古田彰一

八木田杏子 10年09月11日放送


あるお婆さんと蝉

都会と田舎では、セミの鳴き方も違うらしい。

青森の八戸から東京に来たお婆さんは、
排気ガスに咳き込みながら、
セミの鳴き声が違うことに気がついた。

わずかに残された木々にしがみついて、
せわしない鳴き声をたてる東京のセミ。

そんなセミも、
山にかこまれた田んぼが青々と広がる場所では、
のんびりと鳴いているらしい。

明日は日曜日。
せめて、一日のんびりと過ごしませんか。


ある教師の宿題

夏休みを振り返ってみよう。

頑張った夏は、これからのチカラになる。
さぼった夏は、これからもずっと足をひっぱる。

ある小学校の先生は、
漢字ドリルをやらなかった子供に、
その何倍もの夏休みの宿題を出していた。

おどろいた親に、先生はこう言った。

私は厳しいから、
そのときは恨まれるけど、
あとから感謝されるんです。

やり残した夏の課題は、ありませんか。
まだきっと、間に合いますよ。


ある歌手とサトウキビ

昭和20年の夏
沖縄には270万発の銃弾と6万の砲弾が撃ち込まれた。
ロケット弾は2万、機関銃の弾はおよそ3000万発だそうだ。

それでも沖縄の海は青い。
空も高くぬけるように青い。
あの年の夏も、きっと青かっただろう。
さとうきび畑の風も
きっと同じように吹いていただろう。

沖縄から生まれたバンド「かりゆし58」は、
「ウージの唄」に想いをこめる。

ウージの小唄ただ静かに響く夏の午後
あぜ道を歩く足を止めて遙か空を見上げた
この島に注ぐ陽の光は傷跡を照らし続ける
「あの悲しみをあの過ちを忘れることなかれ」と

沖縄に行くと、誰もが癒される。
その居心地のよさは、
辛い体験をした人たちが、破壊された土地の上に
もう一度築きあげてくれたもの

それを忘れないようにしたい。

もうすぐ、65年目の夏が終わります。

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坂本仁 10年08月21日放送


マルコ・ポーロ

飛行機もクルマも存在しない、
まだ世界最速の陸上の移動手段が馬だった時代。
17歳のマルコ・ポーロはヴェネチアを出発し
中東から中央アジアへ、
そして現在の北京にあたる元の首都まで旅をした。

それから17年間、
マルコ・ポーロは元の国の外交官として
アジアの各地を旅してまわった。
その壮大な冒険を口述したのが、
「東方見聞録」である。

「東方見聞録」の内容は
あまりに想像を絶するものだったために
はじめは誰も信用しなかった。

けれども、
マルコ・ポーロが記したアジアの富や物産は
人々の冒険心を刺激して
やがては大航海時代の目標につながっていく。

コロンブスも東方見聞録を愛読書としていたという。


山田康雄

日本を代表する声優、山田康雄。
洋画では、
クリントイーストウッドやジャン・ポール・ベルモンドの吹き替えとして知られ、
アニメではルパン三世の声優として長い間多くの人に愛された。

そんな山田康雄には、
新人声優たちを指導する際の口癖があった。

声優を目指すな。
役者を目指せ。
演技は全身でするものだ。

彼は現実の世界で、知識と経験という宝を若い声優たちに与えつづけた人だった。


ロベルト・バッジョ

イタリアを代表するサッカー選手、ロベルト・バッジョ。
現役を退いてなお、
世界中にファンを持つ彼が、以前、
ドーピングについて語ったことがある。

僕の知っているドーピングはただひとつ、
努力だけだ。

絶対に負けたくないという強い気持ちがあれば
そのために
「努力」という方法を選ぶこともできる。

ファタジスタと賞されたロベルト・バッジョ華麗なプレーも
日々の練習に支えられていたのだから。


ライト兄弟

1903年12月17日。
その飛行機は浮き上がったかと思うと、
今度は地面に向かって急降下した。

世界ではじめて人類が飛行機で飛んだのは、
わずか12秒だった。

しかしそれは、
人類が長い間抱いていた夢を叶えた12秒であり
空気よりも重い機械を使って空を飛んだ世界最初の成功例でもあった。

ライト家の三男、ウィルバー・ライト。
四男オーヴィル・ライト。
人類初の動力飛行という偉業を成し遂げたライト兄弟は、
大空を飛ぶためにすべてを捧げた。

オーヴィル・ライトは
こんな言葉も残している。

「飛行の興奮はあまりに強烈で喜びが大き過ぎるので
 スポーツとは認められない」


松本英彦

戦後の日本のジャズ界をリードした世界的テナーサックス奏者、松本英彦。
眠そうに目を閉じながら、
とろけるような音色を奏でることから、
スリーピー松本と呼ばれた。

2000年にこの世を去った松本英彦は、
現在、京都にあるお墓に眠っている。

そのお墓には、
スイッチを押すと彼の演奏が流れるという、
ユニークな仕掛けがある。

紫綬褒章、勲四等旭日小綬賞を受賞したジャズマンは
目を閉じてもなお
訪れる人と共にスウィングしている。


ヘミングウェイ

一日のうち、何かを待っている時間は意外と多い。
そして、私たちは一日何度も苛立ちを感じている。

けれど、
「武器よさらば」、「老人と海」などで知られるノーベル賞作家、
アーネストヘミングウェイの言葉は、
そんな苛立ちをゆとりへと変えてくれる。

魚が釣れない時は、
魚が考える時間をくれたと思えばいい。

なかなか来ないエレベーターだって、
いつも遅刻してくる友人だって、
そして渋滞だって、
考える時間をくれているのだ、
そう思えれば、きっと毎日は楽しくなる。


リュミエール兄弟

1895年、パリのグランカフェで
ある人はコーヒーをこぼし、
ある人は外に向かって逃げ出し、
ある人は腰を抜かした。

人々が目にしたのは、世界初の映画上映。
リュミエール兄弟の作品のひとつ、
「シオタ駅への列車の到着」だった。

駅のホームに蒸気機関車がやってくる情景を
ワンカットで映した単純なショートムービー。
しかし、スクリーンで映像を見たことがない人々を
驚かすには十分だった。
その場にいたすべての人が、
本物の蒸気機関車がカフェに突っ込んできたと思ったという。

映画をつくった人はたくさんいる。
けれど映画というジャンルをつくった人は、
リュミエール兄弟以外にはいない。

映画というエンターテインメントの世界を切り拓いたリュミエール兄弟。

その名にあるリュミエールという言葉が、
フランス語で「光」を意味することは、
偶然にしてはできすぎているのかもしれない。

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八木田杏子 10年07月18日放送



作家の言葉 「唯川恵」

生き方を選べるようになって、
女性は迷うようになった。

唯川恵は、そんな女性たちへの想いを
小説「永遠の途中」にこめている。

結婚して仕事をやめた薫と、結婚せずに仕事をつづける乃梨子。

ふたりの主人公は、お互いを比べながら
競い合うようにして生きる。

そして60歳になると、こんな言葉を口にする。


 自分のもうひとつの人生を勝手に想像して、
 それに嫉妬してしまうのね。

 いつも生きてない方の人生に負けたような気になっていたの。

 人生はひとつしか生きられないのに。

どんな選択をするかよりも、
選んだ答えを信じて生きぬくことのほうが
大切なのかもしれない。



作家の言葉 「伊坂幸太郎」

伊坂幸太郎の小説には
隠されたメッセージがある。

著書「モダンタイムス」に登場する
井坂好太郎という小説家。
その自虐的につくられたキャラクターは
死に際に、作家としての苦悩を吐露する。

「お前の本は売れただろう」と言われると、こう答える。


 薄っぺらいからな。読みやすいから、誰でも読めるんだよ。

そして、たどたどしく、言葉をつづける。


 俺が小説を書いても世界は変わらない。

 今までだって、分かってくれた奴いなかったんだよ。

ジェットコースターのようなストーリー展開にのせられて
あっという間に読み終えてしまうこの一冊を
もういちど、ていねいに読み返してみると、
たった一人でも伝わればいいと願いをこめた言葉が
見つかる。



アスリートの言葉


 蝶のように舞い、蜂のように刺す

モハメド・アリの闘い方は、そう呼ばれていた。

力任せに殴り合う大男たちに、
華麗なフットワークと、鋭い左ジャブで切りこんでいく。

1960年。18歳のアリは、
ローマオリンピックで金メダルをとる。
それでも黒人差別が変わらない現実を嘆いて、
金メダルを川に投げ捨てる。

1967年。25歳のアリは、
ベトナム戦争の徴兵を拒否。
ボクシングライセンスとヘビー級タイトルを剥奪される。

3年7カ月のブランクを経て、実力で王座に返り咲く彼に
声援をおくったのは、ボクシングファンだけではなかった。

差別や戦争とも闘いつづけた、モハメド・アリ。

モハメド・アリは、
ヘビー級ボクシングの闘い方を一変させると同時に
アスリートのあり方も変えていったのだ。


ハプスブルグ家の言葉

約6世紀にわたって、
ヨーロッパで権勢を誇ったハプスブルグ家。

オーストリア、スペイン、ハンガリー、神聖ローマ帝国などの
皇帝・国王をうんだ名門王家は、血を流さずに闘う。

ハプスブルグ家には、こんな言葉が伝わっている。


 戦争は他国に任せておけ。
 オーストリアよ、汝は幸せな結婚をするがよい。

政略結婚があたりまえだった王侯貴族。
そのなかでもハプスブルグ家は、
夫婦仲が良く子宝に恵まれことが多かった。

領土争いが過酷なヨーロッパでは
戦争が上手い国より、戦争をしない国が繁栄する。

どんな戦略も、幸せな結婚にはかなわない。



哲学者の言葉

ヨーロッパ最初の哲学者タレスは、こんな言葉を残した。


 万物の原理は水である。

その意味を解読しようと頭を悩ませる私たちに
哲学者竹田青嗣(せいじ)は、まず言葉との向き合い方を教えてくれる。


 言葉というものは世界の全体や起源を
 言い尽くせないようにできている。

たとえ哲学者であっても、
自分が感じたこと全てを、言葉で表現することはできない。
だから言葉は、言葉どおりに受けとめてはいけないのだ。

では、哲学者の言葉をどう扱えばいいのか。


 「万物の原理は水である」という言葉には、
 タレスの世界への直感がこめられていたはずだ。

哲学者が言葉でたぐりよせようとした直感に、想いを馳せてみる。
そうすると、言葉をきっかけにして、哲学の世界が広がっていく。

おなじように。
恋人、上司、親からもらう言葉も
言葉どおりに受け止めずに、その言葉にこめられた気持ちを考えてみる。

理解するとは、きっとそういうこと。



子どもの言葉


 人生に必要な知恵はすべて
 幼稚園の砂場で学んだ。

そんなタイトルの本が、ベストセラーになった。

人として生きるために大切なことを、
私たちは5歳までに学んでいたらしい。


 何でもみんなで分け合うこと。
 ずるをしないこと。
 人のものに手を出さないこと。
 誰かを傷つけたらごめんなさい、と言うこと。

すべての大人がこれを守ることができたら。
環境問題も、国際問題も、人権問題も
なくなっていたかもしれないのに。
残念ながら、私たちは
オトナになると言い訳を学んでしまうのだ。



名人の言葉

個性とは、つくるものではなくて、
ふとしたときに、出てしまうもの。

名人・羽生善治は、
将棋の話をしながら人生を語る。


 将棋は、まず定跡で打ちます。
 答えがないとか、答えがわからない場面、
 混沌とした場面のときに何を選ぶかで、
 自分の持っているものを出せる。

思いがけないトラブル、先が読めない苦しみ、
それをどう乗りこえるかが、個性になる。

混沌からうまれた自分だけの一手は、
定跡をこえていく。

仕事にも、恋愛にも、あてはまりそうだ。



研究者の言葉

多数決をとったとき、
自分とおなじ意見が多いと、それだけで安心する。

賛成の多い意見が正しいとは限らないのに、
多数は強気になりやすい。

日本人初のノーベル賞受賞者湯川秀樹に
こんな言葉がある。


 真実は、いつも少数派

わかってもらえなくて、笑われるかもしれない。
間違いだったと証明されて、恥をかくかもしれない。

そんな不安に足をとられずに、
少数派にまわっても信じることを貫く人が、
真実を塗りかえていく。

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細田高広 10年07月17日放送


イングマール・ベルイマン 映画監督

イーストウッド、80歳。
ウディ・アレン、74歳。

創造的な仕事は若い人の方が向いている。
そんな一般論も映画監督たちには
まるで当てはまらない。

スウェーデンの映画監督、イングマール・ベルイマン。
彼もまた、重ねた年齢すら映画の燃料にする男だった。

70歳を越えて一度映画からは引退。
だが80歳半ばにカムバックして
再びメガホンを取った。

 老年は山登りに似ている。
登れば登るほど息切れするが、
 視野はますます広くなる。
 
彼の言葉を聞くと、
歳を重なるのがちょっと楽しみになる。


ケリー・ノーブル 歌手

独身女性が「負け犬」と呼ばれ、「婚活」を迫られる。
自由なはずの恋愛は、いつから
義務になってしまったのでしょう。

「負け犬」と揶揄された女性から、
圧倒的な支持を集めたアメリカのシンガー、
ケリー・ノーブル。

どうして、彼女の歌うラブ・ソングが海を越えて
日本女性の胸に響いたのか。
彼女のインタビューを聞いて、
少しだけ分かった気がします。

 負け犬?
彼女たちは負けたわけではないわ。
“間違った結婚”をしていないだけ。

ケリーが歌っているのは、
ラブ・ソングのフリをした、
女性「応援歌」だったのです。


ドリー・パートン 歌手

40年もの間、カントリー音楽界のトップに
君臨しているドリー・パートン。

ショービズの世界で成功を収めた彼女にも、
初めから華麗な衣装が
用意されていたわけではない。

幼少期の暮らしは貧しく、
ボロボロの布袋を縫い合せて作った
服を着ていた。

彼女は言う。

私の見方からすると、
虹が欲しけりゃ、
雨は我慢しなきゃいけない。

その晴れやかな歌声は、
長い雨に耐えて
手にしたものなのだ。


エルンスト・ルビッチ 映画監督

映画監督エルンスト・ルビッチは、
アメリカ人に恋を教えた男。

男女の複雑な心境を、
視線や小物で表現する彼の手法は、
“ルビッチ・タッチ”と名がついた。

だが彼の本領は、手法だけではない。
男と女への鋭い洞察こそ、
ルビッチの持ち味だ。

例えば、こういうセリフ。

 男は2人以上の女性を同時に愛し、
 消去法で1人に絞る。合理的ね。

何人の男女が、
スクリーンの前で冷や汗をかいたことか。
その伝統は今でも「ラブコメ」という
ジャンルに受け継がれている。

恋愛学の講義は、教室より、映画館がふさわしい。


イングリッド・バーグマン

女優イングリッド・バーグマン。
映画「カサブランカ」で脚光を浴びると、
「ガス灯」でアカデミー主演女優賞を獲得。

だが、そのキャリアの絶頂期に、
仕事も家庭も捨てイタリアへと発つ。
巨匠ロベルト・ロッセリーニ監督の作品に心酔した、
というのが理由だった。
世論からは激しく非難され、ハリウッドから追放された。

だが、数年後。
バーグマンはケロッとアメリカに戻ると、
再びアカデミー賞に輝く。
その表情は、追放劇なんてなかったかのように
晴れ晴れとしていた。

バーグマンは言う。

幸せとは、健康で記憶力が悪いことよ。


ジュディ・ガーランド

映画「オズの魔法使い」のドロシー役で
スターになったジュディ・ガーランド。

その朗らかな歌や演技と裏腹に、
子役の頃から、
睡眠薬に頼る生活を送っていた。

大作に出演し有名になる一方、
過密スケジュールと薬物依存に悩まされ、
離婚と自殺未遂を繰り返した。

私は千の人々の喝采より、
愛する人からの一言、二言が欲しい。

映画スターに憧れる、
私たち普通の人に
映画スターは憧れたりする。


レイ・チャールズ

レイ・チャールズの「What’d I Say」(ホワッド・アイ・セイ )。
「ローリング・ストーン」誌が選ぶ、
もっとも重要な500曲の10位にランクされている。

この曲で印象的なのが、エレクトリック・ピアノだ。
当時ポピュラーソング界では
ほとんど使われていなかったこの楽器に、
レイ・チャールズは真っ先に飛びついた。
周りのミュージシャンたちは
「小っちゃいピアノを買った」とバカにしたらしい。

だが彼は、その小さなピアノを
効果的に使う方法を探り、「What’d I Say」をつくった。

  君たちは目が開いているのに、何も見えないんだな。

そう言いながら陽気に歌う
レイ・チャールズ。
その姿は、目を閉じていても見えてくる。

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八木田杏子 10年06月27日放送

ディアギレフの才能

1.ディアギレフの才能

才能がないと言われた人の、
才能を見つけだす方法がある。

ロシアの貴族の息子、
ディアギレフはそれを知っていた。


 何の才能にも恵まれなかった男。
 でも天職を見つけた。

多くの才能を集める仕事、
そして、その才能が活躍する場をつくる仕事。

ディアギレフの一生は、そのために捧げられた。

ピカソやコクトーなどの芸術家の協力を得て
芸術革命をおこすロシアバレエ団をつくった彼は、
世界初のプロデューサーかもしれない。

ディアギレフの意

2.ディアギレフの意

20世紀のはじめに、音楽、美術、文学
すべてに影響を与えたロシアバレエ団。

1921年に上演した「眠りの森の美女」は
端役のダンサーまで
金糸銀糸の刺繍に宝石を縫い付けた衣装を身につけた
超豪華版で
観客拍手はもらったものの
プロデューサーのディアギレフは、
多額の負債をかかえる。

ダンサーをホテルに泊めるために、
自分は使用人部屋で寝起きすることもあったディアギレフ。

パリの社交界では、ロシア貴族らしい振る舞いをして、
パトロンには弱音を吐かないディアギレフ。

一張羅だったビーバーの毛皮のコートが擦り切れても、
芸術への想いは擦り切れないディアギレフ。

世界中の才能が、
彼に惹きつけられたのも無理はない。

フォーキンの疑問

3.フォーキンの疑問

1898年にロシアの演劇学校を卒業したばかりのダンサー、
ミハイル・フォーキンは疑問を感じていた。

踊りのスタイルが、
なぜ曲のテーマや衣装と調和していないのだろう。
バレエの心理表現は、
なぜ、脈絡もない一定の型で表すのだろう。

誰かに答えを求めても
伝統に根ざした決まりごとに疑問を感じる人はいない。
自分の手で、答えを創るしかなかった。

1909年、フォーキンはロシアバレエ団に加わり
振り付け師としてあたらしいバレエに挑戦する。

レ・シルフィード、ダッタン人の踊り、火の鳥…
傑作が次々に生まれた。
中性的なニジンスキーの魅力と跳躍を活かした
『薔薇の精』を見た観客は息をのんだ。
同じくニジンスキーのペトルーシュカは
観客の魂を揺さぶったといまでも語り伝えられる。

この「ペトルーシュカ」でフォーキンは
はじめてのこころみをした。
主役たちの背後で踊る群舞と呼ばれるダンサーたちに
兵隊、警官、子守り、大道芸人などの役柄を与えたのだ。

新人のときに感じた疑問の答えを、
自分の手で創りだしたフォーキン。

バレエにおける民主主義は
フォーキンによってもたらされた。

ニジンスキーの跳躍

4.ニジンスキーの跳躍

クラシックバレエの天才ダンサー、
ニジンスキー。

彼の素顔は内気な青年だった。
おそらく「牧神の午後」と出会うまで
自分が振り付けや演出をすることになるとは
思ってもみなかったに違いない。

マラルメの詩とドビュッシーの曲
そしてニジンスキー振り付けの「牧神の午後」は
1912年、ロシアバレエ団によって上演される。

言葉の少ない青年が、心の内からたぐりよせる動きは、
バレエを壊しかねないものだったけれど
静まりかえった客席の何人かは
モダンバレエがいま生まれたことを知っていた。

ロシアバレエ団の春

5.ロシアバレエ団の春

「春の祭典」は
ロシアバレエ団が1913年にパリで上演した。

不可思議なリズムと、不協和音でつくられた音楽。
奇妙なポーズで、小刻みに飛び跳ねるダンス。

クラシックに慣れていた観客は、耳と目をうたがった。
これは芸術への冒涜ではないだろうか。
観客を侮辱しようとしているのだろうか。

観客は賛成派と反対派に別れて争った。
暴れる観客は警官が取り押さえたが
野次や足踏みや殴り合いの騒々しさで
舞台で踊るダンサーに音楽が聞こえないほどだったという。

今でも斬新に感じる『春の祭典』に、
100年前のパリは、パニックを起こし
翌朝の新聞には「春の虐殺」という見出しが載った。

けれども、
この事件はクラシックが窮屈になっていた芸術家たちにとって
いい刺激になったようだ。

ココ・シャネルも、そのひとり。

ロシアバレエ団の旗印に
ますます多くの芸術家が集うようになってきた。。

ストラヴィンスキーの騒音

6.ストラヴィンスキーの騒音

不協和音を好んで使う
27歳のストラヴィンスキーは、
才能がないと評されることがあった。

けれどもロシアバレエ団の支配人ディアギレフは
彼の才能を見抜き、「火の鳥」を依頼する。

ストラヴィンスキーが書き上げた曲は、
いかにもストラヴィンスキーらしい
独特のリズムと不協和音でできていたために
主役を務めるはずのバレリーナは、
「騒音みたい」と評して舞台を降りてしまった。

しかし、1910年『火の鳥』が上演されると、
観客は熱狂し、
前衛的な作品にもかかわらず人気演目になる。

新しい才能は、否定されるところからはじまるのかもしれない。

ピカソの恋

7.ピカソの恋

ピカソがデザインするバレエの衣装は、
人体の形や動きを無視した
キュビズム的造形物だったので
立っているだけでも大変なほどだった。

しかし、それが一変したのは
ピカソの恋だった。
そのお相手はロシアバレエ団のダンサー、オリガ。

リハーサルに通いつめて、
動くことでより美しく見える衣装を創りあげた。

1919年。
ピカソの恋から生まれた造形美は、
バレエの舞台から街へ広がり、
流行のファッションになった。



8.コクトーの再戦

社交界のプリンスだった、ジャン・コクトー。

ロシア・バレエ団を率いるディアギレフに、
こんな言葉をかけられる。


ジャン、僕を驚かせてごらん。

20代前半だったコクトーは、
インドをテーマにした
Le Dieu Bleu(青神)という台本を書いた。

しかし、『青神』は、
豪華な衣装とメンバーにもかかわらず、
10回に満たない上演で忘れ去られる。

その5年後。

コクトーは再び、舞台に戻ってくる。
いまこの時代に生きている人、音、動きを
バレエにした「パラード」

作曲にサティ、衣装にピカソを迎えて
1917年に上演されたパラードは
初日から激しい怒号につつまれた。

ついにコクトーはディアギレフをびっくりさせたのだ。

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坂本仁 10年06月26日放送


松本清張

彼は、生涯で何百人もの人間を殺した。
また数多くの犯罪者を見つけた。

犯罪者の心の闇に焦点をあて、
人間の本質を見事に描いた小説家松本清張。

空前の執筆量
相次ぐベストセラー
そして所得番付では作家部門のトップになったが
文壇での評価は本の売れ行きとは反比例する傾向にあった。

でも、清張は気にしなかった。

「小説が面白すぎると批評家のけいべつを買うようだ」

そう語ると、また次の作品を書きはじめた。


クリントイーストウッド

世界的な俳優・映画監督、Clint Eastwood。
彼の名はアナグラムで
「懐かしい西部劇」を意味する「Old West Action」になる。

西部劇のスターからダーティハリー、
そして、反戦、非暴力を訴える映画監督へ
老いてなお映画の世界を開拓する現代のカウボーイは、
人生という荒野の歩き方を次のように教えてくれる。

I don’t believe in pessimism.
If something doesn’t come up the way you want, forge ahead.
If you think it’s going to rain, it will.

「思い通りに行かなくても先に進もう。
 雨になると思ったら本当に雨が降るものだ」


スクリスチャン・ルブタン

この世でいちばん官能的な靴とは?
その答えは、今、きっとクリスチャン・ルブタンだ。

鮮やかなレッドソール。
大胆なカッティング。
その独創的な靴のつくり方をルブタンは次のように語る。

「デザインしているときに、
思い浮かべるのはヌードの女性なんだ。
一番良いのはショーガールだね。
彼女たちは裸でヒールを履いているから。
服は僕の志向を邪魔するんだ」

ファッションではない
ましてやドレスの付属品でもない
そんな視点から靴を見る時代が来ているのかもしれない。


ピエルルイジ・コッリーナ

ゴールを決められるわけでもない、
キラーパスを出せるわけでもない。
にもかかわらず、
世界中のサッカーファンから世界一と評された男がいる。

ピエルルイジ・コッリーナ。

イタリアのサッカー審判員だった彼は
的確なレフェリングで多くの重要な試合を担当し、
5年連続でFIFA最優秀審判員に選出された。

コッリーナが審判の定年規定の45歳を迎えた時、
サッカー協会は彼の功績を認め、
特例として定年後も審判を続けてほしいと依頼した。

しかし、彼は次のように言った。

「審判はルールを守らせる存在だ。
だからわたしもルールに従うさ」と。

イタリアの審判2万5千人のうち
セリエB以上で審判をつとめるのはたった35人
優れた審判員になるのは、もしかしたら
選手になるよりむづかしいのかもしれない。


ポール・ウェルストン

あなたは自分以外の人すべてを敵に回しても、
自分の信念を貫けるだろうか。

アメリカの上院議員ポール・ウェルストンは、
2002年のイラク戦争決議の際、
ただ一人反対票を投じた。

誹謗中傷が毎日のように彼を襲い、
臆病者と多くの人に揶揄された。

反戦活動の志半ばで
しかも選挙活動のさなかに謎の航空機事故という
無念の死を迎えたウェルストン。
今、彼を臆病者と言う者はいるだろうか。


水木しげる

漫画家水木しげるは代表作「ゲゲゲの鬼太郎」で
本来ならば恐ろしい姿をしているはずの妖怪を
不思議なほど人間臭く描いている。

ねずみ男、猫娘、砂かけ婆
一反木綿に子泣き爺

欠点も弱点も充分すぎるほど持ち合わせている妖怪は
とぼけたユーモアがあり、子供たちにも愛された。

さて、そんな妖怪たちを紹介する
水木しげるの「妖怪画談」にはこんな言葉があった。

春はあけぼの。夏は化けもの。

おとぼけとユーモアは
水木しげる本人の持ち味らしい。


シュリーマン

可能性が0に近いことに挑むときは
どうすればいいのだろうか。
考古学者ハインリッヒ・シュリーマンが
その答を教えてくれる。

シュリーマンは
ホメロスの叙事詩が単なる神話でないことを
発掘によって証明した人物だ。

子供の頃に読んで感動したホメロスの叙事詩。
その物語の中にあるトロイア遺跡の存在を証明するために
シュリーマンはまず商社マンになり、財産を築いた。

42歳になるとすべての事業から手を引いて
考古学者になるための準備をはじめた。
2年間の世界旅行、そしてソルボンヌ大学へ入学。

トルコのヒッパロスの丘に最初の鍬を入れ
トロイア発掘に乗り出すのはシュリーマン48歳のとき。
そして3年後、
トロイアと、それより1000年も古い古代エーゲ文明の遺跡も発見してしまう。

目的を持った人生の道は
ゆっくり確実に歩けばいい。
シュリーマンの人生がそう語っている。

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古田組・坂本仁 参戦

上の写真は2005年カンヌヤングクリエイティブコンペティション
応募作品です。

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細田高広 10年05月15日放送


つくる人の言葉1 ル・コルビュジェ

高層ビルが乱立した、1930年代のニューヨーク。
その風景は「空を切り裂くもの」
という意味でSkyscraperと名付けられた。
日本語でいう、摩天楼。

当時、高層ビル群を見た誰もが
「高すぎる」と口にした。
だが、ただひとり建築家ル・コルビュジェだけは
真逆のことを思っていた。

摩天楼は、小さすぎる。

空だけでなく、地上を観察したコルビュジェは
ビルの下に広がる交通渋滞や、
スラム街を見逃せなかった。

摩天楼をもっと高くすれば、
住む空間が広がり、公園ができ、
交通網が整理できる。そう考えたのだ。

彼の志と比べれば、たしかに摩天楼は小さすぎる。


着つくる人の言葉2.フランク・ミュラー

挑戦するのに、年齢なんて関係ない。


そう口にする人は多いけれど。
スイスの時計師フランク・ミュラーほど
説得力をもって語れる男を知らない。

彼は言う。

 挑戦するのに、年齢なんて関係ない。

 だいたい時間なんて、

 人間が勝手に作ったもの。

 私は時計師だからよくわかる。

時間を忘れよう。年齢を忘れよう。
ぜんぶ、人がでっちあげたものだから。

「高齢社会」なんていう呼び名が、
日本の元気を奪っているのかもしれない。


つくる人の言葉3  イサム・ノグチ

日米のハーフとして生まれた
イサム・ノグチは長く悩んでいた。
100%のアメリカ人ではない。
100%の日本人でもない。
自分が不完全な存在に思えてならない。

だからイサム・ノグチは、
国籍も国境も関係ない「芸術」の世界に
居場所を見つけようとした。
彼は自らの彫刻作品について、こう語っている。

 もし、誰かが文句を
 いったらこう言ってください。
 完璧なものは面白みに欠ける。

その言葉は、「自分自身」にも
向けられているようだ。


つくる人の言葉4 ヴィダル・サスーン

ヘアデザイナーという職業を確立し、
美容界を席巻したヴィダル・サスーン。
彼の人生も、初めから華やいでいたわけではない。

5歳の時に父が家を出て、一家は困窮する。
シャンプーボーイとして働き始めたとき、
ヴィダルはまだ14歳だった。

そんなヴィダルは、26歳で自分の店を持ち、
洗ったままで髪型が整う技術を発明。
さらにミニスカートの流行とともに
彼がデザインしたショートボブが世界的にブレイク。
いつしか女優やセレブから大評判になった。

人生年表だけ見ると、
あっと言う間に成功を収めたかのよう。

だが、ヴィダルは言う。

 「成功」が「努力」の前に来るのは、辞書だけさ。

さすがは美の専門家。
汗と努力の人生だって、
見とれるほど美しく見せてしまう。


つくる人の言葉5  ルイス・バラガン

建築界のノーベル賞と呼ばれるプリッカー賞。
その授賞式でルイス・バラガンは言った。

 建築家の使命は、
 静けさに満ちた住まいをつくることなのです。
 静けさは、苦悩や怖れを真の意味で癒します。

悩みや孤独は、
きっと誰もが抱えているもの。
解決できるのは、結局、自分ひとりしかいない。
だから、バラガンは悩みと向き合える
「静寂」を設計した。

東京で今、
設計されるべきものは
静けさなのかもしれない。


つくる人の言葉6  東孝光(あずま たかみつ)

建築家の仕事を思うとき、
いつも考えることがある。

地球の上にびっしり建築が並ぶ今、
新しい建築なんて
生み出せるのだろうか、と。

建築家、東孝光の言葉は
そんな問いは無意味だ
と教えてくれる。

 美しい空間は、人々の夢のなかに、
 いつでも存在する。
 建築家は、それを引き出し、見せてあげればよいのだ。

新しい建築の図面は、住む人の頭の中にある。


着つくる人の言葉7  ジミー大西

99%の努力。1%のひらめき。
エジソンが残した発明のレシピだ。

新しいアイデアを見つけたいなら、
ひたすら努力せよ。
エジソンは何て酷なことを言うのだろう。

しかし。お笑い芸人から
画家になったジミー大西は
この有名な言葉に新しい解釈をくれた。

 あれは誰かが英訳間違えてるんとちゃいますか?
 僕は99%の遊び心で1%のひらめきやと思いますよ。
 誰が99%も努力します? しませんよ。
 僕は楽しんだ思いますよ。

確かに。好きなものに夢中になるとき、
「努力している」なんて思わない。

大好きなものがある人は皆、
天才になるチャンスを持っている。

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八木田杏子 10年04月04日放送



トルストイ

鈍感は最大の罪である。

そんな言葉を残したトルストイ。

鈍感な人間に、
「鈍感は最大の罪である」と言ったところで、
響くはずはないけれど。

彼らにうんざりしている人たちの
傷をうめることはできる。

あきらめて鈍感なふりをすることを、
踏みとどまらせることもできる。

傷を癒しながら、戒めにもなるなんて。
文豪が残した悪口は、気が利いている。



谷川俊太郎

答えのない質問は、大人をひるませる。

どうして、人は死ぬの?
死ぬのはいやだよ。

目をうるませながら問いかける娘に、たじろぐ母親。
詩人・谷川俊太郎は、こんなアドバイスをした。


 ぼくだったら、
 ぎゅーっと抱きしめて、一緒に泣きます。

言葉で答えられない問いかけには、
肌のぬくもりで応えればいい。

ひとりで抱えきれない不安を、
抱きしめてくれる人がいれば、
答えがなくても生きていける。



ジョン・ワラック

この人とは話しても無駄だ。
わかりあえるはずがない。

そう思い込むのは勘違いだと、
教えてくれる人がいる。

シーズ・オブ・ピースを立ち上げた、
ジョン・ワラック。

彼は、パレスチナ系アラブ人と、イスラエル系ユダヤ人の
ティーン・エージャーを話しあわせる。

僕の父さんは、おまえたちのおかげで、死んだんだ。
僕の兄弟は、君たちイスラエル軍に、殺されたんだ。

何日も何日も、憎しみをぶつけあう。
すると、ふと気がつく。

お互いが、同じことを、言っていることに。
お互いが、同じように、傷つけあっていることに。

愚かなのは、憎しみを持ちつづけ、
殺し合いをやめないことだ、と気がつく。

悪魔だと思っていた敵も、
おなじ人間だと知った子供たち。

彼らは、平和の種として、自分の国に帰っていく。



ムソルグスキーとバラキレフ

「ロシア5人組」と呼ばれる作曲家たちを
率いていたバラキレフ。

ムソルグスキーにも、
クラシックの形式を教えこんだ。

しかし、ムソルグスキーが書き上げた曲
「禿山の一夜」は、音楽理論から逸脱していた。

バラキレフは、改作を求める。
ムソルグスキーは、自分に嘘がつけない。

私はこの作品をまともだと思っていますし、
そう思うこともやめません。

理論よりも直観を信じる、ムソルグスキー。

孤独と闘いながら、150年残る、作品をうみだした。



ムソルグスキー

むきだしの魂をぶつける
ロシアの作曲家ムソルグスキー。

心のなかに手をつっこんで、かき乱すような旋律。
腹の底に響いてくる、重くるしい和音。

その音楽は、耳ざわりだけれど、人を惹きつける。

しかし、クラシックの理論をこえた音楽は、
無学と非難され、音楽家としては認められない。

しだいにアルコールに溺れていく彼を
覚醒させたのは、友人の画家の死だった。

ガルトマンの遺作、一枚一枚から、
ムソルグスキーは強烈なインスピレーションをうける。

楽想と旋律がほとばしり、
それを書きなぐる時間さえもどかしい。

わずか3週間で書き上げられた組曲「展覧会の絵」。

およそ100年後の、1970年。
イギリスのロックバンド、ELPが
この曲をアレンジして演奏すると、世界中がわいた。

ムソルグスキーのむきだしの魂は、
クラシックよりもロックのほうが相性が良い。





リムスキー=コルサコフ

武骨な天才ムソルグスキーと、
器用な天才リムスキー。

ふたりは、無二の親友だった。

批判されたムソルグスキーの曲「禿山の一夜」を
リムスキーがアレンジすると、名作といわれた。

それは、ムソルグスキーが亡くなった後、
彼の名前を残すための、苦肉の策だった。

彼が生きていたら、
楽譜に手を入れることを、許さなかっただろう。

ダイヤの原石のような天才、ムソルグスキー。
つややかに磨きあげる天才、リムスキー。

生きているうちに、ぶつかることを恐れずに。

ふたりでひとつの作品を創ったら、
どんな音楽がうまれたのだろう。



宮地勇輔

空気なんて、読まなくてもいい。
時代なんて、読めるはずがない。

農家のこせがれネットワーク代表の
宮地勇輔は、時代の追い風をうけている。

農業ブームなんて想像できなかった頃に、
会社をやめて夢を語る、彼の先行きは不透明だった。

それでも自分の道を歩きはじめたら、
時代のほうから近づいてきた。

狙うと溺れてしまう時代の波は、
無心な人のほうが、のりやすい。

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細田高広 10年03月07日放送



マティス


 私が緑でえがくとき、
 それは草を意味しない。
 青く塗っても、
 空を意味するとは限らない。

色彩の魔術師と呼ばれた、
アンリ=マティス。

見える色を使わず、
見たい色を使った彼の絵画は、
まぶしいほどに鮮やかだ。

マティスの作品を見た医者は
本気で忠告したという。


 サングラスをかけた方がいい。

マティスの絵画に対する、
最高の批評だと思う。



ハンター・S・トンプソン

ジャーナリストは、客観的に語るべし。

ハンター・トンプソンは、
そんな常識をひっくり返した男。

犯罪集団への取材では、
1年にわたって共に行動。
犯罪にも加担し、
最後はボコボコに殴られて逃げ出してくる。

取材というより実体験をもとに書いた記事は、
主観と脚色だらけ。まるで小説だ。

だが、彼は言う。


 小説が、フィクションより真実を語ることがある。

当事者だけが分かる感情。
当事者だけが知る空気。

この世界には、「事実」だけ並べても伝えられない、
「真実」がある。



ミシェル・プラティニ

黒人はフランスで
サッカーをするな。

移民のサッカー選手が
活躍し始めたとき、
フランス国内で上がった声だ。

それを、ある選手の一言が黙らせる。


 サッカーに人種はない。
 下手な白人ほど黒人を差別する。

フランスのスター選手だった、
ミシェル・プラティニ。

彼が引退して、約10年後の1998年。
フランス代表はワールドカップで
初優勝を飾る。

喜び抱き合う選手たちの肌の色は、
実に多様だった。

アフリカ大陸初の
ワールドカップまで、
あと3ヶ月。

チームの絆が、
人種の壁を越える。
もうひとつの闘いに注目したい。



クインシー・ジョーンズ

スリラー。愛のコリーダ。
クインシー・ジョーンズの手がけた音楽は、
聴けばたちまち耳に残る。
だが、いつまでも飽きさせない。

曲づくりの秘訣について、彼は言う。


 女性と同じで、2、3日暮らしてみれば分かるんだ。

1日中聞いたとしても、
翌朝起きて聴きたくなれるかどうか。
もしダメなら、その曲とはきっぱり
別れるのだそうだ。

私生活では3度結婚し、
7人の子どもがいる、恋多き男。

クインシーの音楽の先生は、
恋愛だったのだ。



渋沢栄一

日本における資本主義の父、
渋沢栄一は言った。


 機械が運転しているとカスがたまるように、
 人間もよく働いていればカネがたまる。

人の役に立っていれば、お金はついてくる。
そう考えていた渋沢は、
500以上の会社を設立しながら、
多くの社会活動にも関わる。

日本赤十字社を設立し、
養育院の院長を務め、
関東大震災の際には復興の指揮をとった。

その生き方を見ると、気付かされる。
ビジネスと社会貢献はそもそも同じ意味。
人に役立つためのこと。

企業の「社会貢献活動」、
なんてわざわざ表明する風潮は、
どこかおかしいかもしれない。



ムンク

絵画「叫び」で有名な、ムンク。
彼は女性運が悪かった。

最後の彼女には
「結婚しなければ自殺してやる」
と銃を片手に脅される。
もみ合いの末、大切な指を一本失った。


 愛を炎に喩えるのは、正しい。
 炎と同じで
 山ほどの灰を残すだけだから。

恋愛に懲りたムンクは、事件以降、
女を「恐怖」や「死」のモチーフに選び
何枚もの絵画を描く。

ムンクの恋の燃えカスは、
灰なんかじゃない。
芸術だったのだ。



ジミ・ヘンドリクス

天才ギタリスト、
ジミ・ヘンドリクス。

もっと速く弾ける人も、
もっと正確に弾ける人もたくさんいる。
この場合の「天才」とは、
技術のことじゃない。


 ブルースは簡単に弾ける。だが、感じるのは難しい。

ジミヘンだけが感じていた
100%のブルース。
100%のグルーブ。

最先端の技術と機材を揃えた今でも、
未だ人類は追いつけない。

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