シュリーマン クリスマスプレゼント
1829年のクリスマス。7歳のハインリヒ・シュリーマンは、
父親から一冊の本をプレゼントされた。
イリアス
ギリシャの詩人ホメロスが書いた世界最古にして最高の叙事詩。
挿絵には古代ギリシャ軍に滅ぼされるトロイの街が描かれていた。
絵を見た瞬間、ハインリヒ少年の胸にひとつの夢が生まれた。
いつかトロイの遺跡を見つけてやろう。
そしてこの話が真実であることを証明しよう。
考古学の歴史を書き換える壮大な冒険が始まった。
シュリーマン クリスマスプレゼント
1829年のクリスマス。7歳のハインリヒ・シュリーマンは、
父親から一冊の本をプレゼントされた。
イリアス
ギリシャの詩人ホメロスが書いた世界最古にして最高の叙事詩。
挿絵には古代ギリシャ軍に滅ぼされるトロイの街が描かれていた。
絵を見た瞬間、ハインリヒ少年の胸にひとつの夢が生まれた。
いつかトロイの遺跡を見つけてやろう。
そしてこの話が真実であることを証明しよう。
考古学の歴史を書き換える壮大な冒険が始まった。
シュリーマン 40年越しの夢
トロイの遺跡を発掘したドイツの考古学者、
ハインリヒ・シュリーマン。
彼が最初に選んだ仕事は貿易商だった。
多額の発掘費用を稼ぐため、武器の密輸にも手を染めた。
しかし片時もトロイのことが頭を離れることはなかった。
仕事の合間を縫って古代ギリシャ語を学び、大学に通い、
ギリシャ人女性と結婚した。
1870年、仕事を引退した彼は、
新婚の花嫁を連れてついに発掘へと旅立った。
このとき47歳。実に40年越しの夢だった。
シュリーマン ヒッサリクの城壁
トロイの遺跡を発掘したドイツの考古学者、
ハインリヒ・シュリーマン。
ホメロスの叙事詩「イリアス」に魅せられた彼は、
100人の人夫を連れ、トロイがあったと言われる伝説の場所、
トルコのヒッサリクの丘へ向かった。
発掘から3年後の1873年、高さ6mの城壁が見つかった。
イリアスの王子パリスに奪われた妻ヘレネーを取り戻すため、
メネラーオス率いるギリシャ軍が攻め寄せる。
城壁の上に立ったシュリーマンの目には、
幼い頃に見た「イリアス」の挿絵が映っていた。
DieBuche
シュリーマン 遺跡の真実
1873年6月14日。トロイの遺跡を発掘したドイツの考古学者、
ハインリヒ・シュリーマンの前には、目もくらむ財宝が広がっていた。
8700点にのぼる装飾品の数々。中でももっとも素晴らしいのは、
1万6000個の純金を集めて作った、額から肩まで届く宝冠だった。
彼は泣きながら妻に冠をかぶせると、抱きしめて叫んだ。
おまえはトロイのヘレネーの生まれ変わりだ!
しかし冠は紀元前2300年頃の、もっと古い時代のものだった。
彼は発掘に夢中になるあまり、
トロイの遺跡を掘り抜いてしまっていたのである。
シュリーマン 夢への敬意
トロイの遺跡を発掘したドイツの考古学者、
ハインリヒ・シュリーマン。
彼が実際に見つけたのはトロイの遺跡の、
はるか下に埋まっていた青銅器時代の古代都市だった。
それでも考古学者たちは、彼にトロイ発見の名誉を与えた。
考古学がまだ学問として整備されておらず、
発掘技術にも限界があった時代に、
夢を追い続けた男に敬意を表した。
1881年、彼は改めて発掘したトロイの黄金を、
母国ドイツに寄贈し、ベルリンの名誉市民となった。
生涯、トロイの発掘を続けたという。
ツタンカーメン 最後のチャンス
1922年、イギリスの考古学者ハワード・カーターは、
崖っぷちにいた。
ツタンカーメン王の墓がどうしても見つからない。
25年間も探しているのに。
仲間の信頼も発掘資金も底を尽いた。
彼は資金提供者の元を訪ね、最後の支援を願い出た。
どこを掘るつもりか聞かれたカーターは、
王家の谷の地図を広げ、小さな一画を指差した。
資金提供者は言った。
私はギャンブラーだ。もう一度、君に賭けよう。
カーターの最後の挑戦が始まった。
ツタンカーメン 発見
1922年11月6日。
イギリスの考古学者ハワード・カーターが、
ツタンカーメン王の墓を発掘していると、
突然急な階段が現れた。
階段を降りると、封印された岩の扉があった。
扉に穴を開けて明かりを差し込むと、
数千年分の埃の中に何かがぼんやり浮かび上がった。
何も言わないカーターに痺れを切らし、
仲間が何か見えるか尋ねた。
だがカーターは、
すばらしいものです
としか言えなかった。
穴の中はあたり一面、黄金が輝いていた。
ツタンカーメン 花の色
1922年11月6日。
イギリスの考古学者ハワード・カーターが、
ツタンカーメン王の墓を見つけた。
墓にはファラオの生活がそのまま納められていた。
金や宝石に飾られた、たくさんの家具と服。
そして部屋の中央には大きな純金の棺。
蓋を開けると、宝石を散りばめた経帷子に包まれて、
ツタンカーメン王のミイラがあった。
顔は水晶をはめ込んだマスクで覆われ、
胸には様々な花で作った花輪が置かれていた。
3300年後の墓の中でも、
花はかすかな色合いを残していたという。
ツタンカーメン 呪い
1922年11月6日。
イギリスの考古学者ハワード・カーターが、
ツタンカーメン王の墓を見つけたときのこと。
突然、一羽のタカが現れ、西の空へ飛んで行った。
タカは古代エジプトで王家の象徴。
西はあの世がある方角だと言われる。
人々は死んだファラオの魂が、
墓を汚した者に呪いをかけたのだと噂した。
5ヶ月後。発掘資金の出資者、
イギリスのカーナボン伯爵が左の頬を蚊に刺された。
傷は化膿し、伯爵は敗血症でこの世を去った。
ツタンカーメン王のミイラを調べたところ、
伯爵と同じ場所に、全く同じ傷があった。
ツタンカーメン
1922年11月6日、
イギリスの考古学者ハワード・カーターが、
ツタンカーメン王の墓を発掘した。
それから7年間で、発掘に関わった人々のうち
12人が次々と謎の死を遂げた。俗に言う、
ファラオの呪い
である。
しかしもっとも呪いを恐れなければならないはずの男、
ハワード・カーターはこの噂を笑い飛ばした。
カーターがこの世を去ったのは、発掘から17年後の1939年。
64歳という当時の平均寿命以上の年まで、充実した人生を送った。
死因はもちろん自然死だった。
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