『階段をおりる時』
「アユミってさ、階段をおりるとき、
いつも、ウッウッって変な声出すよねぇー」
2階席からロビーに続く階段を降りたところで、
アツコさんが言った。
「あ、言う言う言う、私もずーっと気になってた」
眉を吊り上げながら、ユミも大げさにうなずいている。
そう…?と平然を装ってみたものの、アタシは少し動揺していた。
「ウッウッ…それ、どこから出んのって感じぃー」
アツコさんが、喉から変な声を出して笑った。
自分がそんな声を出してるなんて、完全に無意識だった。
人気劇団の2年ぶりの公演だけに、ロビーはかなり混雑していた。
休憩時間15分。女子トイレにはさっそく長い列ができていた。
アツコさんとユミは、アタシが以前働いてた文房具メーカーの同僚だ。
三人とも演劇が好きということで仲良くなり、
アタシが辞めてからも付き合いが続いていた。
「あとさぁ、アユミィ、お芝居観ている途中ぅ、
ずぅっと首揺れてるよねぇーーー」
アツコさんは、意地悪モードに入るとどんどん語尾が長くなる。
「うそうそうそうそ、まじでッ」
ユミは、いじりがいのあるおいしいネタを見つけると、
眉毛がどんどんつり上がる。
同じ言葉を繰り返じはじめたら、かなり要注意だ。
「でもでもでもでも、デスクでもそうだったかも。いっつも首揺れてたかも」
ユミが、首がクネクネ揺らす。
アツコさんが、アタシの顔をみて吹き出す。
「それにぃ、ちょーっと気まずい時とかぁ、そういう顔するよねぇーーー」
「そうかもそうかも、するかもするかも」
ユミが、鼻をぷくっと膨らませ、
右の小鼻をクイッと引きつらせた顔をした。
何よ、その顔…アタシがそんな顔しているなんて、完全に無意識だ。
「あとぉー」と言って、アツコさんがスレンダーな身を屈めて、
ユミの耳に顔を近づける。
アツコさんの小悪魔的なしぐさを見て、
直感的にケンイチロウのことが頭に浮かんだ。
ケンイチロウとは、アタシがその文房具メーカーに入社し、
新しいホッチキスの開発を一緒に担当したのをきっかけにつきあい始めた。
しかし、6年をすぎた今、男女の関係としては階段の踊り場状態。
二人とも、あがることも降りることもできずにいた。
「え、え、え?まじでまじでまじで?」
「・・・そうみたいよぉーーー」
アツコさんが、アタシの方に意地悪な視線を向ける。
今、ケンイチロウとアツコさんは同じ部署で働いている。
「アタシ、ちょっとトイレ…」
たまらず、二人から離れた。
「私もぉーー」
アツコさんが後ろからついてくる。
女子トイレの列に、アツコさんとふたりで並ぶ。
「それでぇ、どうなのぉ」
意地悪モードがマックスに達した時、アツコさんはささやき声になる。
「何よ、急に、こんなとこで」
自分の鼻がふくらんでいくのが分かる。
「何よってぇ、そりゃ、ねぇ…」
アツコさんの切れ長の目がロビーの方に向けられる。
ロビーでは、ユミが眉毛を吊り上げながらケータイいじっている。
「ボヤボヤしているととられちゃうぞぉーー」
アツコさんがアタシの耳元でささやく。
右の小鼻が引きつっていくのが、自分でも分かった。
トイレを出て、ロビーに戻る。
アツコさんもユミも先に席に向かったようだ。
2幕目の始まりを告げるブザーが響き渡る。
観客達が、一斉に席に戻り始める。
まさか、ケンイチロウがそんな男だったとは…
ロビーの柔らかな絨毯を一歩一歩踏みしめながら考える。
踊り場状態に、ある種の居心地のよさを感じていたのは自分だけだったのか…
ウッウッ…ウッウッ…
自分の喉から変な音が出ているのが聞こえる。
ウッウッ…ウッウッ…ウッウッ…
自分が、「階段」を降り始めていることに、気がついた。