藤本組・藤本宗将

永久眞規 18年2月17日放送

180217-01
Abhisek Sarda
文豪の朝食 夏目漱石

明治の文豪、夏目漱石は、
当時としては珍しい洋風の朝食を好んでいた。

ロンドン留学から帰国した後、
彼の朝食はもっぱら、紅茶とトースト。
そして、何よりも楽しみにしていたのは、苺のジャム。

大の甘党で、
羊羹を常に持ち歩くほどだったと言われる漱石は
ジャムをトーストに塗るのではなく、
瓶からスプーンですくってそのまま食べていたらしい。

代表作『吾輩は猫である』には、
猫の飼い主が、ジャムを食べすぎて妻に咎められるシーンがある。

 元来ジャムは幾缶舐めたかい?

 今月は八つ入りましたよ。
 〜あんなにジャムばかり嘗めては、胃病の治る訳がないと思います。

この言葉は、漱石が実際妻に言われたものだろうか。
それとも、糖尿病のけがあった自分への戒めの言葉だったのだろうか。

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村山覚 18年2月17日放送

180217-02
Allagash Brewing
作曲家の朝食 ベートーヴェン

一杯のコーヒーはインスピレーションを与え、
一杯のブランデーは苦悩を取り除く。

作曲家・ベートーヴェンの一日は、コーヒー豆を数えることから始まる。
豆の数は、毎朝決まって60粒。
1粒ずつ正確に数えて、満足げに豆を挽くもじゃもじゃ頭の男。
その姿を想像するだけで、なんだか可笑しい。

耳が不自由で、テンポを正確に刻むメトロノームを愛用したという
ベートーヴェンのことだから、コーヒーミルをがりがりと回すリズムも
きっと一定だったろう。

4拍子?それとも3拍子?毎朝同じ数の豆を挽くという単純作業は、
さながら、オーケストラが演奏会の前に行うチューニングのようだ。
はじまりの合図であり、体と心を整える儀式。

さあ、はじめるぞ。がりがりがり。

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藤本宗将 18年2月17日放送

180217-03
benho.sg
ロックスターの朝食 キース・リチャーズ

優雅な朝食の定番である「エッグベネディクト」。
だがローリング・ストーンズのギタリスト
キース・リチャーズの手にかかれば、
破天荒なエピソードに変わる。

ツアー中のある朝、ホテルで事件は起きた。

バンドのサポートメンバーが
ホテルの隣でゴルフをしていたところ、
打ったボールが大きく曲がり、
木立で跳ね返るとキースの部屋に飛び込んだのだ。

着地した先は、なんとキースの朝食。
イングリッシュ・マフィンの上に、
ポーチドエッグではなくゴルフボールがのってしまった。

慌てて駆けつけると、
そこには仁王立ちになったキースがいた。
片手には銃口から煙が立ちのぼった拳銃。
そしてもう一方の手には、
焦げた丸い物体がぶすぶすと煙を上げている。

キースはこう叫んだという。

 今のはペナルティ10打くらいのひどいプレーだ!
 俺の朝食が台無しじゃねえか!

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福宿桃香 18年2月17日放送

180217-04
Ippei Suzuki
ご長寿姉妹の朝食 きんさんぎんさんの娘たち

赤みそで仕上げた、玉ねぎのお味噌汁。
この一杯を何十年も飲みつづけているのは、
日本中の人気者だった双子のご長寿姉妹、
きんさんぎんさんの4人の娘たちだ。

「自分のことは自分で」という母・ぎんさんの教えを受け継ぎ、
90を超えた今でも、毎朝じぶんで台所に立つ。

たまねぎは、なるべく細かく。
出汁と赤みそを入れ、
あまり溶かさないまま沸騰させる。
「目分量、目分量。」
そう言いながら、切った豆腐と揚げ玉を鍋へ。
そしていちばんのこだわりが、
味噌汁の器に直接落とす生たまごだ。

シラスや梅干しなどのおかずは
それぞれ好きなものを食べるが、
このお味噌汁とお茶碗一杯の白ごはんは、
姉妹みんなの好物なのだという。

聞いているだけで栄養満点の朝ごはん。
これこそが今でも元気でいられる秘訣なのか、と思わされるが、
4人は「そんなものはない」と一刀両断。
代わりに、こんな話を聞かせてくれた。

年をとってからの楽しみは、好きなものを自分でこしらえていただくということ。
年をとると、人に頼むことが多くなる。
朝ごはんだけは自分で好きなように食べて、好きなようにすればいい。

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仲澤南 18年2月17日放送

180217-05
add.me
作家の朝食 池波正太郎

神田駿河台に建つ小さなホテル、山の上ホテル。
ここでしか食べられない、特別な朝食があるのをご存知だろうか。
一口か二口で食べられるほどのおかずが11種類も並ぶ、
なんとも贅沢な和のお膳だ。

実はこの朝食を提案したのは、
『剣客商売』や『鬼平犯科帳』で知られる作家、
池波正太郎。

80年代後半のこと、
当時の料理長に池波が
「いろいろなものを少しずつ食べたい」
と要望したのがきっかけだった。

池波はこの朝食を肴に、ビールを嗜んでいたという。
連日徹夜で執筆していた彼にとって、
仕事終わりに食べるこの朝食は、
疲れを癒す、至福の時間だったのだろう。

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福宿桃香 17年12月16日放送

171216-01

電話のはなし エリシャ・グレイ

グラハム・ベルによる電話の発明。
この歴史的な大発明が、
盗作だったかもしれないことをご存知だろうか。

ベルが電磁石を利用した電話機のアイディアで特許を申請した2時間後、
エリシャ・グレイという電気技師が、
液体をつかった電話機の特許を出願していた。

特許を取得したのは、申請の早かったベル。
ところがその後、彼が通話を成功させたのは、
グレイが考案したはずの液体型のモデルだったのだ。

真の発明家の座を巡って何度も裁判が行われたが、
結局グレイは、その名誉を手にすることのないまま亡くなった。
彼の死後、遺品からはこのようなメモが見つかっている。

 電話の歴史が完全な形で書かれることは決してないだろう。
 その一部は、唇を閉ざされた一握りの者たちの良心の中に眠り続ける。

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永久眞規 17年12月16日放送

171216-02

電話のはなし 伊沢修二

世紀の大発明「電話」。
電話を通して、最初に話された言語は英語だが、
二番目の言語は日本語であった。

その声の主は、伊沢修二。
日本に近代的な学校をつくるためにアメリカに
留学していた伊沢は、電話の発明者グラハム・ベルと交流があった。

ベルがすごい機械をつくり、公開実験が行われる。
そんな噂を聞きつけた伊沢は、友人の金子堅太郎と
電話機を初めて体験した日本人となった。
その時の会話について諸説あるが、
とある短編集に載っているやりとりが中々に面白い。

電話を使い、一通り英語で会話をした伊沢と金子。
伊沢は「不思議だ、不思議だ。実によく聞こえる」と
日本語で独り言を言った。それにたいして金子はこう言った。

「伊沢、この機械は素晴らしい。日本語まで聞こえるぞ!」

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村山覚 17年12月16日放送

171216-03

電話のはなし スティーブ・ウォズニアック

1971年。
21歳のエンジニア、スティーブ・ウォズニアックは
年下の友人スティーブ・ジョブズに興奮しながら電話をかけた。
雑誌で見かけた「小さなブルーボックスの大きな秘密」という
記事の内容をジョブズに読んで聞かせた。

ブルーボックスとは電話をタダでかけられる機械。
二人のスティーブは改良したブルーボックスを製作し
世界中にいたずら電話をかけた。ウォズは言う。

 僕のエンジニアリング力と
 彼のビジョンで何ができるのか、
 それがなんとなく分かったのは大きかった。

その後、彼らは違法なハッキングツールではなく
Appleという名のコンピュータをつくり始める。

時は流れて、2011年。
ジョブズが亡くなった直後に販売されたiPhone 4Sを
求める行列に盟友ウォズもいた。あの一本の電話がなければ
存在しなかったかもしれない「小さなスマートフォン」は
いま世界中の手の中にある。

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藤本宗将 17年12月16日放送

171216-04

電話のはなし 夏目漱石

無類の手紙好きとして知られ、
その生涯で2500通余りも書簡を残している夏目漱石。
けれど、電話をするのは得意ではなかったらしい。

自宅に電話機を据え付けたばかりの漱石が、
東京朝日新聞社の同僚に使い方を尋ねた手紙が見つかっている。

「先刻 電話をかけたれど 通じたようで通じないようで」
「社の電話は 何番を用いれば用足るや」
「小生 田舎ものなり。一寸教えて下さい」

いまで言えば、メールの使えない人と同じだろう。
あの文豪が当時最先端の機械の前で
ほとほと困惑している様子が目に浮かぶようだ。

その後も苦手意識は克服できなかったようで、
漱石の電話嫌いはどんどんエスカレートしていった。
電話が鳴るとうるさいからと、
受話器を外させておいたという逸話も残っているほど。

神経質で、何事も自分のペースで進まないと気が済まない。
そんな漱石は、そもそも電話と相性が良くなかったのかもしれない。
おかげで私たちは、手紙に綴られた漱石のことばに
いまも触れることができるというわけだ。

けれどできることなら、
漱石先生がどんなふうに電話していたのか
見てみたいような気もする。

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仲澤南 17年12月16日放送

171216-05
alanclarkdesign
電話のはなし 松下幸之助

現在のPanasonicの礎を築いた、松下幸之助。

仕事熱心で「経営の神様
とも呼ばれた松下は、
社員の家にも頻繁に仕事の電話をかけた。
そして、いつもこう言ったという。

 君の声を聞きたかったんや。
 君の声を聞いたらな、元気が出るんや。

当時のことを、社員はこう話している。

 わたしは感動し、この人のためなら
 どんなことでも成し遂げようと思った。
 この人のような人間になろうと思った。

たとえ部下に対しても真摯に声を聞こうとする。
そんな松下の姿勢は、独特の人間観から生まれたものだった。
彼はすべての人間が偉大な存在であり、
尊敬すべき相手だと考えていたのだ。

仕事の電話1本にも、その人は表れる。
いや、生の声を届ける電話だからこそ、表れるのかもしれない。

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