佐藤理人

佐藤理人 13年3月9日放送



アーリーロケットメン③「ロー」

弾丸人間

の異名を持つアメリカのスタントマン、
ロドマン・ロー。

彼は高層ビルや自由の女神から
パラシュートで飛び降りるだけでは飽き足らず、
20キロ先の町までロケットで飛ぶことを計画。

しかし彼のロケットは、
大量の火薬を積んだだけの巨大な筒。
案の定、大爆発を起こした。

奇跡的にかすり傷で済んだ彼は、
すぐに再挑戦したがったと言う。

どうやら肝っ玉まで弾丸だったらしい。

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佐藤理人 13年3月9日放送



アーリーロケットメン④「キバルチッチ」

ロケットエンジンの理論を発見したのは、
皇帝の暗殺者だった。

ロマノフ王朝の皇帝アレクサンドル二世を
三度も付け狙って暗殺した過激派グループ
「人民の意志」の一員、ニコライ・キバルチッチ。

彼は処刑を待つ牢獄の中で、
火薬を段階的に爆発させれば、
ロケットを加速できるとひらめいた。

これこそ現代のジェットエンジンに使われている、

徐燃式爆発

と呼ばれる技術。

アレクサンドル二世は、
ロシアの自然資源を開発するために
優秀な科学者の育成に尽力した皇帝だった。

皮肉にもキバルチッチは、
その政策によって育てられた
爆破のスペシャリストだったのである。

彼の才能と執念深さを研究に生かしていれば、
と思わずにはいられない。

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佐藤理人 13年3月9日放送



アーリーロケットメン⑤「ツィオルコフスキー(前編)」

幼い頃に聴力を失ったことが、

ロケットの父

コンスタンチン・ツィオルコフスキーを本の虫にした。

孤独を癒すために読んでいた物理や天文学の本は、
やがて彼の生きる原動力になった。
着るものも食べるものも構わず、
頭の中は常に大空と宇宙のことでいっぱい。

独学で研究を続けた彼は、ライト兄弟が空を飛ぶ20年も前に、
宇宙を飛ぶロケットの理論を発見していた。

当時の飛行研究家は皆飛ぶことだけを考えていたため、
機体を軽い木や布で作るのが常識だった。

しかし既に宇宙を見据えていた彼は、
エンジンを乗せるには頑丈な金属の機体が必要と考え、
飛行船の模型を作って政府に助成金を申請した。

しかし役人たちはその模型を、

風のオモチャ

と言って相手にもしなかった。

世界初の飛行船「ツェッペリン号」が誕生したのは、
それから10年も後のこと。

健康な目や耳を持っていても、
何も見えず、聞こえない人のなんと多いことか。

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佐藤理人 13年3月9日放送



アーリーロケットメン⑥「ツィオルコフスキー(後編)」

宇宙への行き方も、
ロケットの作り方もすべてわかっている。
しかし彼は地球から一歩も動けなかった。

ロケットの父、
コンスタンチン・ツィオルコフスキー。

ロケット作りの理論や公式を
数多く発見したにもかかわらず、
使える研究費はわずかな奨学金のみ。
何一つ形にできないまま月日だけが過ぎていった。

1917年、ロシア革命が成功すると、
彼は科学アカデミーの正会員に選ばれた。
生活費も研究資金も
ソ連政府から充分に保障されたが、
すでに60歳。宇宙に行くには年を取り過ぎていた。

その代わり彼の周りには、
いつも若い学者が大勢集まって、
教えを請うようになった。

地球は人類の揺りかごである。
しかし人類はいつまでも
揺りかごに留まってはいないだろう。

ツィオルコフスキーの言葉通り、
ユーリ・ガガーリンが
人類史上初めて宇宙へ飛び出したのは、
その言葉の主が亡くなってから
26年も後のことであった。

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佐藤理人 13年3月9日放送



アーリーロケットメン⑦「コロリョフ」

第二次大戦後の空をどう守るか。

アメリカは飛行機を。ソ連はロケットを選んだ。
それが宇宙競争における両国の明暗を分けた。

1957年、ソ連のミサイル開発のリーダー、
セルゲイ・パヴロヴィッチ・コロリョフは
世界初の人工衛星「スプートニク」を打上げ、
そのわずか1カ月後には、ライカという犬を乗せた
「スプートニク2号」の打ち上げに成功する。

しかし彼の名は決して脚光を浴びることはなかった。
共産党の機関紙に

 K・セルゲーエフ

の名で記事が載ることがあったが、
それがコロリョフの偽名だった。

CIAに暗殺されることを恐れての配慮だったと言う。

文字通り、宇宙競争は命がけ、なのだ。

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佐藤理人 13年2月16日放送


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ミカ・ハッキネン①「運転免許」

 フィンランド人を雇えば勝てる

モータースポーツ界にはそんな格言がある。

彼らの運転技術が優れている理由。
それは免許に真剣に取り組む姿勢にある。

濡れた路面や夜間の走行も含め、
免許取得にはなんと3年もかかるのだ。

F1王者に2度輝くフィンランド人レーサー、
ミカ・ハッキネン。

 コーナーは考えながら攻めるのか?

そう聞かれた彼は笑って答えた。

 僕らは子供の頃から走ってるから
 自然と身に付いているのさ。

 イギリス人が25歳になって
 クリケットを習いはじめても、
 真髄を習得するには遅すぎるだろ?

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佐藤理人 13年2月16日放送


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ミカ・ハッキネン②「シス」

フィンランドはSで始まる4つの言葉で有名だ。

サウナ、シベリウス、サンタクロース。
そしてシス(Sisu)。

 フィンランド魂

を意味するこの言葉を訳するのはとても難しい。
英語の「ファイティングスピリット」に近いが、
本来の意味はもう少し複雑だ。

厳寒の長い冬を乗り切るたくましさと、
数百年に及ぶ他国の支配を耐え抜いたしたたかさ。
それは過酷な歴史の中で、
埋み火のように燃え続けてきた不屈の執念だ。

かの国が生んだ最高のレーサー、
ミカ・ハッキネンは言う。

 フィンランドは冬が長い。
 でも解っているんだ。
 太陽は必ず輝く、とね。

どんな劣勢でも
勝負を絶対にあきらめなかったハッキネンは、
あのF1最速の皇帝、

 ミハエル・シューマッハが最も恐れた男

として知られている。

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佐藤理人 13年2月16日放送


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ミカ・ハッキネン③「カート」

初レースの記憶は、父親の心配そうな顔だった。

フィンランド最高のF1レーサー、
ミカ・ハッキネン。

彼がジュニアレースを始めたのは6歳のとき。

  成績が下がったらレースは禁止

そう言われたミカは大嫌いな勉強を頑張った。
両親はそんな彼を力一杯支えた。

毎週末レース場に付添い、
仕事の他にバイトをいくつもかけもちして
レース費用をねん出した。

彼が速くなるにつれて、
家族はやがてチームになった。
家計は苦しかったけれど、幸せだった。

レースはハッキネン家に、
家族が一つになれる
かけがえのない時間をくれた。

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佐藤理人 13年2月16日放送



ミカ・ハッキネン④「Mr.クリーン」

 アイルトン・セナの再来

F1王者は数いれど、
そこまで言われた男は一人しかいない。
フィンランドが誇る最高のレーサー、
ミカ・ハッキネン。

「カミソリの切れ味」と呼ばれた
コーナリングテクニックで彼は、

 悪魔のように速い

と恐れられた。

あまりに速すぎて、
これ以上速く走ることは物理的に不可能と
コンピュータがはじき出したタイムを
上回ったことがあるほどだ。

しかしそれ以上に
彼のトレードマークとなったのは、
そのクリーンなレーススタイルだった。

他のドライバーに
危険なことや意地悪をしたことなど一度もない。

シューマッハをはじめ、ライバルたちはみな、
彼ほどフェアなレーサーはいないと断言する。

ブロックするのではなく、抜き返す。
誰かにではなく、自分に勝つ。

それが常にハッキネンのスタイルだった。

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佐藤理人 13年2月16日放送



ミカ・ハッキネン⑤「最悪のクラッシュ」

どんな天才レーサーも事故と無縁ではない。

フィンランド最速の男ミカ・ハッキネン。

1995年のオーストラリアグランプリで
コンクリートの壁に激突したハッキネンは、
舌を噛み切る意識不明の重傷を負う。

 正面からぶつからなければ、
 恐怖を克服することはできない。

病院のベッドでそう悟った彼は、
翌年の復帰戦を同じサーキットで迎える。

世界が注目する中、
クラッシュしたコーナーを難なくクリアし、
5位という好成績でゴール。

スタッフに拍手で迎えられた彼は、

 5位で騒ぐな!

と悔しがった。

不幸を糧にできるのもまた、天才の所以。

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