2015 年 8 月 のアーカイブ

伊豆原浩太 15年8月9日放送

150809-04
warriorwoman531
ウィニー・ハーロウ④ 自分自身がどう思うか

2015年2月。
世界で最も美しい「まだら肌」の黒人モデル、ウィニー・ハーロウは、
スペインのファッションブランドdesigualのモデルに抜擢された。
幼い頃からの夢だった「モデル」としてデビューを果たした。

彼女はこう話す。
「トップモデルでさえ、いろんな個性を持つ時代が来たと思うの。
 あなた自身があなたをどう思うか。それが一番大切なんじゃないかしら。」

コンプレックスに正面から向き合い、
個性として活かすことで、夢をつかんだウィニー。

世界中の人びとを魅了するのは、彼女の容姿だけではなく
強くてポジティブな生き方である。

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山田英理人 15年8月9日放送

150809-05

後藤新平

1923年 関東を未曾有の大地震が襲った5日後、
帝都復興院総裁 後藤新平はこう宣言した。

 躊躇逡巡。
 この機会を逃すこと、国家永遠の悔を遺すに至るべし。

後藤にとって震災は
東京発展のチャンスだったのである。

 復興費に30億円を要せよ。
 幹線道路は、幅60m以上、中央に芝を。
 建物も広場も、建材はレンガを使うべし。

新聞紙面上に発表された国政の数々。

しかし、後藤は世間に大風呂敷と揶揄され、
結局復興は五億円にも満たない小さなものとなった。

あれからもうすぐ一世紀、

(ナビ)この先、集中工事のため渋滞です。

幅22mの環状線の真ん中で、
今日もカーナビが、
僕たちに国家永遠の後悔を、告げている。

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山田英理人 15年8月9日放送

150809-06

ナンシー・ハンクス

ナンシー・ハンクスは、
貧しかった。
学もなかった。
それでも息子に教育を、と
毎日聖書を読んで聞かせた。

聖書の御言葉通りに、
神を愛し、隣人を愛しなさい。

そう日々教え続けてきた彼女だったが、
不幸にも風土病にかかってしまった。
この世を去る間際、
まだ9つの息子にこう言った。

 汝は、100エーカーの農場を持つよりも、
 一冊の聖書を持つものとなれ。

息子の名はエイブラハム・リンカーン。
のちに彼は古い聖書を手に、
第16代大統領就任を宣誓する。

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山田英理人 15年8月9日放送

150809-07

金栗四三

昭和42年、
マラソンランナー金栗四三(かなぐりしそう)のもとに
一通の手紙が届いた。

 第5回ストックホルムオリンピック日本代表、金栗四三選手。
 あなたはスタート後一切の報告がありません。
 ぜひ、ゴールすることを要請します。

レース中に意識を失くした日本人を
委員会はリタイアと見なさなかったのだ。
金栗はゴールし、大会の全日程が終了した。

 タイムは、54年と8ヶ月 6日と5時間 32分20秒3だった。

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山田英理人 15年8月9日放送

150809-08

ジョンソン博士

「ジョンソン博士曰く」
スピーチやディスカッションで
このセリフが持つ効果は大きい。

世界で初めての英語辞典を編集した、
サミュエル・ジョンソン博士の威厳を
借りられるのだから。

キューブリック監督作品 『突撃』にも博士は登場した。

第一次世界大戦のとある戦線。
ドイツ軍基地を狙うため、
将軍は無謀な突撃作戦を敢行した。

「愛国心があれば突破できる。」と言う将軍に、
カークダグラス演じるダックス大佐は、
「将軍、ジョンソン博士は別の考えを披露されています。」
と言ってから、次の成句を引き合いに出す。

 愛国心は悪党の最後の隠れ蓑だ。

ことばに勝る武器は、きっとない。

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福宿桃香 15年8月8日放送

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マイヤ・プリセツカヤ①

2015年5月2日、ひとりのバレリーナがこの世を去った。
彼女の名は、マイヤ・プリセツカヤ。
「20世紀最高のバレリーナ」と呼ばれた、伝説のダンサーだった。

生まれ持った運動能力とカリスマ性を考えれば、
プリセツカヤがバレエの道を進むことは、必然だったといえる。
彼女は、生後8ヶ月で歩き始めた。
誰に教わるでもなく爪先立ちで歩き回るようになり、
靴に穴が開くまで踊り騒いだという。
見かねた両親に連れられて行ったバレエ学校の試験では、
彼女が披露した1回のお辞儀に審査員が魅了され、合格となった。

天性の素質が開花した彼女の勢いは止まらない。
バレエの知識も経験も持たずに入学してきた少女は
卒業試験を満点で合格。
世界5大バレエ団のひとつ・ボリショイバレエの一員となった。

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福宿桃香 15年8月8日放送

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マイヤ・プリセツカヤ②

20世紀最高のバレリーナ、マイヤ・プリセツカヤ。
最高のバレリーナと呼ばれる所以は、
最高のパフォーマンスを、どんな時でも、見せてくれたからに他ならない。

フィレンツェで、「かもめ」という演目を踊ったときのこと。
左足の指を骨折していた彼女は、
1時間かけて塩化エチルで指を麻痺させ、いつもどおりに舞台へ立った。

すさまじいまでの忍耐強さが培われたのは、
スターリンの支配下で暮らした幼少期。
父親が処刑され、母親と弟が収容所へ連れていかれた絶望の中でさえも、
彼女は踊ることをやめなかった。
家族の分まで踊らなければ。それが自分の使命だと信じていた。

晩年、彼女はこんな言葉を残している。
「どんな場所にいても、なぜそこにいるのかがわかっていなければならない」
多くの人に支えられて舞台に立てる幸せと責任を、生涯忘れなかったのだろう。

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福宿桃香 15年8月8日放送

150808-03
www.kremlin.ru
マイヤ・プリセツカヤ③

スターバレリーナとして、
80歳を過ぎても踊りつづけたマイヤ・プリセツカヤ。

日本との関係は非常に深かった。
公演のためにたびたび来日していた現役時代はもちろん、
引退後も日本の若手を育成するべく、何度も足を運んだ。

宝塚歌劇団の公演「王家に捧ぐ歌」では、
彼女が自らミュージカルの振付を担当している。
稽古の日に合わせて来日し、
檀れいや湖月わたる、安蘭けいをはじめ
当時のトップダンサー達に厳しく指導をした。

魂と心と技術が一体にならないと、美しさは生まれない。
彼女の教えを、日本のダンサーたちは今も覚えている。
日本の芸術への貢献をたたえて、
黒澤明やオスカー・ピーターソンにつづき88人目となる
高松宮殿下記念世界文化賞をはじめ、旭日中綬章が贈られた。

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福宿桃香 15年8月8日放送

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マイヤ・プリセツカヤ④

スターバレリーナ、マイヤ・プリセツカヤの代表作といえば、
「瀕死の白鳥」。

バレリーナの個性が大きく出る踊りで、
彼女が演じる白鳥は、1度しか倒れない。
最後の最後まで死に抵抗し、突然、動きを止めるのだ。

彼女の白鳥は、彼女の人生そのものだったといえる。
自伝には、こんな言葉があった。

蔑まれたり、人間としての尊厳が踏みにじられない日は一日としてない。

ユダヤ系の家系だったことを理由に受けた差別・迫害はすさまじく、
海外公演で滞在していたホテルでは、食事がドッグフードのこともあった。

それでも彼女は、バレエを通じて抗いつづける。
「カルメン組曲」や「ボレロ」など反ソ連的な新作に挑戦を続け、
世界をよりまっとうな方向へと、変えていった。

プリセツカヤの死後、日本のバレリーナ・森下洋子は、こう語った。

自らをなげうって多くの人に喜びを届けるという聖なる仕事を終え、
マイヤさんが彼岸に渡る船から手を振っている姿が、はっきり見えるような気がします。後は任せた、と。

自伝のタイトルは、「闘う白鳥」。
彼女の一生は、長い長い闘いだった。

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蛭田瑞穂 15年8月2日放送

150802-01
Hambear
夏を感じる① サーファー・ムーン

ビーチボーイズのリーダー、ブライアン・ウイルソンは海が苦手だった。
サーフィンの経験もない。

それでもブライアンはレコード会社の要請で
サーフ・ミュージックをつくることを余儀なくされた。

3作目のアルバム『サーファー・ガール』に収められた『サーファー・ムーン』。
サーフ・ミュージックとしては異例の、管弦楽器を用いたスローバラード。
歌われるテーマも太陽ではなく月。

サーフィンをやらないブライアン・ウイルソンだからこそ
創造することのできた、オリジナルな世界がそこにはある。

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