2015 年 8 月 のアーカイブ

奥村広乃 15年8月16日放送

150816-06
Yuki Yaginuma
盆踊りの偶然短歌

念仏で 救済される 喜びに 衣服もはだけ 激しく踊り
 
盆踊りのことを詠んだ、この短歌。
ご存知だろうか。
 
読み手はコンピュータープログラム。
ツイッターの「偶然短歌bot」が詠んだ短歌だ。
 
言葉のネタ物は、インターネット上の百科辞典Wikipedia。
その盆踊りのページから、
偶然短歌のリズムになったフレーズを
抜き出して詠まれている。
 
膨大な言葉の海から掬い上げられた
5・7・5・7・7に並んだ言葉。
偶然生まれたにしては美しすぎる。

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礒部建多 15年8月16日放送

150816-07
hanapapa
福島の盆踊り

「先祖の霊を迎え慰め、彼岸に送り返す仏教行事」
というのが盆踊りの由来。

「あまちゃん」などで知られる音楽家の大友良英が主催する
福島復興のための「プロジェクトFUKUSHIMA」では、
メインイベントとして、盆踊りが取り入れられている。

昔も今も、
人々の心に安らぎをもたらしてくれる盆踊り。
「ドドンがドン」の掛け声に合わせて
老若男女誰しもが、不思議と笑顔になっていく。

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松岡康 15年8月16日放送

150816-08
東京五輪音頭

1964年10月に開催された
東京オリンピックのテーマソング「東京五輪音頭」。
東京五輪の前年、1963年に発表されたこの曲は、
当時の人気歌手であった三波春夫や橋幸夫、坂本九など
多くの歌手によってレコード化された。

その中で最も売り上げを伸ばしたのが
三波春夫の歌だった。
シベリアで捕虜となるなど、壮絶な戦争体験を持つ三波。
この曲への思い入れは強く、
どこでもいつでも一生懸命「東京五輪音頭」を歌った。

三波は語る。

日本は、日本人は、頑張って、こんなに戦後復興を遂げたんですよ、
ということを、戦後初めて世界に示すイベントである
東京五輪は、なんとしても成功してもらいたい。

オリンピックが終わった後も、
三波はこの歌を歌い続け、人々を笑顔にした。

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三島邦彦 15年8月15日放送

150815-01

戦争と平和 渡辺白泉(わたなべはくせん)

戦場で炸裂する爆弾。
町中に鳴り響く軍歌。
映画や小説の中の戦争はいつも、激しい音に包まれている。

そうした戦争の描き方に、
新しい表現を切り開いたのは、俳句だった。
俳人、渡辺白泉。
70年前の戦争中、こんな句を詠んだ。

 戦争が、廊下の奥に立っていた

猫のように、どろぼうのように、
静かな日常に音もなく侵入し、
いつの間にかその姿をはっきりさせる、戦争。
気づいたときには家庭の奥まで入り込んでしまっている、その不気味さ。

この一句があるおかげで、
私たちは、戦争というものの始まり方に、
あらためて注意することができる。

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三島邦彦 15年8月15日放送

150815-02

戦争と平和 鶴見俊輔 (つるみしゅんすけ)

2015年7月20日、
ひとりの思想家がこの世を去った。

その人の名は、鶴見俊輔。
ハーバード大学の在学中に日本とアメリカの戦争が始まり、
捕虜収容所で書いた論文で大学を卒業した。
鶴見はある日、捕虜としてアメリカに残るか、
日本に帰るかの選択を迫られ、日本への帰還を選んだ。

政治家の家系に育った鶴見には、
アメリカと日本が戦争をすると決まった時から、
日本が負けることがわかっていた。

日本は戦争に負ける。
その敗北を、アメリカで安全と食料が確保された捕虜として迎えるよりも、
日本でともに負けたいと鶴見は思った。

鶴見は、自らの生き方をこう語る。

  日本の国について、その困ったところをはっきり見る。
  そのことをはっきり書いてゆく。
  日本の国だからすべてよいという考え方をとらない。
しかし、日本と日本人を自分の所属とすることを続ける。

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三國菜恵 15年8月15日放送

150815-03

戦争と平和 坂口安吾

太平洋戦争が本格的にはじまった日、
ラジオから流れてくる放送に
日本中が緊張していた。

そんな中、坂口安吾はふらりと散歩へ。
「お魚を買ってきてくださらない」と
友人夫婦に頼まれていたから。

安吾は魚屋で焼酎までご馳走になった。
夕陽を浴びながら、すっかりいい気分。
けど、本心は決して穏やかではなかった。

 日本は負ける、否、亡びる。
 そして、祖国と共に余も亡びる、と諦めていた。

ギスギスした空気の中、命をかけて楽天的であり続けた。
そうした人たちによって、戦後、文学はまた生まれることができた。

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中村直史 15年8月15日放送

150815-04

戦争と平和 石橋湛山(いしばしたんざん)

ジャーナリスト、石橋湛山。
戦争へ向かう日本で、
敢然と軍部を批判した。

世界の国々と友好を築き、貿易を活発化し、人の力を生かす。
それが日本の繁栄する道。
理想論ではなく、冷静な分析に基づいた主張だった。

軍部の暴走を止めることはできなかったが、
戦後日本の復興に心血をそそいだ。

1950年、第55代内閣総理大臣就任。
病のため、在任期間はわずか65日。道半ばだった。
石橋の残した言葉がある。

 資本を豊富にするの道は、
 ただ平和主義により、
 国民の全力を学問技術の研究と産業の進歩とに注ぐにある。

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伊豆原浩太 15年8月9日放送

150809-01
Sharif Sharifi
ウィニー・ハーロウ① 世界で最も美しい「まだら肌」のモデル

世界中から熱い視線を浴びる黒人モデル、
ウィニー・ハーロウ 19歳。

1994年、カナダのトロントで生まれた彼女は、
4歳の時に、肌の色素の一部が抜け落ちる病を発症。
体中に白いまだら模様が広がり、
友人からは、「シマウマ」というあだ名で呼ばれた。
あまりにも続く嫌がらせに、自殺を考えたこともあった。

そんな彼女が、今年、世界を代表するトップモデルの仲間入りを果たした。

コンプレックスを抱えながらも、臆することなく夢へ突き進んだウィニー。
彼女は、今、“世界で最も美しい「まだら肌」のモデル”と呼ばれている。

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伊豆原浩太 15年8月9日放送

150809-02
BWJones
ウィニー・ハーロウ② 人生を変える出会い

世界で最も美しい「まだら肌」の黒人モデル、
ウィニー・ハーロウ。
人生の転機は16歳の時に訪れた。

地元トロントのジャーナリスト、シャノン・ブードラムが
彼女の生い立ちを取材。YouTubeで取り上げたのだ。

体中に白いまだら模様が広がる病に苦しみながらも、
「モデル」という夢を追いかけ、前向きに生きるウィニー。
彼女の姿は、やがてイギリスで最も歴史のあるタブロイド紙「The Daily Mail」やアメリカの情報番組「Access Hollywood」でも特集された。
ほとんどのモデル事務所から見向きもされなかったウィニーが
世界中の注目を集め始めた。

当時を振り返って、ウィニーは言う。
もしも、子ども時代に戻れるなら、自分にこう声をかけてあげたい。

「大丈夫。これから、きっといいことがあるから。」

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伊豆原浩太 15年8月9日放送

150809-03

ウィニー・ハーロウ③ コンプレックスじゃなくて、個性

モデルの卵を発掘する
アメリカの人気テレビ番組「America’s Next Top Model」。
世界で最も美しい「まだら肌」の黒人モデル、
ウィニー・ハーロウは、ここから誕生した。

番組のホストをつとめる人気女優、タイラー・バンクスが
偶然、ウィニーの存在をインスタグラムで発見。
本人に出演を依頼したのだ。

番組では、これまでウィニーを幾度となく苦しめた「まだら肌」が
唯一無二の個性として評価された。
自身のコンプレックスと正面から向き合い、個性として捉え
前向きに生きてきたウィニー。
さまざまなオーディションに競り勝ち、
モデルを志願する全米の応募者の中から6位に入賞。
幼い頃からの夢だった「モデル」への切符を手にしたのだ。

彼女は、肌の褐色の部分を取り除けば、
全身を白くすることができた。そうしない理由をこう語っている。

「もし、神様がわたしを黒人にしたかったならば、そうしただろうし、
 白人にしたかったなら、そうしたでしょ。でも、神様はわたしに
 オリジナルな存在として、両方を与えた。だとしたら、それが
 わたしのあるべき姿だと思うの。」

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