中山佐知子 2012年5月27日

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その村は天空の入り口に

              ストーリー 中山佐知子
                 出演 地曵豪

その村は天空の入り口にあって
ヒンドゥークシ山脈の白い峰々が空を支える姿を
間近に眺めることができた。
村はその山の懐深くかくまわれ、そこに通じる道は険しかった。

その村では5月の声をきくと男たちは旅の支度をする。
そして6月には雪溶けの危険な山道をロバとともに這い登り
キャンプの場所にたどりつく。
そこからさらに道もない崖を登ると空と繫がる岩山がある。
彼らはそこで一年の半分を、天空の破片を掘って暮らす。

固く締まった岩を炎で緩めながら
カツンカツンと岩を削る。
どうして天空の破片が岩のなかに眠るのだろう。
彼らは理由を知らない。
けれども彼らが掘り出すのは
青空が結晶したような瑠璃色の石だ。

カツンカツンと岩を削り掘り出した天空の破片は
もう一度空に返さねばならない。
それは東と西にから集まってくる商人たちの役目だ。
商人は天空の破片を空に返すといってすべて持ち去り
かわりに必要な食料や布や金属を十二分に置いて行く。

村の人々は
自分らが掘り出した石がラピスラズリと呼ばれ
シルクロードを運ばれて西はヨーロッパへ
東は日本まで伝わることを知らない。
ツタンカーメンの黄金のマスクを飾り
やがてフェルメールの青の絵の具になることも知らない。
黄金より高い価値で取引されることや
そして何よりも、数千年の昔
世界に天空の破片がある場所はこの村だけだったことを
彼らは知るよしもない。

天空の破片ラピスラズリは空に返るのではなく
古代のシルクロードを通じて世界へ広まっていったのだ。

その村では11月になると
山のキャンプの男たちが帰り支度をする。
もう雪で道が閉ざされる頃だ。
苦労して掘った天空の破片は
すべて商人に渡してしまったかわりに
村には冬を暖かく越せるだけの蓄えができている。

12月、村へ帰った男たちのなかに
小さな天空の破片をこっそり持ち帰った若者がいる。
それは若者の帰りを待ちこがれていた娘への贈りものだ。

12月にラピスラズリを贈られた娘は来年には花嫁になるだろう。
12月のラピスラズリは幸運の石だ。
そしていま、ラピスラズリは12月の誕生石になっている。

出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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古居利康 2012年5月20日

スメタニ  

           ストーリー 古居利康
              出演 清水理沙

そのことについて
かあさんととうさんが話すとき、
かならずふたりの声はささやき声になって、
表情がどんよりしてくる。
漫画で言えば、背景と人物にタテの線が
何本も重なって、あたりが重くなる感じ。
わたしはいつだってそんなふうに感じていて、
こどもには事情がわからないだろう、
ふたりがそう思っていることも感じていて、
わたしは何もわからない、
ばかなこどものふりをするのだった。

そのことがじっさい、何のことなのか、
わたしにはかいもく理解不能なのだけれど、
ふたりが交わす会話のひそやかな怪しさ、
かあさんの険しい顔と、
とうさんの困惑ぎみの顔を、
ちらりと盗み見たりしてるくせに、
聞いていないふうをよそおうじぶんに、
後ろめたさを感じている

 スメタニ。

それが、そのことについて
かあさんととうさんが話すとき、
決まってひんぱんにに登場する
暗号みたいなことばだった。というか、
ふたりは、おもに、スメタニうんぬん、
という何ものかについて、ひそひそと
顔寄せ合って、どよーんとしているのだった。

 こんどスメタニが、

 スメタニときたらもう、

 またスメタニに、

そんなふうにささやくのは、
かあさんの方。どこかめいわくそうで、
こわい眼をしたかあさん。
とうさんは、スメタニのこと、ほんとは
それほどいやでもないのに、
かあさんの表情がきつくなるのを見て
こまっている、といったふぜい。

スメタニというのは、
まちがいなくよからぬもので、
かあさんと、とうさん。
とりわけかあさんに災難をもたらす
何かなのだ、とわたしは考える。
とうさんはいかにも苦りきった顔つきで、
だいたい黙ってしまう。
スメタニのなんたるかもわからぬまま、
スメタニに反発をおぼえるわたしは、
知らないうちにかあさんの味方を
しているのかもしれなかった。

 スメタニってなぁに?

聞いてはいけないと思っていた。
聞いたところで、かあさんはあいまいに
笑うか、やりすごすだけだっただろう。
ましてや、とうさんになんか、
聞けっこない。眉間にシワ寄せて、
にらまれてジエンドだ。

 そうだ、ススムさんに聞けばいい。

わたしはそう思っていた。
ススムさんというのは、わたしのおじさん。
かあさんのいちばん下の弟だ。
いつもとつぜんうちにいて、
わたしが学校から帰ると、にやにやして、
おっきなリュックのなかから
おみやげを取り出してくれたりする。

あるとき、リュックのなかから
ラムネの瓶を取りだして、わたしに言う。
「世界でいちばんおいしいのみものだよ」
よく見たら、ラムネじゃなかった。
瓶は透明で、なかみは見たこともない
青い液体だったので、いっけん、
ラムネの瓶に見えたのだ。
「のんでごらん。ただし、はんぶんだけ」
世界でいちばんおいしい、って、ほんと?
はんぶんだけ、ってなんで?
そう思ったけど、ススムさんはもう
ふたをくるくるあけている。
「ぜんぶのまないように、ね」

青いのみものをほんの少しのむ。
ほんとにおいしかった。
気がつけば、ごくごくのんでいた。
ススムさんがあわてて瓶を取りあげる。
「ぜんぶは、まだだめなんだって」
「世界でいちばんおいしいかどうか、
 もうちょっとのまなきゃわかんない」
ススムさんは、
もうふたをくるくるしめている。
「ねえさんにはないしょだよ」
そう言って、ウィンクなんかしてる。
なにこのおじさん。
たしかにすごくおいしい気がするけど、
これが世界でいちばんだったら、人生、
このさきまだ長いのに、ちょっとさびしいよ。

「この青いの、なにでできてるの?」
「遠い国の奇妙な果実」
「遠い国ってどこ? きみょうってなぁに?」

ススムさんには、いつも質問ぜめになる。
漫画で言えば、瞳のなかにキラキラ、
星がふたつみっつある感じで。
じぃっと見つめる。ススムさんは、
ちゃんと答えてくれる。
むずかしいことでも、こども向けに
へんにやさしくしたりしないで、
むずかしいままわかるように、
まっすぐ答えてくれるからすき。
だから、ススムさんなら聞けると思った。
知らなかったら知らなかったで、
かえって気楽だ。

 スメタニって、なぁに?

「スメタニ?」って言ったきり、
ススムさんは真顔で黙ってしまった。
考えこむ、というより、
時間が、かたまっちゃったみたいに。
眼玉だけ忙しく動いている。
といって、かあさんみたいな
しかめっつらではなく、
とうさんみたいにこまったふうでもなく。
いっしょけんめい思い出そうとしてるけど、
やっぱりほんとに知らないみたいで、
じぶんの知らないことを、なぜこの子は訊く、
といった顔に、ゆっくり変わっていった。

そのあと、うちでごはんを食べて、
ススムさんは帰っていった。

夜、歯みがきのとき、わたしの口もとを見て
かあさんが声をあげた。

「なに、その青いの・・」

鏡を見たら、口のまわりが青かった。
ハミガキ粉の白と混じって、
空色がかった青になっている。
ぶくぶくして口をあけたら、
舌べらが、まだみっちり青かった。

「もう。なにこの青いの」

かあさんがプンプンしている。
そのとき、いまだ、スメタニのこと、
聞いてみよう! って、とつぜん思って
スメタニ、って言おうとしたら、
口のなかにヘラみたいなものを突っこまれた。
わたしの舌べらを、かあさんが
ワシワシワシ、と、こすっている。

「なにこれ。青いの、とれない」
かあさんがためいきをついた。
舌べらがじーんとしびれていて、
スメタニ、なんてちょっと言えそうもない。
今晩はやめとこ。

出演者情報:清水理沙 アクセント所属:http://aksent.co.jp/blog/

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藤本宗将 2012年5月13日

「運命の青い糸」

         ストーリー 藤本宗将
            出演 大川泰樹

迷う余地なんてない…はずだった。
おれとしては、青いほうを選ぶことに何のためらいもない。
好きな色といえば子供の頃から青だった。

ヒーローものでも、主役扱いの熱血レッドより
いつもクールなブルーのほうがかっこいいと思っていた。
大人になってもそういうところは案外変わらないもんだ。

もう5年乗っている愛車も青。エーゲブルーという名前の青だ。
だからエーゲ海を見たことはなくても、その海の色は知っている。

ネクタイやシャツも、いちばん多く持っているのは青だ。
人から似合わないと言われたこともないし、
おれと青の相性はそんなに悪くない、と思う。

それから通勤のときだって、
同じタイミングで山手線と京浜東北線がやってきたら
なんとなく青い京浜東北線のほうに乗る。
まあ、先に緑の電車が来たらそっちに乗るけど。

とにかく、青にするつもりだったのだ。

もうひとつだけ付け加えるなら、
今朝のテレビ番組で、能天気な声の女子アナが、
牡羊座のラッキーカラーは青だと言ってたし。
べつに占いの類いは信じちゃいないが、
もともと好きな色なんだから従ってもいいだろう?
そうだ、青でいいはずだ。
あいつも、さっきからずっと青にしろと言っている。
念のため、もういちどだけ確認しよう。

「いま、青って言ったよな?」

その問いかけに、無線の向こうの同僚は
少しうわずった声でさっきと同じ内容を繰り返した。
気持ちを落ち着かせながら、指示を頭の中で復唱する。

「起爆装置のカバーをはずして、
 基盤の中央にあるソケットから出ている
 2本のコードのうち、青いほうを切れ」

やっぱり、青を切ればいいんだよな。
あいつはうちの爆発物処理班の中じゃ優秀なやつだが、
ちょっと落ち着きがないのがいただけない。
そう、せかすなよ。余計に焦るじゃないか。
こういうときこそ冷静でいなきゃいけないんだよ、この仕事は。

さて。青いコードを切る。
やるべきことはきわめてシンプルだ。
おれはプロとして、仕事を淡々とこなすだけ。
いつもと同じように、ニッパーでコードを切ればいい。パチン!それで終了。
デスクに戻ってきょうの報告書を書き終えたら、京浜東北線で家に帰るんだ。
コンビニに寄って、缶ビールを買おう。それと晩メシも。

特別なことはなにもない。はずだったのに。なぜだ。なぜなんだ。

なんで2本とも青いコードなんだよ。

ひとつ訂正する。おれは、青が嫌いだ。大嫌いだ。

出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/  03-3478-3780 MMP

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直川隆久 2012年5月6日

青い車

      ストーリー 直川隆久
         出演 地曵豪

「ミナが乗ってきたら、そこ替ってもらうよ」
助手席で景色を眺める康平に、運転席からそういうと、
康平は「えー」と大きな声をあげた。
「なんだよ。俺がミナの隣じゃないの」
「ミナは前に座らせてやらなきゃ」
「でも…」と、明らかにふてくされた顔をする。

「何」
「今日の弁当、ぜんぶ俺がつくったんだよ?5時起きで」
「じゃあ康平、運転する?」
はぐしゅ。康平は、返事のかわりに大きなくしゃみをした。花粉症の季節。
「ムリだわ。目がしょぼしょぼで」
 
僕と康平を乗せたフィアットは海沿いの国道を走っていた。
パチンコ屋や大型古本屋が、快適なスピードで遠ざかる。
ボンネットが、雲を映している。空の青さに、クルマまで染められそうだ。

「何つくったの」
「完璧ですよ。ミナの好物ばっかり」
「だから何をさ」
「ぐうぐう寝てるから、わからないんだよ」

嫌味だ。こういうモードになると康平はしつこい。
だからあえて話を続けないようにした。
僕は僕で、ミナへのプレゼントは用意していた。
絵が好きなミナのために、100色のパステル。と花束。とケーキ。
と巨大な犬のぬいぐるみ。多すぎか?いや、そんなことない。
きょうという日は、康平のいうとおり「完璧」でなくちゃならないんだから。

目的地が近づく。
交差点を折れ、100メートルほど行く。
わかば児童養護園はもうすぐそこだ。

ミナは、すっかり着替えて待っていた。
園長先生のスカートをつかんで立っていたが、僕らの顔を見ると、
おずおずと近づいて来た。
 「よろしくお願いします」とぺこりと頭をさげた。
その礼儀正しさぶりが、けなげで、胸がつまる。
 「じゃあ、お別れですね、ミナちゃん」
そう言って先生はミナの背中をぽんとおした。
「パパ達と、仲良くね」
園長先生には、養子縁組の手続きなどで本当に厄介をかけた。
ぼくら二人は、お世話になりました、と言いながら深く頭を下げる。

僕らとミナは、今日から家族になる。

ミナを助手席にのせ、クルマはもと来た道を走りだす。
バックミラーの中で豆粒みたいな大きさで手をふる園長先生がいた。

僕と康平のようなカップルのもとへ来ることは、
ミナにとっても勇気の要ることだったろう。
それを思うと、ミナにはできるだけのことをしてあげなくてはと思う。
この国の人は、やさしい。基本的には。でも、そんなやさしい人たちが、
ときどき自分たちと“それ以外”の間に、とても冷え冷えとした線をひく。
僕たちのような「両親」に育てられれば、
ミナだってそんな目に合わないとも限らない。
この国と人生を共にするかどうかを――
何かをあきらめることに慣れてしまった僕たちのようにではなく――
自分の勝手な好き嫌いだけで決められるようにしてあげること。
彼女の勇気に返せることといえば、それぐらいだろうか。

ゆうべ僕がそんな話をしたとき、
康平が何も言わずにうなずいてくれたのが嬉しかった。

「陽介」と後ろから康平の声がした。
「せっかくミナが乗ってくれたのにムッツリして。つまんないよなあ、ミナ」
ミナは何もいわず、助手席からこちらにほほ笑んだ。
「そうだった…ごめん。せっかくだから、どっか行きたいとこある?」
「山の上」とミナが答えた。「もっとおおきい空が見たい」
「いいね、方向逆になっちゃうけどさ。
 ドライブウェイの展望台で、ランチにしようよ。
 なにしろおかずはさ」
と康平がはしゃいだ声をあげた。
「ミナの好物の唐揚。と卵焼き。とスパゲティナポリタン。
 と豆ごはんのおにぎりー」
ミナが「わあ」と顔をほころばせた。

「全部、ミナが食べていいんだよ」と康平。
「え。俺のは?」僕が言うと、
「陽介パパは、手伝ってくれなかったから――」
と康平はポットを取り出し、こちらにつきだした。
「ゆうべのおでん!の汁のみ!」
ミナが、今日はじめて、大きな声をだして笑った。
 
クルマは、国道をはずれ、
眺めのいいドライブウェイに向けた道をとった。
――今日だけはどうか、青いままでいてください。
と僕は空に祈った。
ミナにとっても、僕らにとっても、
今日だけは、完璧な一日になるように。

出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/

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関陽子 2012年5月5日

変身

             ストーリー 関陽子
                出演 平間美貴

83、55、87。

え、すごいナイスバディですって?
うふふ、この数字にはちょっとした裏話があるの。
でも女が自分の話に酔うのはかっこ悪いものよね。
手短かに、お話ししましょう。

「必ず痩せるダイエットに、興味はありませんか?」
新宿で声をかけられたのは3カ月前。
3歳のときにはぷくぷく可愛いわね~とちやほやされた私は、
15歳のころにはデブリンと呼ばれてもニコニコ耐えていた。
28歳のいままで、
何を試したっていちども痩せたことのない筋金入りのデブリンだったの。

でも、その男は言った。
「そういう方にこそ、必ず痩せてもらえるシステムなのです。
 一度コースに参加しませんか?」
魔法のようなすーっと落ち着く声。
そうだ、私は、アヤリンで~す、デブリンで~す、なんて
ちっさいライブハウスでボケてる自分がイヤになっていたんだ。
「この世に必ず、なんかない、とお思いですか? 
 ありますよ。いま、ここに」
男は私の目をじっと見て、そっと囁いた。

数日後、私はとある施設に入った。
フルーの壁。ブルーのソファ。ブルーの部屋着。
落ち着く色の部屋に荷物をおろし、食堂へ向かう。私は男に聞いた。
「やっぱり断食ですか?」
「いえいえ、何を好きなだけ食べてもいいのです」
「え?」
「どうぞおなかいっぱい召し上がってください。
夕飯は麻婆豆腐とステーキと野菜炒めです。おいしいですよ」
どういうことだろう?
私は食堂の椅子についた。
そして、運ばれてきたお盆に目を疑った。
青い麻婆豆腐。青いステーキ。青い野菜炒め。青いごはんに青いお味噌汁。
目の前の食べ物は、すべて青かった。

そう、必ず痩せるダイエットとは、青いごはんしか食べないで過ごす、
ということだったの。
青は食欲をなくす色、それだけのこと。
そして、それだけのことで、私は3週間でなんと-28キロを達成したわけ。

え、そんなに痩せたようには見えない?
そう。
このダイエットのただひとつにして最大の欠点は
青くない食べ物がやたら美味しそうに見えて
ガマンできないことなのよねえ。

83、55、87。
あーあ。リバウンドするの、早かったなあ。

出演者情報:平間美貴 03-5456-3388 ヘリンボーン所属

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大曲康之 2012年5月3日

昭和24年のある夜

         ストーリー 大曲康之
            出演 原金太郎

昭和24年のある夜、

国鉄鹿児島本線を走る普通列車のデッキの所に、
若い夫婦が立っていました。

若い母親は、赤ちゃんを抱いていました。
二人に初めて出来た赤ちゃんです。

夫は、つらい戦争から帰って来て、
なんとか日本国有鉄道に仮採用されたという立場でした。

炭水掛りといって、
蒸気機関車に石炭や水を補給する仕事です。

妻は、戦時中もずっと銀行の窓口に座っていました。

実は、母親にしっかり抱かれている赤ちゃんには、
すでに命はなかったのです。

「恵子」と名付けられたその赤ちゃんには、
生まれて一ヶ月で重い心臓病が見つかり、

「生きても3ヶ月くらいでしょう。」と、
お医者さんに言われました。

母親は、病院にいくつも行きましたが、
どの病院でも診断は同じでした。

もはや、神仏にすがるほかありません。
祈祷師さんに、お祓いもしてもらいました。

もはや母親は、精神錯乱みたいな状態です。

でも、残念ながら、お医者さんの診断は、
間違っていませんでした。

二人は、雑餉隈(ざっしょのくま)という街の
国鉄のアパートに住んでいました。

でも、そこでお葬式をする気には、
どうしてもなれませんでした。

夫の故郷は、
佐賀県の三養基(みやき)郡というところにあります。
二人は、どうしても、そこでお葬式をしたかった。

今と違って、クルマとか誰も持っていません。
列車で故郷に帰るしか、方法はなかったのです。

でも、国鉄では法律で死体を運ぶことを禁じています。
国鉄に採用されたばかりの人間が、
国鉄法を犯さなきゃいけない。

二人は、だから、周りに悟られないように、
デッキにずっと立っていたのです。

母親は、すべてを自分のせいにして、
ずっと自分を責め続けました。

その夜以来、
自分が好きなものを二つ断ちました。

お茶と、牛肉です。

そののち、2人の男の子が生まれました。
下の子が、僕ですが。

僕は、家で母親がお茶を飲むのを見たことがありません。
ご飯を食べた後も、自分だけは白湯を飲んでいました。

茶ソバも茶煎餅も、とにかくお茶の味のするものは、
すべて拒否していました。
お茶が隠し味になってたお菓子を、
口から吐き出したこともあります。

まあ、貧しかったので、
牛肉の方は、家で出て来なくても
何の疑問も感じませんでしたが。

「下の子たちだけは、せめて無事に生きて行きますように。」
という願掛けは、母親が86才になった今も続いてます。

彼女は、「美しく蒼きドナウ」という曲が大好きで、

「ヨーロッパに一回行ってみたい。」

とつぶやいていたので、
70才くらいの時に夫婦で連れていったのですが。

「パッケージツアーやから、
牛肉食べんとか言えんやろ。
もう、子供がどうなろうとお母さんの責任じゃないから、
解禁しなさい。」

と言って、なんとか食べさせました。

でも、旅行から帰って来たら、
お茶断ちと牛肉断ちを再開して、
いまだにやってます。

出演者情報:原金太郎 03-3460-5858 ダックスープ所属


 

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