アーリーロケットメン③「ロー」
弾丸人間
の異名を持つアメリカのスタントマン、
ロドマン・ロー。
彼は高層ビルや自由の女神から
パラシュートで飛び降りるだけでは飽き足らず、
20キロ先の町までロケットで飛ぶことを計画。
しかし彼のロケットは、
大量の火薬を積んだだけの巨大な筒。
案の定、大爆発を起こした。
奇跡的にかすり傷で済んだ彼は、
すぐに再挑戦したがったと言う。
どうやら肝っ玉まで弾丸だったらしい。
アーリーロケットメン③「ロー」
弾丸人間
の異名を持つアメリカのスタントマン、
ロドマン・ロー。
彼は高層ビルや自由の女神から
パラシュートで飛び降りるだけでは飽き足らず、
20キロ先の町までロケットで飛ぶことを計画。
しかし彼のロケットは、
大量の火薬を積んだだけの巨大な筒。
案の定、大爆発を起こした。
奇跡的にかすり傷で済んだ彼は、
すぐに再挑戦したがったと言う。
どうやら肝っ玉まで弾丸だったらしい。
アーリーロケットメン④「キバルチッチ」
ロケットエンジンの理論を発見したのは、
皇帝の暗殺者だった。
ロマノフ王朝の皇帝アレクサンドル二世を
三度も付け狙って暗殺した過激派グループ
「人民の意志」の一員、ニコライ・キバルチッチ。
彼は処刑を待つ牢獄の中で、
火薬を段階的に爆発させれば、
ロケットを加速できるとひらめいた。
これこそ現代のジェットエンジンに使われている、
徐燃式爆発
と呼ばれる技術。
アレクサンドル二世は、
ロシアの自然資源を開発するために
優秀な科学者の育成に尽力した皇帝だった。
皮肉にもキバルチッチは、
その政策によって育てられた
爆破のスペシャリストだったのである。
彼の才能と執念深さを研究に生かしていれば、
と思わずにはいられない。
アーリーロケットメン⑤「ツィオルコフスキー(前編)」
幼い頃に聴力を失ったことが、
ロケットの父
コンスタンチン・ツィオルコフスキーを本の虫にした。
孤独を癒すために読んでいた物理や天文学の本は、
やがて彼の生きる原動力になった。
着るものも食べるものも構わず、
頭の中は常に大空と宇宙のことでいっぱい。
独学で研究を続けた彼は、ライト兄弟が空を飛ぶ20年も前に、
宇宙を飛ぶロケットの理論を発見していた。
当時の飛行研究家は皆飛ぶことだけを考えていたため、
機体を軽い木や布で作るのが常識だった。
しかし既に宇宙を見据えていた彼は、
エンジンを乗せるには頑丈な金属の機体が必要と考え、
飛行船の模型を作って政府に助成金を申請した。
しかし役人たちはその模型を、
風のオモチャ
と言って相手にもしなかった。
世界初の飛行船「ツェッペリン号」が誕生したのは、
それから10年も後のこと。
健康な目や耳を持っていても、
何も見えず、聞こえない人のなんと多いことか。
アーリーロケットメン⑥「ツィオルコフスキー(後編)」
宇宙への行き方も、
ロケットの作り方もすべてわかっている。
しかし彼は地球から一歩も動けなかった。
ロケットの父、
コンスタンチン・ツィオルコフスキー。
ロケット作りの理論や公式を
数多く発見したにもかかわらず、
使える研究費はわずかな奨学金のみ。
何一つ形にできないまま月日だけが過ぎていった。
1917年、ロシア革命が成功すると、
彼は科学アカデミーの正会員に選ばれた。
生活費も研究資金も
ソ連政府から充分に保障されたが、
すでに60歳。宇宙に行くには年を取り過ぎていた。
その代わり彼の周りには、
いつも若い学者が大勢集まって、
教えを請うようになった。
地球は人類の揺りかごである。
しかし人類はいつまでも
揺りかごに留まってはいないだろう。
ツィオルコフスキーの言葉通り、
ユーリ・ガガーリンが
人類史上初めて宇宙へ飛び出したのは、
その言葉の主が亡くなってから
26年も後のことであった。
アーリーロケットメン⑦「コロリョフ」
第二次大戦後の空をどう守るか。
アメリカは飛行機を。ソ連はロケットを選んだ。
それが宇宙競争における両国の明暗を分けた。
1957年、ソ連のミサイル開発のリーダー、
セルゲイ・パヴロヴィッチ・コロリョフは
世界初の人工衛星「スプートニク」を打上げ、
そのわずか1カ月後には、ライカという犬を乗せた
「スプートニク2号」の打ち上げに成功する。
しかし彼の名は決して脚光を浴びることはなかった。
共産党の機関紙に
K・セルゲーエフ
の名で記事が載ることがあったが、
それがコロリョフの偽名だった。
CIAに暗殺されることを恐れての配慮だったと言う。
文字通り、宇宙競争は命がけ、なのだ。
hugovk
ミカ・ハッキネン①「運転免許」
フィンランド人を雇えば勝てる
モータースポーツ界にはそんな格言がある。
彼らの運転技術が優れている理由。
それは免許に真剣に取り組む姿勢にある。
濡れた路面や夜間の走行も含め、
免許取得にはなんと3年もかかるのだ。
F1王者に2度輝くフィンランド人レーサー、
ミカ・ハッキネン。
コーナーは考えながら攻めるのか?
そう聞かれた彼は笑って答えた。
僕らは子供の頃から走ってるから
自然と身に付いているのさ。
イギリス人が25歳になって
クリケットを習いはじめても、
真髄を習得するには遅すぎるだろ?
camera-caritatis
ミカ・ハッキネン②「シス」
フィンランドはSで始まる4つの言葉で有名だ。
サウナ、シベリウス、サンタクロース。
そしてシス(Sisu)。
フィンランド魂
を意味するこの言葉を訳するのはとても難しい。
英語の「ファイティングスピリット」に近いが、
本来の意味はもう少し複雑だ。
厳寒の長い冬を乗り切るたくましさと、
数百年に及ぶ他国の支配を耐え抜いたしたたかさ。
それは過酷な歴史の中で、
埋み火のように燃え続けてきた不屈の執念だ。
かの国が生んだ最高のレーサー、
ミカ・ハッキネンは言う。
フィンランドは冬が長い。
でも解っているんだ。
太陽は必ず輝く、とね。
どんな劣勢でも
勝負を絶対にあきらめなかったハッキネンは、
あのF1最速の皇帝、
ミハエル・シューマッハが最も恐れた男
として知られている。
das farbamt
ミカ・ハッキネン③「カート」
初レースの記憶は、父親の心配そうな顔だった。
フィンランド最高のF1レーサー、
ミカ・ハッキネン。
彼がジュニアレースを始めたのは6歳のとき。
成績が下がったらレースは禁止
そう言われたミカは大嫌いな勉強を頑張った。
両親はそんな彼を力一杯支えた。
毎週末レース場に付添い、
仕事の他にバイトをいくつもかけもちして
レース費用をねん出した。
彼が速くなるにつれて、
家族はやがてチームになった。
家計は苦しかったけれど、幸せだった。
レースはハッキネン家に、
家族が一つになれる
かけがえのない時間をくれた。
ミカ・ハッキネン④「Mr.クリーン」
アイルトン・セナの再来
F1王者は数いれど、
そこまで言われた男は一人しかいない。
フィンランドが誇る最高のレーサー、
ミカ・ハッキネン。
「カミソリの切れ味」と呼ばれた
コーナリングテクニックで彼は、
悪魔のように速い
と恐れられた。
あまりに速すぎて、
これ以上速く走ることは物理的に不可能と
コンピュータがはじき出したタイムを
上回ったことがあるほどだ。
しかしそれ以上に
彼のトレードマークとなったのは、
そのクリーンなレーススタイルだった。
他のドライバーに
危険なことや意地悪をしたことなど一度もない。
シューマッハをはじめ、ライバルたちはみな、
彼ほどフェアなレーサーはいないと断言する。
ブロックするのではなく、抜き返す。
誰かにではなく、自分に勝つ。
それが常にハッキネンのスタイルだった。
ミカ・ハッキネン⑤「最悪のクラッシュ」
どんな天才レーサーも事故と無縁ではない。
フィンランド最速の男ミカ・ハッキネン。
1995年のオーストラリアグランプリで
コンクリートの壁に激突したハッキネンは、
舌を噛み切る意識不明の重傷を負う。
正面からぶつからなければ、
恐怖を克服することはできない。
病院のベッドでそう悟った彼は、
翌年の復帰戦を同じサーキットで迎える。
世界が注目する中、
クラッシュしたコーナーを難なくクリアし、
5位という好成績でゴール。
スタッフに拍手で迎えられた彼は、
5位で騒ぐな!
と悔しがった。
不幸を糧にできるのもまた、天才の所以。
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