古田彰一

番組制作奮闘記-1 (番宣)


日曜日を終わらせたくない夜に(八木田杏子)

日曜日を終わらせたくない夜は、
つい夜更かしをしてしまいます。
寝るまではずっと、日曜日。
たとえ12時を超えたって、日曜日。

そんな延長戦に入ったときのために、
ラジオ番組をつくりました。

テーマは、熱帯夜のコンビニ。

そこは、外と家の中間のような場所。
何気ない振る舞いや表情の奥に、
無防備な本音が見え隠れします。

割り切れたようにみえるコンビニという場所で、
割り切れない人の思いが聞こえてきたら・・・。
ただすれ違うだけの人も、優しく見送りたくなる番組です。

今週末の日曜日、深夜25時からJ-waveでお届けします。

放送:   8月16日  25時~26時
出演:   大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/
       地曳豪 http://www.gojibiki.jp/index.html
       三坂知絵子 http://www.studio-2-neo.com/
原案:   古田彰一
演出:   森田仁人 厚焼玉子
スクリプト:細田高広、八木田杏子
AD:   吉田 香(J-WAVE)
CP:   久保野永靖(J-WAVE)

お休みを終わらせる前に、どうぞ。

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海のむこう、広告のむこう。~細田高広 後篇

エスプレッソとユンケルに染まる激闘の行く末は。
細田さん、後篇です。

~~~~~

だいぶ時間を空けてしまいましたが、ヤング・ライオン参戦記の続きです。

【2日目】
ヤングライオンブースと呼ばれる場所に行くと、
大きな部屋がパーティションで区切られていました。
日本の国旗のついた一角を発見して、いよいよ作業開始。
朝9時から、20時まで粘ります。

【3日目】
昨晩からプレゼンの練習と、質疑応答の想定問答を
繰り返しているので、ぜんぜん寝られていません。
プレゼン前の緊張で、朝ごはんが食べられてません。
ふらふらになりながら、プレゼン会場の前で待つこと10分。

目の前のドアが開き、日本チームが呼ばれました。
審査員は、クライアントと世界のエージェンシーの偉い人たち(確か5人)。

さぁプレゼンです。

ここで、お題の復習
クライアントは、WFP(国連世界食料計画)。
途上国の小学校に給食を送る活動を行っている団体です。
ターゲットは、先進国の子どもたち。

普通に「寄付しよう」なんて言っても子供たちは振り向くわけない。
だから僕たちは、先進国の子どもたちの関心がある
テーマと繋げる必要があると思いました。

で、浮かんできたのが先進国の子どもたちの「肥満」の問題。
先進国の肥満と、途上国の餓餓を結びつけられないか。
コンセプトは、「FLAT THE WORLD WEIGHT」(世界の体重を平準化せよ)。
こどもたちが痩せた分だけWFPに寄付されるという、
寄付の仕組みをつくりました。(詳細は割愛。)
キャンペーンは、太っちょたちが世界の子どもを救う
ヒーローストーリー仕立てです。

プレゼン中、コンセプトの部分に関しては、ものすごくいい反応でした。
「ほうほうほう」と身を乗り出して聞いてくれているのが分かりました。
一方で、終盤になるにつれて、審査員がちょっと難しい顔になったのにも気が付きます。

プレゼン後の質疑応答。

審査員A 「いいアイデアだと思う。ただ一点気になるんだ。 
この企画は、WFPという国連団体のトーン&マナーにあっているかな?」
僕 「今までのトンマナは真面目過て、子どもたちに興味をもたれないと思ったんです」
審査員A 「うーん・・・」
審査員B 「太っちょたちは、気分を悪くしないかい?」
僕 「いえ、むしろ彼らを勇気付ける活動にしたいと思います」

そして、その日の夕方に結果が発表され、見事「敗戦」が決まるのです。
グランプリはオーストラリアチームの「Abolish the penny」(ペニーをなくせ)。
世界の各国の最小単位のコインを絶滅させよう、というキャンペーンです。

明日すぐにできる実現性、コストパフォーマンス、提案性、
などが総合的に高評価だった模様。

ショックでした。
求められていたことは普段の仕事と変わらないというのに、
「カンヌだから」「コンペだから」と、プレゼン映えする大きなアイデアばかり
追いかけていたことに気付かされます。あぁ、僕らはなんと浮き足だっていたのでしょう

批評の対象としての「広告」ではなく、ビジネスツールとしての「広告」を評価する。
そんなカンヌ全体の流れが、ヤング部門にも押し寄せていたとも言えるかもしれません。

あれから一月たちますが、未だに思い出すと胸がヅキッと痛みます。
高校3年生の夏、剣道部の引退試合以来です。こんな気持ち。

あ、さらっと書くつもりが、
随分ダラダラと長くなってしまいました!
以上で、ヤングカンヌ参戦記、終わりです。

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八木田杏子 09年8月2日放送

MM1


マリリン・モンローの苦悩

マリリン・モンローは、愛される自信がなかった。

愛してくれようとする男があらわれると、不安になった。
この人は、本当の私を知らないから、優しくしてくれる。
すべてを知ったら、きっと、捨てられる。

だから男に、逆らえない。
だから男を、試そうとする。

極端に揺れる気持ちの狭間で、
アルコールに溺れて、乱れていく。

耐えきれずに夫が去ると、
ほら、やっぱりね、と言って、また酒を飲んだ。

幸せには慣れていないの、と呟きながら。

MM2


マリリン・モンローの葛藤 

男の傷を、男でうめる女がいる。

マリリン・モンローは、いつも、
新しい男の胸で、古い傷をいやした。

メジャーリーガー・ディマジオの乱暴さで傷ついたら、
作家アーサー・ミラーの繊細さで癒した。

ミラーの陰険さに傷ついたら、
俳優イヴ・モンタンの優しさで癒した。

振り子のように揺れて、
極端に違う男を、求める。

女を傷つけない男なんて、いないから。
マリリン・モンローの振り子は、とまらない。


MM3


マリリン・モンローの初恋

マリリン・モンローの初恋は、クラーク・ゲーブル。

二十年間、頭の中で思い描いていた人。
やっと会えたのは、映画「荒馬と女」の撮影現場。

砂漠での撮影は、過酷を極めたけれど。
ゲーブルだけが、マリリンの支えだった。

腕をからめて、こっそりキスをねだっても、
笑顔でかわされたけれど。

しっかりと目の奥をのぞきこんで、
「俺はお前の味方だ」と、言ってくれる。

カラダありきの男たちとは、違うから。

ゲーブルは、一生、初恋の人。

MM4


マリリン・モンローの誕生

ハリウッドの男社会を、生き抜くために、
マリリン・モンローは、タブーをおかした。

愛していない男を、利用したのだ。

ハリウッドで最高のエージェント、ジョニー・ハイド。
53歳の彼を、マリリン・モンローは虜にした。

女をもてあそぶハリウッドで、
男をひざまずかせた金髪の小娘。

その噂は、たちまち広がった。

一度イメージが汚れてしまうと、
どんなに演技の勉強をしても、
セックスシンボルから、抜け出せない。

愛していない男の手は、借りてはいけなかった。

MM5


マリリン・モンローの絶望

たくさん泣ける女は、キレイになれる。

涙でしかあらえない傷を、のりこえたとき、
女はキレイになれる。

マリリン・モンローは、まさに、
泣きつくす人生だった。

母親にすてられたときは、
毛布にうずくまって、泣いた。

プロデューサーに騙されたときは、
悔しくて、泣き崩れた。

夫に利用されつくしたときは、
声を殺して泣いた。

人を惹きつけてやまない、
マリリン・モンローの微笑みは、
涙からうまれた。


MM6


マリリン・モンローの憂鬱

カメラが止まっても、
マリリン・モンローは、演技を続けた。

自分がつくりあげた女になりきれば、
愛されると信じて。

お尻を大きくふるモンローウォークのために、
右のヒールを6ミリだけ短く。

眠るときは、シャネルの五番だけを、まとう。

3つの口紅を使って塗りあげた唇を、
つきだすようにして、笑う。

マリリン・モンローが完璧になれば、なるほど。
その仮面が剥がれ落ちるのが、怖くなっていく。


MM7


マリリン・モンローの終焉

男を追い越したとき、女の人生は、難しくなる。

夫は、仕事をやめろと言った。
成功していく妻に、嫉妬しているように見えた。

わずか9カ月の結婚生活が終わり、7年が経ったころ。

マリリン・モンローでいるために、
心が壊れてしまったとき、
抱きしめてくれたのは、あのディマジオだった。

そのときに、はじめて、
夫が、モンローをやめろと、言っていた理由を知る。

素顔のノーマ・ジーンで愛されるなら、
マリリン・モンローは、もう、いらない。


Marilyn Monroe8


マリリン・モンローの価値

女は若いうちが、華だ。

そんな考えを、覆すように。

マリリン・モンローは、
年を重ねるほど、自分の価値を上げていった。

二十歳のころは、グラビアモデル。
三十歳で、ハリウッドのスター。
三十五歳で、大統領をはじめ国民すべてを虜にする。

懸命に階段を昇りつづける人生が、突然、終わったあと。

マリリン・モンローは、女性の美の象徴になった。

8月5日で、モンローが亡くなって47年。

私たちはまだ、彼女を忘れることができない。

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古田彰一 09年8月1日放送

wanamaker


ジョン・ワナメーカー
  

アメリカのデパート王、
ジョン・ワナメーカーが、
広告について語ったことがある。

 「広告費の半分は無駄だということがわかっている。
 しかしどっちの半分が無駄なのかがわからないんだ。」

ネット広告の時代になって、
広告は科学的になったと言われるけれど。

狙い通りに人の心が動かせるほど、
ニンゲンはシンプルじゃない。

少なくとも「この広告は必ず効きます」
なんて語るクリエイターのプレゼンは、
話半分に聞いておいた方がいいようだ。

ian


イアン・ソープ

泳ぐスピードが一直線に速かったことから
「魚雷」ともあだ名された、イアン・ソープ。

シドニーオリンピックで金メダルを連発したあと、
彼はこう語った。

 「金メダルは僕のゴールではありません。
 金メダルを取ったあとの10年を意識していました。」

プールの壁で止まるのが、ふつうのスイマー。
壁の向こう側までたどり着こうとするのが、金メダリスト。

もしもいま、あなたが何かに迷っているとしたら。
ゴールをあえて遠くに置いてみるといい。

気づいたときには、「魚雷」のように
はじめのゴールは突き抜けている。

Feldman


モートン・フェルドマン

モートン・フェルドマンの曲は、退屈だ。

たとえば「フィリップ・ガストンの為に」は4時間。
「弦楽四重奏曲第二番」は6時間。
その間、ひたすらに抑揚のない演奏がつづく。

もちろんCD一枚には収まらない。
演奏会は腰痛持ちの人には気が遠くなる長さだ。

しかしそんなフェルドマンには、
意外にも日本人のファンが多いという。

枯山水の庭に水の流れる音を聴き、
蛙が飛び込む古池に無限の静寂を感じる日本人。

一見退屈なフェルドマンの音楽は、
音と音の間の空白に耳をすますことができれば、
永遠に飽きの来ない宇宙のメロディとなる。

bergman


イングリッド・バーグマン

美人を見慣れているはずのハリウッドでも、
イングリッド・バーグマンの美貌は群を抜いていた。

数々の作品で知的な美しさをふりまき、
生涯で三度ものオスカーを獲得。

苦労を知らないエリート女優のイメージがあるが、
実際のイングリッド・バーグマンはまったく逆だった。

 「私は、できなかったことは後悔しない。
 やらなかったことだけを後悔する。」

一流の監督たちが音を上げるほどのチャレンジ魂。
美人でガッツがある女性は、素敵というより無敵です。

darwin


チャールズ・ダーウィン

 最後に生き残るのは、
 強い生き物ではない。
 賢い生き物でもない。
 変化できる生き物だ。

この言葉は、進化論で有名なダーウィンが
「種の起源」の中で語ったとされる。

しかしどこを探しても、
そのような記述は見つからない。

きっと、ダーウィンならそんなことを言ったはずだ、
いや、言っているに違いない、
というか、言っていて欲しい。

変化の激しいこの時代を生きていく勇気が欲しいから。
人々の思いが集まり、進化して、創り出された言葉だった。

 最後に生き残るのは、
 強い生き物ではない。
 賢い生き物でもない。
 変化できる生き物だ。

090801-nomura


野村克也

楽天イーグルスの監督、野村克也は
人を育てる天才と言われる。

人を育てるにはとにかく褒めることだ、と言われるが
野村監督は3分の1しか人を褒めない。

まず、まったく話にならない段階では「無視」する。
少し、見込みが出てきたら「褒める」。
そして中心人物に成長したら、「非難する」のである。

だから褒めるのは全体の3分の1。
この育て方で、江夏が、池山が、古田が、
スーパースターに成長した。

さて、若きヒーロー、マーくんにはどんな声を掛けるか。
野村監督のセリフは、試合よりも楽しい。

tiger


タイガー・ウッズ

生タイガー・ウッズに憧れて、
プロゴルファーを目指す若者は、世界中に数多い。

彼のプレイを徹底的に研究し、
肉体とメンタルを鍛える。
いつかタイガーに追いつく日を夢見て。

しかしそんな次世代の卵たちに、
タイガーはあっさりと言う。

 「次のタイガー・ウッズになろうとしちゃダメだ。
 自分のベストを目指すべきだ。」

その人を目標にする限り、
その人を超えることは出来ない。

本当に憧れるべき相手は、
まだ見ぬ未来の自分なのかもしれない。

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海のむこう、広告のむこう。 〜 細田高広篇

もう本当にカンヌって何だっけ、
かもしれませんね。

こうなったら来年のカンヌまでやって
リアルタイムのフリをしたいです。

今回は少し趣向を変えまして。

前回、ホテルでばったり出くわした
ヤングカンヌ代表の古田組・細田さん。
日本代表。
ジャパン。
そんな貴重な話を聞かないなんて。
ということで、
その激戦の模様をつづっていただきました。
どうぞ、お楽しみください。

〜・〜・〜

カンヌのホテルで小山さんに出くわしたとき、
僕が「うわっ。何でここに!」と大げさに驚いてるのに、
小山さんたら「あ、ども。」と軽く会釈するだけ。
まるで渋谷あたりですれ違ったかのよう。
あまりの自然さに「まだ夢でも見てるのかな」と混乱したほどです。

それにしても、あのときの僕の姿と言ったら。
寝癖そのままの爆発ヘアーに、ださいパジャマ、
ひしゃげたメガネに、むくんだ顔。
あぁ、お恥ずかしい。

でも無理もないのです。
あの時は、コンペに負けた悔しさで
およそ1日半「ふて寝」した直後だったのですから。

そう。今回僕はカンヌでヤング・ライオンという若手(28歳以下)の
コンペに参加していました。
ヤング・ライオンにはフィルム、プレス、サイバー、メディアの
4部門があり、僕が出場したのはメディア部門。
雑誌とか、テレビCMとか、屋外広告とか、ウェブとか
メディアを自由に組み合わせてひとつのキャンペーンを提案します。

スケジュールは以下の通り。3日間にわたります。

1日目 16:00 オリエン(課題発表)
2日目 08:00−20:00 (制作作業)
3日目 プレゼン 各チーム5分 スライド10枚

今年のクライアントは、WFP(国連世界食料計画)。
世界の発展途上国の小学校に給食を送る活動を行っている団体です。
お題は、「先進国の子どもたちに活動の意義を伝え、自分ごと化させ、
寄付をさせるためのコミュニケーションを考えよ」というもの。
想定予算はおよそ5000万円。

25カ国の代表が一部屋に集まって話を聞くのですが、
みんな28歳以下に全然見えません。
「あの男強そう」とか「ケンカしたら負けるよね」とか
もうひとりのパートナーと、意味も無くブルブル怯えていました。

オリエンが終わると、皆、一斉に作戦会議を始めます。
会場の中で考えると煮詰まりそうだったので、
僕たちは会場側のカフェに移動し、とりあえず
お互いのアイデアを練ることにしました。

カンヌの心地よい風が眠気を誘います。
なんと仕事に向かない幸福な気候なのでしょう。
それをエスプレッソと日本から持ってきた
粉末ユンケルでやっつけながら、およそ2時間後。
2人のアイデアを元に議論開始。
徐々に日が落ち始めた頃、ようやく提案の筋が見え始めます。

僕はコンセプトやメッセージやらを詰め、
パートナーはキャンペーン展開をするメディアを考え、
再び持ち寄って・・・と繰り返しているうちに
あっという間に夜が明けました。

さぁ、2日目はいよいよ制作作業です。

皆さんなら、どんなキャンペーンを考えますか?

【つづく】

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細田高広  09年7月12日放送

Cafe_de_Flore


カフェ・ド・フロールに集う人々① アポリネール

1911年のある日。
詩人のアポリネールは、パリのさびれたカフェに立ち寄った。
彼は安心して席が確保できることを気に入り、
カフェを自らの職場にしてしまう。

以来、食事の時間ともなると、
仕事仲間や友人をカフェに呼びよせては、
様々な議論を楽しんだ。

やがて集まってきたのは
ピカソ、キリコ、ダリ、アンドレ・ブルトン。
お酒と食事と議論を原料にして、
キュビズムやシュルレアリスムなどの
芸術運動は生まれた。

カフェ・ド・フロール、
アポリネールの見つけたさびれたカフェは、
一気に文化の中心地となった。

andre_breton


カフェ・ド・フロールに集う人々② アンドレ・ブルトン

1924年。詩人アンドレ・ブルトンは、
カフェ・ド・フロールに集う仲間達とシュル・レアリスム宣言を発表。
言葉の力で芸術運動を主導した。

ある日、街なかで浮浪者を見かけたブルトン。
「私は目が見えません」と書かれた紙を持っているが、
通行人は寄りつきもしない。
見かねたブルトンは、彼に近寄、あることをする。
するとどうだろう。すれ違う人々が次々とお金を恵み出したのだ。

実は彼、紙の言葉をこう書き換えていた。

春がもうすぐやってきます。僕には、何も見えないけれど。

言葉は、ときに魔法に変わる。

seine


カフェ・ド・フロールに集う人々③ ジュリエット・グレコ

シャンソンの定番、「枯葉」。
この曲を出世作としてスターになった
ジュリエット・グリコ。

その彼女と恋に落ちたのが、
JAZZの帝王マイルス・テイビス。
1949年二人は手を取り合ってセーヌ湖畔を歩き、
カフェ・ド・フロールでは
サルトルやボーヴォワールとも語り合ったという。
しかし、女神と帝王の恋は、二週間しか続かなかった。

帰国後、マイルスは「枯葉」をジャズで演奏する。
その演奏がきっかけで、「枯葉」はジャズの定番にのし上がったのだ。

あのとき、演奏するマイルスの脳裏では、
グレコが歌っていたに違いない。

Jean_Cocteau


カフェ・ド・フロールに集う人々④ ジャン・コクトー

パリにあるカフェ・ド・フロールの常連で
ピカソとも仲の良かったジャン・コクトー。
彼は20の顔を持つ芸術家と呼ばれた。

詩人として脚光を浴びたかと思えば、
絵を描き、小説を書き、オペラの台本を手がけ、
果ては映画にまで進出した。

ひとつの仕事が終わると、私は逃げ出す。
経験や習慣なんて、まっぴらだ。

何かに慣れることは、自分を硬直化させることだから。
昨日と同じ自分を、コクトーは許せなかった。

私は、いつでも未熟でいたい。

そう。経験に頼ってばかりでは、僕たちは変われない。

gogh


カフェ・ド・フロールに集う人々⑤ カール・ラガーフェルド

パリコレの時期、夜中のカフェ・ド・フロールは
デザイナーたちの溜まり場になる。
カール・ラガーフェルドも、そこに顔を出すひとり。

フェンディ、シャネル、クロエなど
トップブランドのデザイナーをつとめながら
自身のブランドまで展開する男。

そんな彼が2000年に
100キロを越えていた体重を、
いっきょ42キロ減らして周囲を驚かせた。

なぜ、急にダイエットをしたのか。
理由は極めて単純だ。

かっこいい細身のスーツを、着たかったから。

彼は言う。

ファッションとは、いちばん健康的に
体重を落とせるモチベーションである。

Georges_Seurat


カフェ・ド・フロールに集う人々⑥ 山下哲也

曲芸師のように大胆にトレイを操る。

パリで1850年代に開業したカフェ・ド・フロール。
そこで働くギャルソンを評した、哲学者サルトルの言葉だ。

そのカフェで、今、日本人がひとり働いている。
名を、山下哲也という。

生粋のフランスしか雇ったことのないお店だ。
「なぜ日本人がいるのか」と言われることもある。

日本でカフェを開けば簡単なのに。
と言うと、山下は流暢なフランス語で応える。

「それじゃ、簡単すぎる。」

なるほど、彼は根っからの曲芸師なのだ。

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八木田杏子  09年7月12日放送

Woman

ボーヴォワールへの質問

人は女に生まれるのではない。女になるのだ。

そんな言葉を残したボーヴォワールさん、教えてください。
こんな時代に、どうやって女になれば、良いのでしょう。

男に守ってもらえる女では、いられない。
男と肩を並べる女は、たたかれる。

結婚をすれば安心、ではない。
仕事をすれば立派、でもない。

女はこうあるべき、というカタチが無くなって。
自由にはなれたけれど、
ときどき、見失いそうになるのです。

ボーヴォワールさん、教えてください。

もしあなたが、こんな時代に生きていたら。
どうやって女になるのでしょう。

Sartre_et_Beauvoir


ボーヴォワールの答え

人は女に生まれるのではない。女になるのだ。

そんな言葉を残したボーヴォワールさんは、教えてくれました。
こんな時代に、どうやって女になれば、良いのかを。

恋から、逃げてはいけない。

自分の身を滅ぼすとしても、
信じたくなる恋から、目をそらしてはいけない。

でも。

恋に、逃げてはいけない。

女が生きるのは、恋愛だけじゃない。
男のように、自分の人生と使命を、大切に。

ボーヴォワールさん、ありがとう。

それができたら、きっと。
あなたのように、女になれる。

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マイケル嫌いだったけど・・・

「マイケル嫌いだったけど、これ読んで好きになったよ」
と友人が電話をしてきてくれました。

1980年生まれの私達は、
彼の音楽よりもゴシップのほうが、記憶に焼き付いています。
だから、金曜日の夜に、
「今からマイケルを書こうよ」と誘われたときは、ためらいました。

熱く語るディレクターの千葉さんに、
私がぶつけた言葉は、
「マイケルの少年愛は、どう思いますか?」

千葉さんの答えは、
「あれはホモセクシャルな愛ではなく、純粋な友情だよ。
マイケルが信じられるのは、動物と子供だけだったんだ」

それは、私には無い視点でした。
もし、「マイケルほどの天才なら、何しても許されるよ」
という答えだったら、書けなかったかもしれません。

私には真実は分からないけれど。
マイケルを信じる千葉さんを信じて、書こうと決めました。

マイケルを紐解いていくと、
彼の才能や完璧さ、苦しみや喜びが、どんどん見えてきて、
こんな人を、よく知らずに嫌ってしまうのは、
もったいないと思うようになりました。

明るくなる頃に書き上がった7本の原稿は、
一夜漬けの拙さがあったのですが、
古田さん、千葉さん、VieVieさんのおかげで、
マイケル追悼特集として完成しました。

私とおなじように、
あたらしいマイケルファンが誕生しますように。

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細田高広 09年6月28日放送

1.5

クリント・イーストウッド

若きクリント・イーストウッドに、
銃より口を多く使う、
おしゃべりなガンマンの
役がまわってきた。

脚本を読んだ彼は、
ガンマンが語り過ぎることに
どうも納得がいかず。
すぐさま監督に詰めよった。

見る側に考えさせるのが、A級映画。
すべて説明してしまうのは、B級だ。
観客を、みくびってはいけない。

そう言うと彼は自ら、
10ページ分のセリフを、
わずか1行に書き換えた。

マカロニウェスタンの名作、『荒野の用心棒』。
無口なガンマンは、こうして誕生した。





2

ジョン・ケージ A

作曲家ジョン・ケージ。
彼の代表作を、聞いてみよう。

何も聞えない?
いや。
あなたは確かに聞いている。

1940年代の末。
『無音』を聞くべくハーバード大学の
『無響室』へ入ったジョンは、そこでもなお、
血液や神経の音が聞えたことに驚く。

風が、心臓が、空調が、
全てが音を持つこの世界で、
完全な無音などありえない。

そう気付いた彼は「4分33秒」を作曲した。
沈黙でできた4分33秒の音楽。

さぁ、もう一度少し聞いてみよう。

あなたには、何が、聞こえましたか?

2.5

ジョン・ケージ B

その音楽は、
2001年9月5日ドイツで始まった。

無音パートが1年半続き、
2003年には最初のコードが鳴らされた。
2006年にコード変わり、
2008年に6番目の音が鳴り、
その音楽は、まだ続いているどころか
2639年まで終わらない。

600年以上かかる音楽を、
馬鹿馬鹿しく思うとき。

同時に、
分刻みで動く一日も同じくらい
馬鹿馬鹿しく思えてくる。

おそらくそれが、
作曲者ジョン・ケージの狙いなのだ。

“AS SLOW AS POSSIBLE”

その曲は、今日も、のんびり、続いている。

3

ジャンヌ・モロー

女優、ジャンヌ・モロー。

映画「突然炎のごとく」で
自由奔放な主人公を演じた彼女は
美しいだけではない
新しい女性像を表現した、と絶賛される。

公開後「主人公は私そのものです」
という内容の手紙が、
世界中から届いたほど。

そんな彼女が、
理想の男性像について、
こう語っている。

名声も知性もお金もみんな私がもっている。
だから男は美しいだけでいい。

現実の彼女は、
スクリーンの中より、革新的だった。


4

スパイク・ジョーンズ

ブランド会社の経営者。
TV番組のプロデューサー。
映像作家。俳優。
そして、映画監督。

これらの肩書きは、全て一人の男、
スパイク・ジョーンズのものである。

ジャンルの壁を軽々飛び越え
次々と新しい驚きを世に「発信」する彼。

その頭の中には、どれだけ緻密で戦略的な
思考回路が巡っているのだろう。

俳優マルコヴィッチは、こう証言する。

スパイクには、語彙が数えるほどしかない。
「それはいい!」「驚いた!」「クレイジーだね!」。
ほんと、なんでも面白がるんだ。

誰よりも発信する男は、
誰よりも受信する男でもあった。


5

セルジュ・ゲンスブール 

人生の成功は、どう定義すれば良いだろう。

セルジュ・ゲンスブールは、
自らのルックスにコンプレックスを抱えた、
実に気弱な男だった。

コンプレックスを燃料に、
曲を書き、歌をうたい、映画を撮り、
ポップスターになった。

気弱な自分を偽るように
テレビの前でお札を燃やし、
挑発的な態度をとることで、
若者たちの尊敬を勝ち取った。

だが結局、コンプレックスは、
最後まで拭えなかった。
そんな生き様を、彼は自らこう評している。

全てにおいて成功したが、人生には失敗した。

6

パブロ・ピカソ

本当の怒りとは、案外、静かなものだ。

1940年、
ドイツ軍がパリを占領した際、
多くのアトリエが、
ナチスの検閲を受けることになった。
農民などを描いた具象画以外は、
すべてが、退廃芸術と見なされたのだ。

とあるアトリエで。
ナチスの検閲官が、泣き叫ぶ女性や狂った馬の
描かれた壁画の写真を見つけた。

「これを描いたのはあなたですか?」
検閲官がアトリエにいた男に尋ねると、
男は静かに答えた。

いや、違う。きみたちだ。

男の名は、パブロ・ピカソ。
壁画のタイトルは、『ゲルニカ』といった。


7

ブライアン・イーノ 3.25秒の音楽

デビッドボウイやU2
のプロデューサーにして環境音楽の創始者、
ブライアン・イーノ。
彼の元に、ある日一風変わった作曲依頼が舞い込む。

人を鼓舞し、世界中の人に愛され、
明るく斬新で、感情を揺さぶられ、
情熱をかきたてられるような曲。
ただし、長さは3秒コンマ25

アイデアに悩むスランプ期にあったブライアンは、
「待ち望んでいた難題だ!」と快諾。

やがて生まれた音楽とは、

そう、あのWINDOWS 95の起動音。

パソコン時代を告げるファンファーレとして。
世界のデスクで奏でられた。

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八木田杏子 09年6月27日放送

1

マイケル・ジャクソンの才能

その歌声を聞いた誰もが、自分の耳を疑った。

大人には出せない、澄みきった声。
子供には持てない、確かな音程とリズム。

不可能を可能にしたのは、
わずか5歳のマイケル・ジャクソン。

歌うことが、好きで好きで、たまらない

その思いを抑えきれず、
はじけるような笑顔で、ステップを踏む。

少年の濁りのない声は、
大人の濁った心も、澄み渡らせていく。

5歳のマイケル・ジャクソン。

天使の歌声をもつ少年は、天使ではいられなくなる。



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マイケル・ジャクソンの出現

楽しいから歌うのは、アマチュア。
辛くても歌うのが、プロフェッショナル。

11歳のマイケル・ジャクソンは、
もう、プロの顔になっていた。

ジャクソン5の一員としてメジャーデビューした途端、
全米ヒットチャートのNO1に躍り出た。

いちばん小さな少年が、リードボーカルだった。

11歳の少年のパフォーマンスに全米が沸いた。
いちばん真剣に歌っていた。
無心の笑顔で。

11歳のマイケル・ジャクソン。

それはもう、プロの顔だった。

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マイケル・ジャクソンの独立

人形のように愛らしい少年も、
人間の生々しさをもつ青年になる。

声変わりをしたマイケル・ジャクソンは、もう少年ではない。

音楽プロデューサーの
クインシー・ジョーンズと出会ったとき。

マイケルは尋ねた。

誰か僕に合うプロデューサーはいないかな

すると、クインシーはこう答えた。

私じゃ駄目かな

クインシーの手ほどきで、
マイケルは作詞・作曲を手がける。

20歳のマイケル・ジャクソン。

大物プロデューサーは、人形を人間に変えていく。

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マイケル・ジャクソンの拡大

見える壁は壊すことが出来るけれど
差別という見えない壁は、壊し方すらわからない。

当時、MTVでは黒人の作品は放送されなかった。
その壁に風穴をあけたのは、マイケル・ジャクソン。

1983年1月。

「Billie Jean」が、
MTVで繰り返し流される。

輝くようなマイケルがそこにいた。

そのときは批判的だった一部の人間も、
12月に「Thriller(スリラー)」が公開されると、口を閉ざした。

25歳のマイケル・ジャクソン。

彼はそのまま、頂点までのぼり詰めた。

どんな壁も、マイケルの音楽を閉じ込めておくことは出来なかった。

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マイケル・ジャクソンの白と黒

「白人も黒人も関係ない」
と、マイケル・ジャクソンは歌う。

白人と黒人の関係に、
誰よりも苦しんでいたから。

1991年に発売された「Black or White」。
違いを乗り越えようとする歌は、世界を動かした。

世界20カ国以上でナンバーワン。
全米チャートで、7週連続ナンバーワン。

それでも、マイケルは満たされない。
お金も地位も名誉も、すべてを手に入れたのに。

33歳のマイケル・ジャクソン。

白い肌になりたくて、なりたくて。
生まれたときとは違う姿に、なっていく。


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マイケル・ジャクソンの夢

天使の歌声を、お金に換えていく。
そんな大人たちに囲まれていたマイケル・ジャクソン。

期待に応える少年を演じながら、心の中に壁をつくった。
本当の自分を守るために。

カリフォルニア州サンタバーバラの「ネバーランド」。
そこは、マイケルの「砦」だった。

そこに素顔のマイケルがいた。
動物たちと戯れ、子供たちと遊ぶ。

マイケルの心の中は、「大人立ち入り禁止」だった。

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マイケル・ジャクソンの最期

天才といわれたエンターテイナーは、
自分の人生のラストを創りこめなかった。

ロンドンでのファイナル公演は、もうすぐだった。
マイケル・ジャクソンの人生の幕は、突然おろされた。

同時代を生きたマドンナはこう追悼した。

世界は偉大な人を失ったが、彼の音楽は永遠に生き続けます

映画監督のスティーブン・スピルバーグもこう語る。

マイケル・ジャクソンに匹敵する人はもう2度と現れないだろう。
彼の才能、驚き、ミステリーがマイケルを伝説にする

そして、最愛の音楽プロデューサー、
クインシー・ジョーンズはこうコメントした。

私は今日、弟をなくした。
私の心の一部も、彼と一緒になくなった


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