佐藤理人 2023年6月11日「シンガポールWX」

シンガポールWX(ウォータートランスフォーメーション)

       ストーリー 佐藤理人
       出演 大川泰樹

地上57階、高さ200m。
世界一高い場所にある、世界一長いプール、
マリーナベイサンズの「インフィニティプール」。
ぼくは今、その水の中にいる。
ローマ数字のⅢに似たタワーに支えられた巨大な船の上に、
幅150mのプールが広がる。その様は圧巻のひと言だ。
肌を焦がす強い日差しと裏腹に、水温は意外と低い。
地上の熱気の届かない冷んやりとした静けさは、
「空中の楽園」以外の言葉が見つからない。

国土が狭く平らなシンガポールは、雨水を溜める術に乏しい。
日本の2倍の降水量がありながら、慢性的な水不足に悩まされている。
平均気温は30°と高く、飲み水の確保は死活問題。
1965年の建国以来、水の大半をマレーシアからの輸入に頼ってきた。
にもかかわらず、この国の名所は水を大量に使うものが目立つ。
マーライオンの噴水。チャンギ空港のショッピングモール「ジュエル」の巨大な水滝。
そしてこのインフィニティプール。

貴重な水資源をなぜこんな贅沢に使えるのか。
その裏には国をあげて取り組んだ2つの新しいテクノロジーがある。
1つは下水の再生技術。
家庭排水を高度な精製技術で濾過・殺菌し、飲料水に変えた。
もう1つは海水の淡水化技術。海水を脱塩し、なんと真水に変えてしまう。
水の悩みを逆手にとったSF映画のような技術革新で、
いわば「WX(ウォータートランスフォーメーション)」を成功させたシンガポール。
各国の研究機関や企業が集う「水ビジネス大国」となった今、
中東諸国など同じように水問題に悩む国々を支援している。

プールのへりから街を一望する。
23区ほどの広さに、東京の約半分の人口が暮らしている。
3つの民族が4つの公用語を話す多民族国家。
見た目も言葉も文化もバラバラだが、
イギリスの新聞「エコノミスト」から10年連続で
「もっとも住みやすい都市」に選ばれている。
外を歩くと、街中に人々のエネルギーと自信が満ち溢れているのを感じる。
中華系、マレー系、インド系、そして海外からの欧米系。
誰だろうと挑戦を諦めないすべての人にとって、きっとこの国の水は合うのだろう。

シンガポールは日本と同じく水道水を飲める数少ない国だ。
でも異なる点がひとつある。それはフッ素が入っていること。
政策の一環として、国民の虫歯予防に添加されているそうだ。
さまざまな人種が思い思いにくつろぐこのプールの眺めは、
少子化により移民を受け入れた遠くない日本の未来と重なる。
そのとき彼らにとって、塩素がキツい日本の水は居心地がいいだろうか。
強い消毒効果が人々の多様性を殺さないといいな。
冷たい水に潜りながら、そんなことをふと思った。

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出演者情報:
大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

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佐藤理人 2013年9月8日

「桜の引退宣言」

    ストーリー 佐藤理人
       出演 地曵豪

桜が突然、

「春に飽きた」

と言いだした。

やれ咲いた散ったと大騒ぎするくせに、
いざ咲いてみれば花そっちのけで
酒や団子に興じるニンゲンたちに、
つくづく愛想が尽きたというのだ。

これからはどこか人里離れた場所で、
ひっそりと自分のためにだけ咲こうと思う。
そう言って桜は、花びらをハラハラと散らした。

桜の、この突然の引退宣言に植物界は騒然となった。

映画やドラマの使用料、CMの契約料、
歌詞の印税、お菓子をはじめとする
名物へのグッズ展開…。
春を代表する花になれば
莫大な富が転がり込んでくる。
このチャンスを逃す手はなかった。

後継者の発表は一週間後。
春を担うのに最もふさわしい植物を
季節に関係なく、桜自らが指名することになった。

もしかしたら自分が
日本で最も愛される植物になれるかもしれない。
我こそはと多くの草木や花が色めきだった。

次の春のトップ季語は誰かを巡り、
喧々諤々の議論が繰り広げられた。

バラはその美しさとトゲに一層の磨きをかけ、
早くも女王気取り。その横では、
温暖化で春はもう夏の一部だと主張するヒマワリと、
皇室に採用されし我こそが国花なりと言い張る菊が、
取っ組み合いの喧嘩を始めた。

そうかと思えばツバキは、
日本の女性を美しくしているのは自分だ!
とヒステリックに喚き、
タンポポはこの下流時代、
野に咲く美しさにこそ目を向けるべきだ!
と寂しくなりかけた綿毛を
振り乱しながら説いてまわった。

運命の一週間が過ぎた。

桜が指名するのは果たしてどの植物か。
その第一声を誰もが固唾を飲んで待った。

カサリと葉の触れあう音さえしない。
あまりの静けさに、
地面に落ちる夜露の音まで耳障りに思えた。

しかし、桜が後継者を発表することはなかった。
ワシントンに斧で切り倒されてしまったのだ。

「僕がやりました」

悪びれた様子もなく
正直に話すその顔いっぱいに、
少年法で守られている者の
したたかな自信があふれていた。

右手に握られた鋭い斧の刃が、
照りつける日差しを浴びてギラリと笑った。
少年を責める勇気ある者は、もはや誰もいなかった。

やり場のない失望と虚しさの入り交じった
深いため息が広がった。

気孔から吸い込まれたため息は、
葉緑素と結びついて光合成を起こし、
激しい怒りとなって再び空気中に排出された。
一触即発の不穏な沈黙が大地を満たした。

きっかけは嫌われ者の杉だった。

こんなときでも平気で花粉をまき散らす無神経さに、
周りの草花たちがついにキレた。

「ハクション!ハークション!」

幾重にも重なるくしゃみが
けたたましく響きわたる中、
杉の大木は無残になぎ倒され、
木っ端みじんに引き裂かれた。

それを皮切りに植物たちの大乱闘が始まった。
何万本もの枝や茎が折られ、
何リットルもの樹液や草汁、花の蜜が流された。

すべてが終わった後に残ったのは、
一面のススキの原だけだった。

どれだけ踏まれても立ちあがるその強靭な生命力を、
誰も根絶やしにすることはできなかった。

夕日に照らされたススキの原に、
突然ビュウと一陣の風が吹いた。

ススキたちは気持ち良さそうに、
いつまでもサラサラと揺れ続けていた。

出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/

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