本の樹の裏から、にゅ、と、赤い靴が飛び出た。

靴は、はずむような動きで、樹の裏に引っ込んだり、また出てきたりを繰り返す。
そして、不意に「彼」が現れた。
黄色と白のしましまの服。真っ赤な紙。真っ白な顔。真っ赤な唇。
笑っている。
笑っている。
アニメキャラのようなリズミカルさで、上下に体をはずませながら、歩く。
ウキウキ!
ワクワク!
という擬音語の書き文字が横に書いてあるようだ。

声をあげることができない。
彼は、ベンチまですすむと、その真ん中にすとんと腰を下ろす。
そして、ぴょこりと素早い動きで脚を組む。満足そうな笑みを浮かべ、
言葉を発しない手品師がよくやるような、思わせぶりな仕草でわたしに手招きをする。
自分の左側の場所を手でたたく。「ここへお座り」と言っているようだ。
逃げられず…わたしは、彼の隣に腰をおろす。
シャツの中を、冷たい汗が何筋か流れ落ちる。
彼は、手の中の何かを別の手の指で触るような仕草をする。
わたしがスマホを出すと、にやにやと笑いながら、
わたしと、スマホと、自分を交互に指さす。
写真を撮れ、といっているのだ。
彼の顔が、こちらに近づき、その腕が、わたしの肩に回された。
とても冷たい。
スマホをかざし、わたしと彼をフレームに収める。
なぜか、魚のような生臭いにおいが一瞬漂った。

彼は、スマホで撮られた自分とわたしの姿を見ると、声をたてず大笑いをし、
ぴょんとベンチの上に飛び乗った。
その足は陽気な仕草でステップを踏み、その口は何かの唄を唄っているように、
パクパクと音もなく動いた。
そして、ベンチを飛び降りると、踊るような足取りで、駐車場へと向かっていく。
とっと、とん。
とっと、とん。
ととっと、とん、とん。
ぴたりと足がとまる。
彼は振り向いて、こちらに手をふると…
おどけた仕草で木立の中へ消えていった。
わたしは、全身の力が抜け、気が遠くなり―――

翌朝、目をさました私は、ベンチに座っていた。
あのまま気を失って、朝までこうしていたらしい。
不自然な姿勢で長時間いたせいか、体が痛い。
のびをしようとする…が、体が動かない。
自分の体なのに、まったく自分の意志が通じない。
わたしは、自分の体の状態をスキャンした。
どうやら今わたしは…腕をベンチの背もたれにかけ、脚を組んでいる。

ドライブスルーにスピードを緩めて入ってくる一台のクルマが見えた。
そのクルマのフロントガラスに映ったのは、
ベンチに座った、ピエロの顔をした男。
白と黄色のしま模様の服。真っ赤な髪。真っ白な顔。真っ赤な唇。

なんということだ。
わたしは…「彼」になってしまった。

長きにわたってこのベンチという牢獄に捕らえれてきた「彼」は、
夕べ、私という後釜をみつけ…晴れて自由の身となったのだ。かわりに、
わたしを、このベンチに、身動きできない状態で残して。
傍らには、わたしのスマホが残されていた。
だが、それを手にとることは、もうわたしにはできない。

以来、わたしは、このベンチに座り続けている。
雨の日も。晴れた日も。
春も。夏も。秋も。そして冬も。
道行く人にこう、誘いかけ続けているのだ。

さあ、おいでよ。
一緒に写真を撮ろう。
一緒に写真を――



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

Tagged: , , ,   |  1 Comment ページトップへ

大江智之 2022年2月13日「門限と撥ねられた友だち」

『門限と撥ねられた友だち』

   ストーリー 大江智之
      出演 遠藤守哉

夜が明けるのがめっきり遅くなった。
どうやって家に帰ったのかも思い出せない。
いま分かるのは、
とにかく酒をしこたま飲んでトイレから出られないことぐらいだ。
もう二度と無茶な飲み方はしないので、
いますぐ元に戻してほしいと神様にお願いしてみる。
大人とは、他者に決められたルールが無くなって初めてなれるものなのかもしれない。
自制というルールを自分に課して生きていく、それが大人なのだろう。
駅で買った割高なお茶のペットボトルが、トイレの床で不満そうに横たわる。
子どものころのように門限があったなら、
こんなになるまで飲み歩かなかったのにな。
トイレでほとんど意識を失いかけながらそう思った。

日が沈むのがめっきり早くなった。
もうそろそろ冬になる、それを幼少期は門限で感じていた。
夏の頃は19時ごろまで明るく、冬になれば17時で暗くなる。
我が家の門限は年間で一律18時だった。
暗くなったら帰っておいでだと、子どもはいつまでも明るいと言い張る。
実に公平で明快なルールだと子供心にも思えた。
第一公園は、第三公園と並ぶ、このあたり一帯で人気の公園だ。
昔、刃物が見つかり警察が調べにきた第二公園を子どもたちは避けるから、
街の東側に住む子と、西側に住む子で遊ぶ公園はハッキリと分かれている。
東側に住む自分と”王子”は、第一公園でよく遊んでいた。
ふたりとも門限が18時だったから、
その日も17時50分ギリギリに自転車にまたがった。
公園の入り口は急勾配な道路に面している。
自分も王子も家に帰るにはその下り坂をおりて丁字路を右折する必要がある。
あたりは薄暗くなり、ほとんど日は落ちかけていた。
先に坂を下った自分は丁字路を曲がった先に車が来ていることに気がついた。
気がついていたが、後ろからダッシュで降りてくる王子に
それを伝えるところまでは気が回らなかった。
王子は撥ねられた。
ドンッという鈍い音がして振り返ると、
ちょうど丁字路の先の駐車場の上を、王子とその自転車が舞っているところだった。
カシャっと軽い音がして、駐車場に王子が落っこちた。
車は数メートル先で停車し、中から運転手が出てきた。
近くのアパートに住んでいる同級生とその兄も出てきた。
助け起こされた王子はケロッとしていた。
警察が来た。
居合わせた大人が詳しい状況を伝えている。
子どもだった自分には何もできなかった。
そうこうしているうちにあたりはすっかり暗くなり、門限のことを思い出した。
そうだ、帰らなければいけなかった。
でもここに残って事の顛末を見届けたい。
あたりはどんどん暗くなり気持ちは焦ってゆく。
だんだんと冷たくなってゆく空気が何度も肺を往復する。
迷った末に自分は門限で帰ることにした。
後ろ髪を引かれるとはまさにこの感覚なのだろう。
結果彼は無傷だったわけで、
警察や周りの大人が事態を収拾してくれているのだから、
子どもの自分にできることは何も無い。
何も無いけど、そのときはその場にいることが正解だったような気がした。
それでも自分は、門限のルールに逆らうことができなかった。
他者が決めたルールをどこまで守ることが正解なのか。
いま自分がその瞬間に戻ったなら、
門限を無視してでもずっとその場に残ったであろうか。
携帯電話なんて持っていない。
いま思えば、自分はあのとき試されていたのかもしれない。
あそこで残る選択ができたのならば、
自分はその日、大人になっていたのだろうか。
誰かのルールを破り、
自分の責任でルールを上書きすることができていたのだろうか。

気がつくと夜が明けていた。
冬の朝はとても冷え込む。
トイレで半分寝てしまっていたようだ。
重たい頭を無理やり持ち上げ、寝室の方向へ歩き出す。
乾いた音を立てて冷たい廊下がきしんだ。
多少は気分が良くなった気がする。
ベッドの上の遮光カーテンを閉めようとして、ふと外の空気が吸いたくなった。
窓を軽く開ける。
凍てつく明け方の空気が、乾いた頬を突き刺す。
そのまま肺に流れ込み、瞬く間に白くなって口から出てゆく。
薄暗い冬の日は、少年時代の不思議な葛藤を思い出すのだ。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

Tagged: , , ,   |  コメントを書く ページトップへ

福里真一 2022年1月9日「はじまりはおよそ1億年前」

はじまりはおよそ1億年前 

   ストーリー 福里真一
      出演 遠藤守哉

ニンゲン、という名のウイルスが、
地球上で少しずつ増殖をはじめたのは、
およそ1億年前、と言われている。

その後、
ニンゲンは、次々と変異を繰り返しながら、
その数を増やしてきた。

古代株、中世株、近世株。
日本で言えば、
縄文株、弥生株からはじまって、江戸株まで。

そして、200年から300年ほど前、
ヨーロッパで生まれた、近代株と呼ばれる変異株は、
その感染力の強さ、
毒性の強さで、またたく間に、
地球を席巻した。

重症化する、地球。
しかし、運び込むべき病院もベッドもない。

惑星に注射できるワクチンも、
現在までのところ、開発されてはいない。

いま、
このままでは地球という宿主を殺してしまうことに
気づきはじめたウイルスたちは、
みずからの、「弱毒化」について検討をはじめている。

弱い毒になる、と書いて「弱毒化」。

ウイルスたちは、
この、自分たちの「弱毒化」に、
SDGs というこじゃれた名前をつけたらしい…。

同じように、
いま、宿主であるニンゲンを殺してしまわないために、
みずからの「弱毒化」について考えはじめている、
新型コロナウイルスたち。

最近、ニンゲンの代表が、
新型コロナの代表に、質問状を送った。

結局あなたたちは、ニンゲンの体の中で、
何がやりたかったんですか?と。

すると、
新型コロナの代表から、予想通りの回答が届いた。

お言葉を返すようですが、
結局あなたたちは、地球上で、
何がやりたかったんですか?

…と、ここまで書いてきて、
私はこの原稿が、年のはじめに、
そんなに明るい気分になれるものではないな、ということに気づく。

きっと、新型コロナの代表に言われるだろう。
結局あなたは、東京コピーライターズストリートという場で、
新年早々、何がやりたかったんですか?と。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

Tagged: , , ,   |  1 Comment ページトップへ

直川隆久 2012年12月12日「スバる」

スバる

   ストーリー 直川隆久
      出演 遠藤守哉

ここ数年、全国で断続的におこってきた失踪事件。
そこに共通する点がある。
みな、SNSへの投稿、書置き、離れた両親への留守番電話、
なんらかの形でメッセージを残す。
抽象的であいまいな言葉遣いながら、大体の内容は似通っていた。
明日から自分は「そちら側」から「見えなく」なること、
でもそれは自分の意志であり、
明日以降も自分は「こちら側」で生きていくつもりであり、
心配は無用であること。そして最後に必ずこの言葉があった。
「すばらしき無のために」。
宗教団体か、テロ組織か。反復される「すばらしき無」という
芝居がかった言葉は、失踪者間のつながりを想像させる。
そして、この言葉を残して失踪する行為を
「スバる」と人々は呼ぶようになった。

 ある社会学者は、こう解説した。
スバった人間たちは「忘れられる権利」を「無」になることで
主張しているのだと。
 われわれの生活の一瞬一瞬はすべてモニターされ、データ化される。
ネット上の検索行為やサイト訪問履歴はいうにおよばず、
ベッドに組み込まれたセンサーからは寝返りの回数と位置、
トイレのセンサーからは尿の量や各種成分、
食器に仕込まれたセンサーからは、食べ残した野菜の量…と、
瞬間ごとに大量のデータが吸い上げられる。
それを監視だ搾取だと非難する人もいるが、データはすべてポイントで買い取られ、
その収入で生きていくことができるのだから、
情報を提供する側は情報の「生産者」として、
資本側と対等の地位にいるともいえる。
われわれは幸福な時代に生きているのだ。
 ただ、そういう生き方をうけつけない人間がいる。
彼らは、データの網に捕捉されることを拒もうとする。
だから彼らは、物理的に消えることにした、
というのがその社会学者の見解だった。
言論ではなく実行で――
なぜなら言論は所詮データの1バリエーションだからだ。
質量はもちながら観測ができないダークマターのように、
この日本のどこかに生息しつづけること――
それが、連中が望むことだというのだ。

だが、はたしてこの時代に、
情報網の一部とならずに生きることが可能なものだろうか?
情報をポイントと交換し、そのポイントをカロリーと交換し、
その交換のしかたを、また情報として提供する。
このサイクルを抜け出す方策は「死」以外ない。
そしてそれは――現実だ。
その現実を、連中は否定することができると本気で考えているのだろうか。
無謀だ。それは火星に移住することよりも難しい冒険だろう。
いや、「冒険」などというポジティブな言葉は使うべきではない。
それは「あってはならないこと」だ。情報の網から進んで脱することは、
命綱を自分で断ち切って暗闇の中に飛び込むことだ。
「スバる」という言葉にあらわれた半笑いの態度が示すもの、
それはとりもなおさず、そんな無謀な行為を進んでやる人間がいる、
ということを信じたくない気持ちーー
それをごまかしたいという僕らの無意識ではないか。
現実はひとつであり、それ以外のありかたなどあってはならないのだ。
…と、僕はそこまでで考えるのを止めた。
そろそろお茶の時間だ。お湯をわかしコーヒーを淹れて、
情報を生産しなければいけない。
すばらしきもの、それは存在であり…情報こそが存在なのだから。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

Tagged: , , , ,   |  コメントを書く ページトップへ