廣瀬大 2018年5月13日

菖蒲湯の日 

    ストーリー 廣瀬大
       出演 齋藤陽介

「赤ちゃんって、目隠しされると自分の姿も周りから見えなくなっていると
 思ってるらしいよ」
キッチンのテーブルに腰掛けて、読んでいた育児書から顔を上げる妻。
時計は昼の12時10分を指し、
マンションの窓からやわらかな陽が入ってきている。
僕はようやく寝息を立て始めた9ヶ月になる息子を抱っこしたまま
「それは斬新な発想だね」と
息子を起こさぬように小さな声で妻に応える。
今日は息子の初節句である。
真新しい「兜」がタンスの上に飾られている。
タンスの上…、他にも飾るのにふさわしい場所はあったが、
つかまり立ちを覚えた息子の手の届く所に「兜」など物珍しいものを置くと、
がっちゃ〜ん、大惨事が起きること間違いない。
ちょっとかっこ悪いが、ここに飾ることにした。
あと、1時間ほどで、妻の両親が初孫の節句を祝うために我が家に到着する。
彼らが到着する前に、近所の八百屋で菖蒲を買ってこよう。
今日は菖蒲湯にするのだ。
僕は息子を布団に寝かせるために立ち上がると、
ふと、幼い日のことを思い出した。
あの日、菖蒲湯に父と入ったから節句だった。

小学1年生か2年生の頃だった。
僕は両親に連れられて父親の実家に遊びに来ていた。
田舎の床の間には大きくて立派な「兜」が飾られていた。
僕の父は5人兄弟のいちばん下で、この家には父の両親、
つまり僕の祖父母と、その長男にあたるおじさんと家族が住んでいた。
おじさんの息子と娘は、僕の従兄弟ではあるけどもう二人とも大学生だった。

着いてすぐに僕は年の近い従兄弟たちとかくれんぼをして遊んだ。
田舎の家は東京のマンションと違い、
いたるところに隠れる場所があった。
僕は北の隅っこにある薄暗い部屋の押し入れの中に姿を隠した。
押し入れの中の、お客さま用の布団の上に寝っ転がり、
鬼が来るのを待った。でも、いつまで経っても鬼は来なかった。

ふと物音に気付いて目を覚ました。
僕はいつの間にか、寝てしまっていたのだ。
そっと、ふすまの扉を開けると従兄弟の20歳になるお兄ちゃんが、
若い女の人を抱きしめようとしていた。
抵抗する女の人。でも、部屋を出て行く気配はない。
なにか見てはいけないものを見てしまった。
幼い僕にだってそれはわかった。
若い女の人が誰なのかはわからない。
でも、親族の誰かに見えた。
僕はそっとふすまの扉を閉めた。

それがいけなかった。

その閉める音に従兄弟のお兄ちゃんが気づいたのだ。
「誰!?」
押し入れに近づいてくる足音がする。
僕は自分の心臓がドキドキと高鳴る音を聞いた。
隠れているのに心臓の音が相手に聞こえてしまうじゃないか。
そんな風にすら思った。
扉に手をかける音。
押し入れの中にはどこにも姿を隠せるスペースなどない。
扉が開く瞬間、僕は反射的に自分の両手で顔を隠した。
それでも、さっと光が射し込んだのがわかった。

今思うと、あれは顔を隠そうとしたのではないのではないか。
目隠しをすると自分の姿が周りから見えなくなるという、
赤ちゃんの頃の感覚が自分にそうさせたのではないか。

「でも、赤ちゃんがそう思ってるなんて、どうやって調べるんだろーね。
 本人に聞いたわけでもないだろーし」
妻の声で、ふと我に返る。僕は息子をそっと布団に寝かせる。
「そりゃそうだね」
ジーンズの後ろポケットに僕は財布を入れる。

不思議だったのは押し入れが開いた後のことだ。
じっと僕の姿を見つめている従兄弟のお兄ちゃんの視線を感じる。
女の人がこっちにくる足音がする。二人の視線が僕に集中する。
僕は両手で顔を隠し続けている。顔を上げることができない。
お兄ちゃんはぽつりとこう言った。
「あれ? …誰もいないや」
「なに言ってんのよ…誰もいないじゃない。驚かさないで」
あれはなんだったのだろう。
二人の悪ふざけだったのか。
それとも、本当に僕の姿が見えなくなっていたのか。
親族みんなで集まった夕食の場に、お兄ちゃんは姿を現さなかった。
食後、僕は父と一緒に田舎の家の狭い湯船に浸かった。
今日あったことは言ってはいけないと思った。
湯の中の菖蒲が体に絡んでくるのがやけに気持ち悪かった。



出演者情報:齋藤陽介 03-5456-3388 ヘリンボーン所属

 

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いわたじゅんぺい 2018年4月1日「かんな 2018春」

かんな 2018春

     ストーリー いわたじゅんぺい
       出演 齋藤陽介

娘のかんなは2歳になる。
奈良美智が描く少女によく似た
元気な女の子だ。

もう
イヤイヤ期は峠を越し、
いまは
パパヤメテ期がはじまっている。

何かとキーキー怒っていた娘も
いまは冷静に
「パパヤメテ」の一言で
あしらってくれる。

そんな女子感満載の娘は、
男子である父には想像もつかない
女子目線があることを教えてくれる。

たとえば、娘は
ドラえもんののび太のことを
「のび太さん」と呼ぶ。
ドラえもんを
しずかちゃん目線で見ているのだ。
父は人生を43年生きてきて、
のび太のことを
のび太さんと
呼ぼうと思ったこともないし、
その選択肢があることに
気づきもしなかった。

想像力の限界を知る、
という話である。

ちなみに7歳になった息子は
「スモールライトがあったら
ガリバートンネルはいらない」
ということに気づいてしまい、
ドラえもんから夢を奪いつつある。

映画でよく、ドラえもんが
どこでもドアを置き忘れてしまう、
というシーンがあるが、
どこでもドアを置いてきたら、
取り寄せバッグで取り寄せればいい、
ということに気づくのも
時間の問題であろう。

ドラえもんが好きな娘であるが、
アンパンマンだと
バイキンマンが好きらしい。

この前歯みがきをしようとしたら、
「アンパンの歯ブラシやだ」
と言いだし、
じゃあ何がいいのかと聞くと
「バイキンマンがいい」
と言う。
仕方なくバイキンマンの
歯ブラシを買ってやったのだが、
ばい菌のついた歯ブラシで
歯を磨くという矛盾が、
しっかり商品化されているのも
なかなかの商売根性だなあ、
と感心した。

そんなこんなで
土日の午前中はたいてい娘を連れて
近所の西友に買い物に行くわけだが、
この前買い物から帰って
玄関を開けると、
娘が
「なりしぇんしぇのにおいがするー」
と言った。

なり先生というのは
娘の保育園の男の先生なのだが、
父と娘が留守の間に妻と娘の先生が・・・
という
まるで昼顔のワンシーンの
ようであった。
もちろん、なり先生が
うちに来ていた事実はなく、
平穏な日々を送っている。

最近はいろいろ知恵もつき、
なんでも自分でやりたがる娘だが、
この前勝手にiPhoneをいじっていて
ホームボタンをポチポチ押してたら
Siriが動きはじめ、
「ゴヨウケンヲドウゾ」
みたいなことを話しだし、
それまでおとなしかったiPhoneが
急にしゃべりはじめたことに
娘は恐怖を覚え、
半ばパニックになって
「なんかおかしい、なんかおかしい」
言いだしたのだが、
siriはその言葉を
「うんこ開始、うんこ開始」
と聞き取り、
冷静に「うんこ開始」を
ネットで検索しはじめた。

娘もsiriも
どっちもどっちだなあ、
と思いながら、
娘の知能がsiriを追い抜く日も
そう遠くはないのだろうと思うと
それはそれでさびしくなった。

人の成長には
うれしさとせつなさが
混在する。

まあ、
その後またsiriに抜かれる日が
来るのかもしれないけれども。
AIも娘も進化の途中なのである。

まだまだ
書きたいことは山ほどあるのだが、
そろそろいい潮時なので
今年はこの辺で。

また来年、
かんな2019でお会いしましょう。



出演者情報:齋藤陽介 03-5456-3388 ヘリンボーン所属

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星の王子さまのキツネと齋藤陽介くん

2018年3月24日のお昼過ぎ、芝居の稽古中の齋藤陽介くんが
岩田純平くんの原稿を読みにきてくれました。
齋藤くんは芝居の稽古中です。演目は「星の王子さま」。
私はあのお話の中のキツネのくだりが大好きです…という話をすると
「僕、キツネの役なんです」と齋藤くんが言いました。
まじっすか?

さっそくその芝居のHPを見てみたら、あちこちにキツネの絵が、
なんかかわいいぞ。困ったなあ ⬇︎

キツネからのお礼つきの席というのも気になりますよね。
芝居の詳細はこちらで見られます。
https://mopiproject.jimdo.com/lepetitprince/
いっぺんのぞいてみてくださいね (なかやま)

あ、齋藤くんからチケットを買いたい人はこちらからのようです。
http://ticket.corich.jp/apply/89768/015/


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いわたじゅんぺい 2017年6月4日「かんな 2017夏」

1706iwata

かんな 2017夏

     ストーリー いわたじゅんぺい
       出演 齋藤陽介

娘のかんなは
もうすぐ2歳になる。
カレンダーには
盛大な誕生日の印が付いている。

もう喋る。よく喋る。
何を言っているか
わからないことは多いが、
ずっと一人で喋っている。
ひとしきり喋ったあと、
「ね、ぱーぱ」
と同意を求めてくる。
女子なのだ。

最近覚えた言葉は「待ってて」。
「まーてーて」と発音する。
今までおおむね何でも
素直に言うことを
聞いてくれていたのに、
「まーてーて」を覚えたことで、
何を提案しても「まーてーて」と
返されるのでらちがあかない。

「これ食べようね」
「まーてーて」
「靴履こうね」
「まーてーて」
「うんち替えようね」
「まーてーて」

うんちをすると、
「んちでた」と
教えてくれる。
最近は出す前に「んち」と
うんちをすることを教えてくれる。
トイレに連れて行くと、
トイレの便座に手を置き、
反省する猿のような体勢で
「んち」をする。
幼児用便座に座ってはくれない。
きばっている姿を見ていると、
「みないで」と言って怒る。
女子なのだ。

さらに最近は
「んちでた」と言いながら
自分でズボンを脱ぐようになった。
一度そのままオムツまで
脱がれてしまい、
ころころした「んち」が
トイレや廊下に転がった。
かんなはうれしそうに
うんちを指差して
「んーち、んーち」と教えてくれた。

「ぱぱ、まま」を除けば、
かんなが最初に覚えた言葉は
「ばいばい」だった。
長男は「ぶーぶ」だった。
女子はやっぱり
コミュニケーションの
生き物なんだなあ、
と思ったものだ。
「はいどーぞ」
という言葉を覚えるのも早かった。
何かをあげる時、
「はいどーぞ」
と言って渡していたから
自然と覚えたのだろう。

抱っこして欲しい時も、
「だっこ」とは言わず、
両手を差し出しながら
上目遣いでこちらを見て
「はいどーぞ」と言う。

そんなこと言われたら、
どんなに疲れていても、
たとえかんながうんちまみれでも、
「はいどーも」と言って
喜んで抱っこしてしまう。

将来かんなに好きな人ができて、
彼にはその気が無かったとしても、
上目遣いで「はいどーぞ」
とか言われたら
誰だって抱いてしまうだろう。
危険な技を
生まれながらにして
身につけている。
それが女子なのだ。

どうでもいいことだが、
パソコンでこの原稿を書いている時、
「うんち」と入力すると、
「うんち」の下に赤い波線が引かれる。
うんちとか書いちゃってるけど
あんた大丈夫?と言わんばかりに。
パソコンにたしなめられながら、
パパはこの原稿を書き上げたのだよ。

かんな。
いつかきっとパパの名前を検索して
この原稿を読むことになるだろう。

しめきりが今日だったんだ。
ごめん。
かんなのうんちの話で
パパは何とか今日を乗り切ったよ。

かんな。
ありがとう。

かんな。
愛してるよ。

出演者情報:齋藤陽介 03-5456-3388 ヘリンボーン所属

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張間純一 2017年5月14日

harima1705

ぼたん

    ストーリー 張間純一
       出演 齋藤陽介

時は寛宝、まだ東京を江戸と申しました頃、
牛込の町に幽霊が出る、という噂があった。
年は十七八、色あくまで白く、佇まいはどこかのお武家のお嬢樣。
こざっぱりとした年増の女中が灯篭をかざしてそのお嬢樣に付き添い歩く、
その灯篭に描かれた牡丹の花の見事なこと。
しとしとと小雨の降る夜に、どこからともなく現れて、どこへともなく消えていく。
そして朝になると、付近の若い独り身の男が必ずひとり息絶えているんだとか。
布団の中には首を噛まれて事切れた男と寄り添うように、
若い女の細い骨と無数の牡丹の花が美しく散らばっている。
噛み跡に残ったお歯黒、お骨の白、牡丹の赤が合わさって
現場はたいそう風情だったそうで。
死んだ男の数は両手で足りず、いつどこへ現れるかもわからないというので
噂の立ち始めた二十年前ほどから夜になると表通りには人っ子ひとり出歩かない。

そんな牛込の町に男が引っ越してきた。
その男が若くて独り身だっていうんで
近所の世話好きが、あくまで噂だけどもと断りながら話をしてやった。
「どうも今晩は小雨模様らしいから、
 牡丹の灯篭を提げた二人連れの女の幽霊に気をつけた方がいい。」
「ぼたんの灯篭。そりゃ面白い。」
「面白いことがあるか。取り憑かれて噛み殺されて死んじまうんだから。」
「わかった。気をつける。」
「牡丹の灯篭な。」
「ぼたんの灯篭か。」

さてその晩も幽霊は現れた。
といっても、目抜き通りの遠くに
ぼうっと灯篭の明かりを見た者がいるっていうだけで
だれも怖がって近くで確かめちゃいなかった。
さあ、夜が明けたら町中がざわざわと、若い男の家めぐり。
こっちは生きている。あっちも元気だ。
全員の居所を確かめたところ、不思議とみんな死んでいない。
さては誰かの聞き間違い、見間違い。

幽霊の正体みたり、枯れ尾花。

「昨日も幽霊が出たらしいんだ。」
「なんと、昨日もですかい。」
「ところが誰も死んじゃいねえってんだ。」
「そりゃめでてえ。」
「めでてえのかどうか。とにかく、一安心だが、
 昨日は見間違いで次は本物ってこともあるから
 気をつけた方がいい。」
「気をつけやす。
 ・・・ところで、昨晩奇妙な来客がありましてね・・・

二人連れの女でした。
若えのと年増のと。
へえ。
若えのの色は透き通るように白かった。
なんせ背中のローソクが透けて見えてたから。
戸がガラガラっと開いて、あっという間に部屋に上がり込んできやがった。
履物?
履いてなかったはずはねえが、脱いだようには見えなかったな。
そういや土間に濡れた足跡がなかったな。
で、気がついたら目の前に座ってやがった。
由緒あるお武家のお嬢樣だが、家に居づらい事情ができたとかで
別宅で蟄居してたとき、ふと訪ねてきた若え男をふと好いてしまった。
それからしばらく会うことがないうちに、恋煩いはひどくなるばかり。
恋に焦がれて身を焦がされて、会えねえことに死ぬほどの苦しみを、
ええ、死ぬほどって言ってました、苦しみだったとか。
好きが転じて憎しみにってんで、男の居所を探す毎日。
毎晩女中と連れ立って探したが、ようやく見つけたときには
男はその店子だった強欲な夫婦に殺されちまってた。
それが、二十年ほど前のことだってんで。
ええ。
年は十七八に見えやした。
それで代わりになる若え男を探して小雨の降る夜に町を歩くんですっていいながら
スーーーッと手を俺の胸元に伸ばしてくる。
スラリとして白魚みてえな綺麗な指が俺の喉元にかかった、、
へえ。
びっくりしやしたよ。
ええ。なんせ、ボタンの外し方を知らねえんですから。
ええ。最近流行りの洋服ってやつを着ておりましてね。
で、無理やり引っ張ったもんだからボタンが取れて落ちやがった。
ア!ボタンが落ちたって俺がつい叫んだ次の瞬間、消えやがりまして。
ええ。
え?
灯篭?
持ってましたよ。
綺麗な赤え花が描いてあったな。 
ありゃ何て花です?
牡丹ってんですか?
牡丹の灯篭。
なるほど。
てっきりこっちの洋服ボタンかと思ってました。
ボタンの灯篭。

ああ、そりゃ噛み殺されなかったわけだ。
ぼたんの掛け違いで、噛み合わねえ。

出演者情報:齋藤陽介 03-5456-3388 ヘリンボーン所属

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川野康之 2017年3月12日

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あるカゲロウの最後

ストーリー 川野康之
   出演 齋藤陽介

以前はもっと力強く泳げたものだ。
腕と脚は長くたくましく、ぐいぐいと身体を進めることができた。
褐色のかたい体で、水の抵抗をかわし、あるいは利用して、
魚にも負けないぐらいのスピードで泳いだ。
流れの中でも地面をしっかりとつかんで立つことができた。
石から石へと渡り、岩肌を覆う藻を鋭い口ではがして食った。
甘い汁が口の中いっぱいにひろがった。

世界は素晴らしい。
毎日新しい水が生まれて、流れてくる。
その水をプリズムのように通って降ってくる光は、
色も強さも季節とともに変化する。
一日たりと同じ日はないのだ。
たまに葉っぱや花びらが流れてくると、俺たちは歓声をあげて、
それにつかまり、いっしょに川を下ったものだ。
水は、ときには氷のように冷たいことも、ときには荒れ狂うこともあった。
そういうときはじっと石の下にいて息をひそめた。
流されていった仲間のことをときどき考えるが、すぐに忘れてしまう。
生きるとは、今目の前にある水を楽しむことだ。
明日は明日の水が来る。
毎日生まれ変わる水の中で、俺は生きることを楽しんだ。
脱皮を重ねるごとに、俺の体は大きくなり、たくましくなっていった。

それが今はどうだ。
俺の手脚の力は衰えた。
前のように水を掴んで速く泳ぐことができなくなった。
襲ってくる魚に何度もつかまりそうになる。
今日も危ないところだった。
恐怖。
それが俺を支配している。
がたがた震えて石の下にしがみついているしかない臆病者、それが俺だ。
川底からそっと上をうかがう。
キラキラと降ってくる光の、そのすぐ下を、
鋭い歯を剥き出したイワナどもが腹を見せて泳いでいる。
この川の中でいちばん弱いものが俺なのだ。
魚に食われて死んだ仲間のことを思う。
明日は俺が食われるかもしれない。
俺は、動けない。
俺は歳をとってしまったのだ。

俺は長く生きた。
そろそろ終わりが近づいてきたのかもしれない。
俺も、上へ行くのだ。
そう思うと、武者震いがした。
いままで多くの仲間が水を出て上へ行ってしまったのを知っていた。
今度は俺の番なのだ。
だんだん体がこわばってくるのがわかった。
いよいよ近づいてきたのだと思う。

俺は勇気を出して石の下から出て、岩肌を這い登った。
水面からさらに上へと登った。
そこで体が動かなくなった。
目を閉じて、来る時を待った。

目を開けて、俺は驚いた。
俺の体が変わってしまっていた。
胴が痩せて細くなり、尻尾が長く伸びて、糸のような頼りない形になっていた。
顔からは口がなくなっていた。
もう何も食えないということか。

心細さと絶望で泣きだしたくなったとき、
俺の中に今まで経験したことのない衝動が生まれるのを感じた。
それはもっと上へ登りたいという衝動だった。
でもどうやって?
気がついたら、ふわっと体が浮いていた。
足が地を離れ、住み慣れた小川が下の方にあった。
俺は空を飛んでいるのだ。

まわりを見ると、あちこちから俺と同じような細い体が、
背中の薄い羽をふるわせて、空中に登ってきていた。
無数の仲間が飛び立ってきて、空を満たした。
みんなわんわんと狂ったように飛んでいる。
その中の一つに俺は引き寄せられた。
そいつは俺にぶつかってきた。
俺たちは何度もぶつかりあいながらわんわんと空を舞った。
俺は細い腕を伸ばして、そいつの体をつかんだ。
俺の腹の真ん中が熱くなった。
それはものすごい力だった。
腹の火が一気に燃え上がった。
俺は、たぶんそいつの柔らかい体を引き裂いた。
甘い汁が口の中いっぱいに広がった。
俺にはもう口がないので、それは幻覚だったかもしれない。

それが最後だった。
世界は素晴らしい。

出演者情報:齋藤陽介 03-5456-3388 ヘリンボーン所属

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