2014 年 7 月 のアーカイブ

大友美有紀 14年7月6日放送

140706-05
torumiwa
「サンダルの季節」 ビーサン屋・げんべい

まるに「げ」のひらがな。
ビーチサンダル専門店「げんべい」のマークだ。
葉山の、商店街もない、国道からも遠い、
電車の駅からはバスで20分もかかる。
そんな場所に「げんべい」の店舗はある。
創業は江戸末期、足袋や手甲、脚絆をつくる職人の店だった。
現在の店主は中島広行。
げんべいの跡継ぎ娘と結婚して五代目となった。

継いだ当初、店はいわゆる「万屋」だった。
紳士・婦人物の肌着、靴下、ストッキングなどを扱っていた。
げんべいで買いものをするのは恥ずかしい、と言った声も聞いた。
3年間頑張っても売上げは落ちるばかりだった。

 ええい!どうせ落ち込むのなら、
 自分で考えて好きなことをやってやる!

足袋の店からはじまった「げんべい」は、戦後の物不足の時、
ビーチサンダルにこだわりを持っていた。
その原点に立ち戻ったのだ。
豊富な色数、やわらかい天然ゴムを使った鼻緒、
疲れにくい、くさび形のソール。

そのこだわりを貫き、ビーチサンダル専門店という、
他にはない店を作り上げたのだ。

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大友美有紀 14年7月6日放送

140706-06

「サンダルの季節」 ベンハーサンダル・チャールトンヘストン

ローマ帝国を舞台にした映画「ベンハー」。
主演のチャールストン・ヘストンは、
アカデミー主演男優賞を獲得した。
劇中で彼がはいていたサンダルをご存知だろうか。
ベンハー・サンダルと呼ばれている、
甲を止める幅広いベルトに鼻緒が連結されたもの。

この俳優を知らなくても、
この映画を知らなくても、
このサンダルは見たことがあるだろう。

チャールトン・ヘストンは、どんな俳優か。
「十戒」の監督、セシル・B・デミル曰く、
 
 ミケランジェロ彫刻の、
 聖書の人物にそっくりだったので、
 彼をモーゼ役に選んだ。

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大友美有紀 14年7月6日放送

140706-07
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「サンダルの季節」 島ぞうり・中島広行

葉山のビーサン専門店「げんべい」店主、
中島広行がビーサンの国内生産を目指し、
工場を訪ね歩いていたとき、ある金型に出会った。
昔、沖縄向けにつくられていたビーサン「マルト」の金型だ。

 台のカタチが特殊で、鼻緒も左右同じ長さでつくられている。
 模様もほかでは見たことがなかった。
 これはイケル!20年ぶりに「マルト」を復活させた。
 今、沖縄土産で人気の「島ぞうり」の原型です。

 
ビーサンの国内生産の火を絶やしたくない。
中島の強い想いがある。

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大友美有紀 14年7月6日放送

140706-08
Simply Bike
「サンダルの季節」ビルシュトック・カールビルケンシュトック

サンダルの生みの親とされるカール・ビルケンシュトック。
その祖先、ヨハン・アダム・ビルケンシュトックは、
1774年教会の公文書に「臣王のシューマイスター」と登録された。
以来代々、靴づくりを続けてきた。
足にフィットする「フットベッド」を開発し、
医学的な研究を重ね、靴づくりを広め、専門書を発行する。
そして1954年、カール・ビルケンシュトックが
サンダルの開発を始めた。

 デザインは、していない。
 自然が作り上げた。

 

人の足形のストレートに向き合うことで、
ビルケンシュトックの機能美は、必然的に生まれた。

夏、なにげなく履いているサンダルは、
長い歴史と、職人の思いから生まれているのだった。

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佐藤延夫 14年7月5日放送

140705-01

ふたつめの人生 新村出(しんむらいずる)

明治生まれの言語学者、新村出は
広辞苑を編纂した人物として知られている。

東京帝国大学助教授を経て
そののち、京都帝国大学の教授となる。
言語学講座を28年にわたり担当した。

そして第二の人生では、さまざまな肩書きを並べる。
日本言語学会会長、
大東亜学術協会会長、
全国図書館大会名誉会長、などなど。

しかし当の本人は、平凡な人生を強く望んでいた。
こんな一句が残っている。

  小器われ 晩成もせず 永らえて 凡器を抱き 安らかに生く

自分が思うよりも、偉くなりすぎてしまった人。

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佐藤延夫 14年7月5日放送

140705-02

ふたつめの人生 間宮林蔵

むかし、社会の授業で習った。
サハリンとユーラシア大陸の間にあるのは、
間宮海峡だ。

1808年、幕府の命令で樺太に渡った間宮林蔵らは、
この土地が半島ではなく、島であることを確認。
のちにシーボルトが、間宮海峡と名付けた。
思いもよらず、世界地図に自分の名を残したのが最初の人生。

その後は幕府の隠密となり、
各地で行われていた密貿易を摘発している。

ちなみに間宮林蔵は変装の名人で、
粗末な格好をさせたら誰も本人だとわからなかったそうだ。

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佐藤延夫 14年7月5日放送

140705-03
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ふたつめの人生 佐藤義清(のりきよ)

平安時代の武士、佐藤義清は
鳥羽上皇のとき「北面の武士」に任命された。

北面の武士とは、御所の警護役ではあるが
容姿端麗、武術にすぐれ、詩文や和歌の心得も必要という、
いわゆるエリート集団だった。

そんな佐藤義清だが、わずか3年後、
23歳の若さで出家してしまう。
第二の人生での名前は、西行。
新古今和歌集で94首が選ばれるほどの歌人になった。

佐藤義清が出家した理由。
それは、恐れ多いほどの人と
不倫関係にあった、という説もある。

不意に人生を変えるのは、いつの時代も、恋なのか。

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佐藤延夫 14年7月5日放送

140705-04

ふたつめの人生  平賀源内

江戸時代の発明家、といえば
まず思い浮かぶのは、平賀源内だ。

13歳のころから本草学や儒教を学び、
25歳で長崎に遊学し、珍しい舶来品を目の当たりにした。
そして有名なエレキテルの発明、
土用の丑の日に鰻を食べる、という
広告プランナーのようなことまでやってのけた。

ここまでが、華やかな最初の人生だとすると、
第二の人生は、決して幸せではなかったようだ。

秩父で金山を採掘するも失敗。
炭焼き事業、焼き物、毛織物事業なども、ことごとく外れ、
晩年は殺人容疑で投獄されたうえ、一年後に病死してしまう。
亡くなる数年前に、こんな句を残した。

  功ならず 名ばかり逐いて 年暮れぬ

器用な人ほど、人生は難しそうだ。

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