ストーリー

佐藤充 2024年6月30日「痛いし滑るし濡れるし寒いし恥ずかしい」

痛いし滑るし濡れるし寒いし恥ずかしい。

    ストーリー 佐藤充
       出演 地曳豪

「1000円。1000円でいいよ」

東京ではもう春で、北海道の旭川ではまだ冬の頃だった。

路面沿いの雪は車の排気ガスで黒く、
電柱の下の雪は犬のおしっこで黄色くなっている。
カラスが飲食店の前に置かれたゴミ袋を漁っている。
もうそろそろ朝になる。

旭川のサンロクと呼ばれる飲み屋街でも、
この時間はタクシーなど走っていない。

ザクザクと音を立てて歩道を歩く。

昼間に降った雨のおかげで車道は
スケートリンクのようにツルツルになっている。
赤や青の信号機の光を反射している。

小さなころ、勢いつけて滑って下校していたのを思い出した。
ツーっと足を前後させバランスを取ってうまいこと滑るのだ。
誰もいないし、車道を滑って帰ろうかなと思ったときだった。
車が走ってきて、僕の近くで止まった。

車の窓を開けて母親くらいの年齢の女性が
「1000円。1000円でいいよ」と言う。

いきなりのことでなんのことかよくわからず、
車道でスケートをしようとした後ろめたさのせいか
お金を取られるのかと思ったが、違った。
車は白タクだった。

「家どこなの」と聞かれたので、自宅のある地域の名前を言うと
ちょうど女性もその辺りに住んでいるので
ついでだからと送ってくれることになった。

この時間はタクシーもいないでしょ、
歩いて帰るつもりだったのかい、
仕事はなにをしているの、
など他愛もない会話をした。

窓の外ではまた雨が降り始めてきた。

「あ、ここです」と知らない人の家の前でおろしてもらった。
女性に1000円を払い車が角を曲がるのを見送ってからまた歩きだす。
ここから自宅までは歩いて20分くらいだ。

ここでおろしてもらったのには理由がある。
自宅までの間に急勾配のくだり坂があるのだ。

そこを滑りたかった。
1度勢いつけて滑り出したら50メートルくらいは
止まらず滑っていける計算があった。

やってみた。
すぐに転んだ。
全身が濡れた。
無理だった。

頭から足までびしょびしょだ。

計算では50メートルは滑っていける予定だったが、
3メートルも滑ることができずに転んだだけじゃなく、
転ばないようにと無理な姿勢で身体に力を入れたときに、
股関節あたりの筋肉も痛めた感覚がある。

うまく立ち上がれない。
痛む股関節のおかげで力もうまく入らない。
痛いし滑るし濡れるし寒いし恥ずかしい。

計算外だった。
あの頃の自分と体幹が違う。
今の身体を計算に入れていなかった。

あと残り47メートル近くのくだり坂は、
お尻をついて滑っていくことにした。
冷たい水がパンツを通り越してお尻まで濡らして気持ちが悪い。
くだり坂が終わってからが大変だった。

今度はさらにそこから30メートルほどの急なのぼり坂があるのだ。

四つん這いになり匍匐前進をするように進む。
痛いのか冷たいのか感覚もない。恥も外聞もない。

まだ家にも着きそうにない。

路面沿いの雪は車の排気ガスで黒く、
電柱の下の雪は犬のおしっこで黄色くなっている。
スケートリンクのように凍り濡れた路面は、
赤や青の信号機の光を反射している。

反射した光を切り裂くように這って進む。

カラスが鳴いている。

もう朝になる。

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出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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中村直史 2024年6月23日「44歳主婦ダンボール育ち」

「44歳主婦ダンボール育ち」

    ストーリー 中村直史
       出演 山田キヌヲ

44歳、主婦です。ふたりの子どもがいます。
犬が1匹。あと夫が一人。夫は一人か(笑)。
自分のことを話すのはあまり得意じゃないので、
ちゃんと話せますかね・・・。
あと家族からもいつも説明がわけわからないと言われるので
わけわからなかったらごめんなさい。
そうですね、、、「なぜ雨が好きか」ですよね?

雨が好きの前にまずダンボールが好きという話をしてもいいですか?
私の親は私が小さいころに離婚というか
お父さんが家を出たっきり帰ってこなくて、
もともと貧乏だったから、お母さんが昼も夜も働いて
私とお姉ちゃんのふたりを育てたんです。
小さいお好み焼き屋さんをやってて。
お昼前11時から、深夜、というか
朝の4時くらいまでやってるようなお店でした。
お母さん一人で切り盛りしてました。
記憶にあるのは私がたぶん2歳か3歳で、
お好み焼き屋の厨房の床にダンボールに入って座ってました。

お店と家はつながってて、
厨房の仕切りを開けたら狭い私たちの家の居間で、
そこにいることもあったんですが、
少しでもお母さんの近くにいたかったんでしょうね、
いつも厨房にいたんです。ダンボールの箱に入って。
ダンボールに入っていると安心して、厨房がガチャガチャしてても、
酔っ払いのお客さんがワイワイしてても安心して眠れました。
箱の中に小さくなって寝てたんです。
おねしょのクセが治らなくて
小3くらいまではダンボールの中でおねしょしてた覚えがあります。
お好み焼きに使う「天かす」わかりますか?
天かすを入れたダンボールがいちばん大きくて、その中に入ってたんです。

もうちょっと大きくなってからは、
さすがにダンボールの中に眠るのはやめたんですけど、
よく押し入れで寝てました。
中学生くらいまでは押し入れで寝たんじゃないですかね。
ずっとお母さんが働いていて、
歳の離れたお姉ちゃんもお母さんのお手伝いをしてることが多くて、
だからさみしいというか、
でもダンボールの中と押し入れの中はなんかさみしくなかったんです。
守られている感じがして。なんだろう?あの狭い感じですかね。
そこにいるとお母さんやお姉ちゃんに守られてる感じがしてました。

大人になって田舎を離れて都会に住み始めてからは
アパートとかマンションに住むようになるじゃないですか。
古いアパートの3階に住んだことがあって、
それは建物のいちばん上の階だったんですけど、
そこが落ち着いたんですよ。とくに雨の夜が好きだったんですよね。
古いアパートだったから
屋根にあたる雨音がうるさいくらい部屋の中で聞こえて、
でも、当たり前ですけど部屋の中には雨は落ちてこなくて、
こんなに音がするのに
自分は濡れずに布団に入っている感じがすごく安心して、
なぜか小さい時のダンボールを思い出して、
それから雨の夜はお母さんやお姉ちゃんといっしょにいる気がして、
だから雨の日はうれしかったです。

結婚して、だんなさんが家を建てたいって言いだしたとき、
私はとくに家にあこがれもなくてこだわりも全くなかったんですけど、
家は大事だから要望をちゃんと言っておいた方がいいよって言われて、
私は工務店の人に「できるだけ安っぽい屋根にしてください」って
お願いをしました。
要望を言ったのはその一個だけです。
きょとんとしてましたね、工務店の人もだんなも、みんな。
雨の音が聞きたいっていうのが理由だとわかってからも、
みんな不思議そうでしたけど、
最終的には、じゃあ瓦の屋根じゃなくてガルバリウムの屋根がいいねって
だれかがいってくれて。
あと家の中の天井板もなくして吹き抜けの空間にしました。
屋根からの音が響くんです、そうすると。
デザイン的にもなんか今っぽいおしゃれな感じになるかも、
ということで工務店の人も夫も前向きに聞き入れてくれたようです。
要望を一個しか言わなかったのでさすがに聞かないわけには、って
思ったんだと思います。
結果すごく雨の音が聞こえる家になりました。
ちょっと響きすぎかなっても思うんですが、でもうれしかったです。
いまも雨の夜はわくわくしますね。

人生の目標とか夢とかもったことがなくて、
子どもたちもいい学校にいってほしいとか、
えらくなってほしいとか一度も思ったことなくて、
そんな感じだから子どもたちが勉強しないんだって
だんなさんに言われたこともあったんですけど、
そう思えないことはそう思えないので、ずっとそのままでした。
子どもたちは成功とかよりも、
ただただ安心して生きていってほしいです。
いろいろあっても雨の音を聞いたら安心するよって
私から言えることはそれだけです。
心配しないでって言いたいです。

長生きはしたいですね。
おばあちゃんになっていろいろやることがなくなったら、
ていうか今もそんなにやることないんですけど、、、
でももっとやることがなくなったら、
ふとんにくるまって漫画の本をたくさん横に置いて、
屋根にあたる雨の音を聞きながら過ごしたいです。
そうなるのが待ち遠しいです。
夢はないっていいましたけどそれが夢ですかね。

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出演者情報:山田キヌヲ  連絡先:ノックアウト https://www.knockoutinc.net/

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三島邦彦 2024年6月16日「晴れ男の雨」

晴れ男の雨  

ストーリー 三島邦彦
   出演 平間美貴

彼がどれくらいの晴れ男だったかというとね、
小学校から高校を卒業するまで遠足も運動会も文化祭も
修学旅行も卒業式も一度も雨に降られたことがなかったのはもちろん、
家族とか友達との旅行とか部活の試合とか、
どんなイベントも雨で中止になったことがなかったの。
だから雨天決行っていう言葉というか概念が
ずっとよくわからなかったんだって。

もちろん特別なイベントがない日には雨が降るから、
彼が住む町も水不足っていうことにはならなくて、
ずっと平和に生きてきたんだけどね。

わたしとのデートでも必ず空は晴れていて、
旅行の予定を立てる時とかは
そんな彼のことをとても頼もしく思っていたの。
だって雨の心配をせずに予定を組めるって、素敵なことでしょ。

でも、なんでだろうね。

そんな彼との結婚式の今日が雨だったなんて。

今日って、彼にとってイベントじゃないのかな。なんてね。

ううん。雨が嫌ってわけじゃないの。雨でもいいの。幸せなの。
雨が降らないとこの世界は干からびてみんな死んでしまうわけだし、
雨は自然の恵みだと思ってる。
今日スピーチしてくれた人はみんなそんなことを言ってたし。
天気の話をしないようにしてくれてる人も、
雨っていうのを素晴らしいものだっていう人も、
どっちもやさしいなって思ったよ。

でも、やっぱり、それでもね。
これまでイベントごとにはすべて雨を避けてきた彼なのに
なんで今日は降ったんだろうっていう意味を考えちゃうの。
もしも今日が特別な日じゃないとしたら、
いつが特別な日なんだろうって。

彼がとんでもない晴れ男だっていうことを知らなかったら
こんなこと、気にするはずもないのにね。
きっとすべては偶然で、
むしろこれまでがおかしかっただけなのにね。

彼?
いや、何も言ってない。
今日の朝から、雨については何もふれようとしなかったの。
ひょっとしたら、雨が降るってわかってたのかもしれない。

うん、そうだね、前向きに考えるとしたら、
この幸せは特別じゃなくて日常になるっていうことだよね。
そうだよね。きっとそうだよね。ありがとう。

こんな時間に電話してごめんね。
聞いてくれてありがとう。今日はほんとに、ありがとうね。



出演者情報:平間美貴 03-5456-3388 ヘリンボーン所属

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櫻井暸 2024年6月9日「きつねのよめいり」

きつねのよめいり

  ストーリー 櫻井暸
     出演 大川泰樹

晴れているのに、
雨が降っている。

「きつねのよめいり」
と呼ばれる現象だ。

私はこの、
きつねのよめいり、
という言葉が好きだ。

由来は諸説あるが、
きつねは人にバレないようにこっそり結婚式を挙げる、
という言い伝えからだという。

幻想的で不思議な空間を
うまく言い当てた、
とても素敵な表現だなと思う。

嫁に入る、という言葉に、
残された家族の切なさを感じるのも、
またいい。

私の記憶では、幼稚園の帰りに母親が、
「これはきつねのよめいりって言うんやで」
と、昔教えてくれた。

この言葉があまりに印象的だったのか、
私はしばらく、これを別名
「天気雨」と言うことを知らなかった。

天気雨。
別にこの表現が嫌いではないが、
この言葉にはどこか寂しさを感じる。

せっかく美しい現象なのに、
あまりに説明的すぎるからだろうか。

しかし、都会で仕事をしていると、
天気雨、と呼んでしまいそうになる。

最近はもうみんな、
効率、の話ばかりだ。

自分もその波に見事に飲まれて、
効率よく仕事をすることを心がけてしまっている。

空を見上げることも、少なくなった。

そんな中、以前、とあるクライアントのCMで、
「きつねのよめいり」という企画を提案したことがある。

付き合う直前のもどかしい男女が、
突然の「きつねのよめいり」がきっかけで
こころの距離を縮める、というもの。

すると、それまでカタカナで費用対効果の話をしていた人たちが、
「きつねのよめいりいいですよね!」「僕もこの言葉大好きで!」
と言ってくれて、この企画を採用してくれた。

会議室に、虹がかかった気がした。
これも、きつねのしわざか。

私もいつか、
「晴れているのに雨が降っている」という現象を
初めて見た人がいたならば、

まずは「きつねのよめいり」
という言葉を教えてあげたい。

そしてこの言葉を思い出すたびに、
少し肩の力を抜いてもらいたい。

そういえば、
今回この話を書くにあたって、
色々調べていると、

日本で言う「きつねのよめいり」は、
海外でも動物に喩えられることが多い、
ということがわかった。

なんとギリシャでは、
「ゴリラの結婚式」と言うらしい。

「これな、晴れてるのに雨降ってるの、綺麗やろ?
『ゴリラの結婚式』って言うんやで。」

そう教えてあげるのも、悪くない。



出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

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梅雨のごあいさつ

ごあいさつ

   遠藤守哉

五月雨を あつめて早し 最上川  松尾芭蕉

紫陽花や 昨日の誠 今日の嘘  正岡子規

さみだれや 青柴積める 軒の下   芥川龍之介

さみだれや 大河を前に 家二軒   与謝野蕪村

紫陽花の その水色の悲しみの
したたる夕べ カナカナの鳴く    若山牧水

吾が庭の 梅雨の雨間の花どころ
アカザ茂りて アオガエル鳴く   北原白秋

沈黙の 我に見よとぞ百房の
黒き葡萄に 雨ふりそそぐ     斎藤茂吉

6月になりました。
一年の半分が雨の季節で終わります。
もう半分もお元気で。

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直川隆久 2024年5月26日「川のある村からの使い」

川のある村からの使い

     ストーリー 直川隆久
        出演 遠藤守哉

雑居ビルにある事務所のガラス窓を、強い雨がしきりに叩いている。
近頃台風が多く、大雨の日が続く。

信頼していた経理の人間の裏切りのせいで、私の会社は窮地に立たされていた。
先々月次男の浩次郎(こうじろう)が生まれ、
これから踏ん張らねばならないと思っていた矢先だった。
土砂降りの中をずぶぬれになりながら資金繰りに奔走する日が続いた。

万策つきたかと思われたある日、
疲労困憊して事務所のソファに体を沈めていると、
ドアを開けて一人の男が入って来た。
80…いや、90近いだろうか。
ジャケットにループタイというスタイルに、ソフト帽。
ズボンの裾が、濡れて黒い。
男は名を名乗らず、ただ水落村の者だとだけ言った。

水落村? …どこかで聞いたことがある。
「ご存知ありませんかな。あなたのお祖父様、それと…
お父様がお生まれになった村です」
そう言って男は来客用デスクに座り、ジャケットの内ポケットをまさぐった。
分厚い茶封筒を取り出すと「不躾かもしれませんが…」と、こちらへ差し出した。
「もし何か今お困りなのでしたら、この金をお使いください」
「はい?」
「いえ、差し上げるのです。受領書も要りません」
私は呆気にとられた。そんなものをもらういわれがない、と突き返すと男は
「あなたのお祖父様と水落村の約束があるのです。
だから、このお金はあなたのものなのです」と答えた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
わたしは父方の祖父について多くを知らない。
わたしがごく幼い頃亡くなったし、
父が生家について話すこともあまりなかったからだ。

父は、青年期まで過ごした水落村を出た後、東京で就職した。
結婚を機に近郊の新興住宅地に家を買い、そこで私と弟の英二が生まれた。
そんな父に、一度故郷のことを尋ねたことがある。
父は、自分の弟を幼い頃なくした記憶があり、
その村のことはあまり思い出したくないのだと語った。
村の話を父としたのは、その一回きりだ。

父は、英二をとても可愛がっていた。
自分の弟を亡くした後悔がそうさせるのか、溺愛と言ってもよかった。
その英二が行方不明になったのは、わたしが小学3年生の頃だった。
ちょうど今年のように台風が全国的に猛威をふるう年だったのを覚えている。
父は半狂乱で町中を駆けまわったが、弟の姿は現れなかった。

その後、どうしたわけか我が家の家電製品がすべて新しくなり、
クルマも新車になった。
ぴかぴかと眩しく輝くモノが家の中に増えるのと相反するように
父はふさぎこみがちになり、数年後、病で亡くなった。
大学進学を機にわたしは家を出たが、父の残してくれた遺産は充分あり、
経済的には分不相応なほど恵まれた学生生活を送った。
その数年後、母は家を処分した。
弟をなくした記憶のしみつく家が消えたことで、
安堵に似た気持ちがわき起こったのを憶えている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「いったいどんな約束がうちの祖父とあったのです」
わたしが問うと、男は懐をまさぐってショートピースの箱を取り出した。
マッチでタバコに火をつけ、きつい匂いの煙をゆっくりと吐き出してから話し始めた。
「水落村は、昔から暴れ川に悩まされてまいりました。
開墾以来…何百年でしょうな。ひとたび川の水が溢れますと、
赤くて酸のきつい泥を田畑がかぶってしまい…難渋します。
ですから、手立てを打つ必要があった。川の神を鎮めるために、犠牲を払う必要が」
「犠牲?」
「ええ。誰かがそれをやらなくてはいけないのだが、手を挙げる者はない。
しかしその中で唯一…」
男はタバコに口をつけ、もう一度煙を吐いた。
「唯一あなたのお祖父様が、
末代にまで渡ってその犠牲を払うという約束をしてくださいました。
本当に貴い申し出だった。私はまだその頃小僧でしたが、
あなたのお祖父様のご勇断を家の者から伺い、大変感銘を受けたのを憶えております」
男は、煙をすかして遠い景色を見るような目つきをした。
「ですから我々は、あなたのおうちを代々…村を挙げてお助けする義務があるのです。
取引だなどと言いたてる者もおりましたが、
そういう口さがない連中に限って、何もしないものです」
そう言って、男は茶封筒に手を添えると、こちら側へ押してよこした。
その仕草には何か有無を言わせぬ力があった。
男はタバコをもみ消し「そろそろお暇(いとま)しましょう」と立ち上がった。
「おそらく、伺うのもこれで最後になるでしょう。
 水落村の暴れ川も来年あたりようやく護岸工事が始まりそうでして…
 捧げものの必要も、ようやっとなくなりそうなのです」
男は帽子を取ると深々と一礼した。
「本当に、感謝いたしております」
男が去ったあと、茶色い封筒の横の灰皿から薄く煙が上っていた。

 そのとき、携帯が鳴った。
出ると、妻の震える声が耳に切りこんできた。
「こうちゃんがいないの。窓際のベビーベットに寝かせていたら…
 窓が割れてて……こうちゃんが…こうちゃんが…」
窓ガラスをさらに猛烈な雨が叩き始め、轟音が電話のむこうの妻の声をかき消した。

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出演者情報:遠藤守哉

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